Harry Potter et l’Ordre du Phénix (La série de .../Pottermore from J.K. Rowling

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もう疲れた。おっそろしい長さ。なんだこれは。
紙にしたら1000ページ超えるくらいだったかな。もうしんどい。

『炎のゴブレット』で、「ん?おかしいぞ」と思い始めて、それでも気のせいだったかもと思って5巻目も読んだ少年読者はこれでようやく認めざるを得なくなるのだろう。あのハリーポッターはもう帰ってこないのだと。

ハリーポッター、1〜3巻までの面白みというのを簡単に要約すると、
「親が死んだせいで、親戚の家でひどい扱いを受けてきた少年が」
「ある日突然舞い込んだ手紙によって、魔法学校に入学することになり」
「ナウでヤングな少年少女たちとともに、一人前の魔法使いになる特訓にはげむ」
って感じだ。マグル界でのいじめの酷さは、継母にいじめられるシンデレラを思わせるし、自分は無能だと思っていたけど実は生まれつきの有名人で、天才的な箒乗りの才能があり、頭はそこそこだけど、悪と戦うときは謎のおそるべき力を発揮する・・・となれば、これはありとあらゆる物語に共通する要素からできていることがわかるだろう。

 そう、読まれるためには、まずはちゃんとテンプレを押さえなければ、幅広い読者を獲得できない。
 そんな学園青春モノ(昨今のアニメでは「魔法」なんて珍しくもなんともないし、イギリスの由緒ただしき児童文学で魔法が使えない世界なんて少数派だろうから、そこで差別化されているわけではない)で、毎回きちんと起承転結がつけられていたはずだったのに、いつまでも「復活する」詐欺を続けるかに見えたヴォルドゥモールが本当に復活しちゃってからは、もうだだすべりに、最後のラスボスとヒーローとの決戦まで進まざるを得なくなる。5巻での学園ものってのは、現実を直視せず「名前を言ってはいけないあの人が復活したなどとデマを流す輩には注意しましょう」とだけ繰り返す無能で弱い魔法省から送られてきた検査官であるピンクおばさんとの対決に終始するわけで、結局このおばさんはあまりにもカリカチュアされた、「現実を知らせようとする人を、反乱分子だと決めつける、味方陣営にいるはずなのに、敵以上にむかつく」輩であり、でもこのピンクおばさんを吐き気がするほど誇張して描いたせいで、ヴォルドゥモール君たちの陣営は最後の最後に「僕たちもいましたよ〜、忘れないでね〜?」とばかりに登場して、サクッとシリウスを殺して退散する、なんだかよく分からない展開になってしまっている。
 そう、つまり、4巻のラストで「さあ、ヴォルドゥモールが復活!からくも生き延びたハリーはどんな戦いを繰り広げることになるのか!?」と煽った末に、5巻で行われるのは、学校対魔法省のもう醜い内輪揉め。ヴォルドゥモール陣営はなんだかちまちまと「で、15年前の予言、ちょっと気になるんだけど、ハリーに取りに行かせようか」なんてやってる。
 それでもって現実逃避するためにハリーポッターを読もうとしたはずの少年少女は、この本のなかで逃れてきたはずの現実ばかりと向き合わされる。5年生になった彼らは学年末にBUSE試験というセンター試験みたいのを受けなければならない。そこで、一定の成績を残さなければ6年以降に当該科目を履修することができず、7年生で受けるフランスでいうバカロレア的なテストに挑戦する権利すら実質的に失われてしまう。
 つまり、ハリーの世界では、15歳の一発試験で、その学生の職業選択の可能性が大幅に制限されてしまうのだ。このあたりはずいぶんヨーロッパらしいなと思う。各自の適正を早めに見極めて、努力の方向性をあらかじめ限定することで、無駄な努力に時間とエネルギーを費やさせない。東アジアとは正反対の仕組みだと思うけど、その方が幸せそうだ。
 だから、ハリーもマクゴナガル先生に呼び出されて「あなたは将来どのような職に就きたいか考えていますか?」「ええと、なんとなく、オロール(闇払い)なんてかっこいいなあって思うんですけど」「それでしたら、・・・と・・・・で最高評価を獲得しないといけませんね、あなたの夢の実現のためなら私はこの身が滅ぶとも手伝いますよ」的に、先生が勝手に盛り上がってしまう。おっとっと、ハリーの軽い一言でどうも猛勉強しないと申し訳が立たなくなってしまったようだ。
 ああ、もう、いやなこと思い出させるなよ、ってね。

