かえるのブログ

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大友館庭園を訪ねて

 

戦国時代に九州六か国を支配した守護大名の大友氏は、大分市顕徳町一帯に大友館を中心とする中世の遺跡が発掘され、その存在が明らかになりました。大分市報に発掘の調査を基に庭園が整備され、6月5日に公開すると載っていましたので、早速デジカメを持って見学に行ってきました。ここ顕徳町は私の友人の家があったり、若い教職時分教え子の家があったりで、立ち退きになったのか、当時の街の様子が一変しており、見知らぬ土地に来たと錯覚を覚えました。

 

館について

 

大友氏館庭園の入口の案内板

 

大友館はかつて、この遺跡の南側に位置する上野丘に上原館(うえのはるやかた)と考えられていたようですが、1990年後半からの発掘調査により、北側に位置するこの広大な遺跡が館として存在が明らかになりました。

上野原館跡は東西130m、南北156mで、現在では土塁や堀の跡が残っているだけです。

 

館の全体図と説明版

 

発掘調査では15世紀~16世紀にかけての庭園遺構や敷地層、堀立柱建物跡などが発見され大型建物と推定されるようになりました。この周囲付近からは明との南蛮貿易による華南や東南アジアの陶磁器や、キリシタン遺物であるコンタツ(ロザリオ)やメダイ(メダル)が出土しています。陶磁器の多くは炎熱の痕が認められ、大友館周辺が焼き払われた事を物語ってています。

2019年度(令和元年)までに庭園を、2029年度(令和11年)を目途に館の中核施設(主殿)を復元するなど、歴史公園として整備する方針のようです。この史跡の一部である庭園は現在公開中です。

 

館の説明版を見入っていると老夫婦が近寄り、楽しく談話することが出来ました。その話の中で、な、な、何と、ご婦人のご実家が「戸次氏」だそうで戸次鑑連(べっきあきつら=立花道雪)の子孫とわかり、驚きました。不思議な程、史跡に関わる縁を感じました。

 

庭園について

 

庭園は約500年前大友家19代当主義長の頃に造られ、大友氏最盛期となる16世紀後半の21代当主宗麟、22代当主義統の時代池を中心とする庭園だったことがわかりました。発掘調査によって池の姿が当時のまま遺されており、復元整備によりその当時の池の様子が偲ばれます。東630、南北30mの池であたことが分かっています。これは中世における最大級の庭園とも言われています。

 

以下の写真のように池は海を表現されて、海に浮かぶ島を表した「中島」、石を敷き詰め岸辺を表した「州浜」、山を表した「築山」があります。その他、「景石」(庭石の中でも、景観を整えることを目的に設置された石)や「滝」が池の趣を表しています。

 

 

また池の特徴としては、白玉砂利が数多く敷き詰められ、発掘調査の結果、付近には建物があったと考えられているようです。
西の池は東池と比べると大きな石が少なく、小さな石を広く敷き詰めた「州浜」や奥に見える「南滝」など、全体を広く見せた"穏やかな景色"が特徴です。
東池は海に浮かぶ島を表現した「中島」や巨石が組まれた「東滝」、手前に見える「景石」(護岸石組)などで構成されており、西池とは異なり、力強さを感じられる「躍動感」に満ちた景色"が特徴です。
 

東池 

 

西池

 

東池は遺跡を保護するため厚さ50cm程度の土を被せ、景石の一部は、同じ場所にレプリカ(複製)を製作して配置しています。なお、レプリカを製作した後本物の景石は、遺跡の保護のため、同じ場所の地下に埋め戻しています。西池も同様に20cmの土を被せており、景石は全て実物をそのままのように、見ることが出来ます。

 

南蛮BVNGO交流館

 

南蛮BVNGO交流館

 

 

交流館の正面玄関前に建立された大友宗麟の銅像

 

帰りに交流館に寄り、初夏の汗を拭き休憩しました。梅雨の晴れ間は湿気もなく、爽やかな好天に恵まれ良い一日を過ごすことが出来ました。この南蛮BVNGO交流館は以前まで「大友氏遺跡体験学習館」として、使用された建物を現在地に移転しました。