今回は最後のダンブルドア先生との対談がとっても長い、そして先生がずっとハリーにあやまっている。なんだか奇妙な光景だ。世界最強でいつもフォッフォッフォとか言いながら余裕で敵を倒していたかに見えた先生ももうお年だ。「君がうれしそうな顔を見ていると、どうしても残酷な真実を突きつける気になれなくてね。いつも「彼はまだ11歳だ、12歳だ、・・まだ若すぎる」と言い訳を探していたんだよ。それが後に多くの人の命を奪うと知っていてもね。私の過ちだ。」
 こういう風に勝手に同等の立場まで降りてこられると、「パパ、ママ、センコウ」といった絶対的な上位者に対して「ちくっしょおお〜」と怒りたかったハリーも怒りのはけ口を失ってしまう、そんなん言われたら校長室を破壊し尽くす気になれないじゃないですか。
 そうそう、ちょっと前の巻で「ハリーが自分がこの世界の主人公ではないということに気づき始めるはず」的なことを書いた気がするけど、それはなかなか悲劇的な方法で知らしめられる。ヴォルドゥモールは「あ、ハリーって誇大妄想癖があって、ヒーロー気取りが好きなようだな、ピコーン」という風にして、ハリーの「勇気」という最大の弱みに付け込む。グリフィンドールの美徳であったはずの勇気が、「自分が人を救おうなんて考えないで!あなたが動くとみんなが迷惑するのよ!」と頭を冷やすように叫ぶハーマイオニーに反発心を覚えさせる。
 そして、ハリーの心の支えであった「お父さんにそっくりだ」という言葉も、この巻ではもうハリーを喜ばせなくなる。「学校のあらゆるルールを破って、堂々と校庭を闊歩するパパってかっこいいなあ、たぶんフレッドとジョージのいたずら心をそのままに、ビルくらいイケメンにして、ハーマイオニーくらい頭がいいんだろうなあ」的に勝手に妄想を膨らませていたであろうハリーに冷や水が浴びせられる。ハリーのパパは、どっちかというとクラッブとゴイルを引き連れて弱いものをいじめるマルフォイにそっくりだった(いや、マルフォイはいつもハリーという強敵に立ち向かっているから、一人でしずかに本を読むスネイプ青年を逆さ吊りにして洗濯していないパンツを衆目にさらすジェームスはもっと悪いか)。
 
 ハリーポッターっていう本では、ムカつくやつは常にその肉体的特徴がばかにされるんだよなあ。検査官のピンクおばさんも、立っても座っても高さが変わらないくらいのチビで、指はボンレスハムで・・・って感じだし、いやそこが面白いんだけど、ベストセラーになるにつれその辺はうまく塩梅されていっているのだろう。髪ねとねとのスネイプ先生や、ネビルの復権なんかは、最初からそうだったかどうかしらないけど。あと、チョー・チャンはビッチだ、ジニー、君もな。まあ15歳とかだし、イギリスでいう「付き合う」っての境目がよく分からないが、「一緒に出かける」だもんなあ。
 結論としては、一冊の作品として見た時、今のところもっとも面白くない。なんでかというと、書きたいことが膨れ上がって、うまく一年の学園ものとして構成された「フィクション」の枠組みを崩壊させているから。まあそうなんだけれども、ハリーポッターを真面目に読む人からすれば、もっとも濃くて、本当の物語がスタートするのかもしれない。