真理とディスクール―パレーシア講義/筑摩書房
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これはとっても読みやすい。フーコーの講義なんだけれども、英語で行われたからかどうかは分からないが、非常に平明で簡潔で分かりやすい。パレーシア、なんていうとまたフーコーが難しい概念を提示しているのかと思ってしまうが、実はとっても簡単なこと。思っていることを臆せず言うってこと。言論の自由であり、行動の自由でもある。
王の行動を諌めるために、身の危険を冒して諌言すること、それがパレーシアの一例。フーコーが好きな権力とも関わってくる。自由に発言することが許されるのは、古代ギリシャでは、市民権を持つ成人男子だけであり、もっと後の世界にあっては、あるいは道化だけだったかもしれない。パレーシアという切り口から、誰もが知る事柄の新しい切り口を提示する、それがフーコーのやっていること。

このように、パレーシアの機能は、だれかに真理を示すことではありません。批判する機能を果たすのです。聞き手や話し手みずからを批判するのです。(19)

パレーシアは発言者が率直に語ることで、真理とある特有の関係を結び(自己批判か、他者の批判かを問いません)、自由と義務を通じて、道徳的な法則とある特有の関係を結ぶ言語活動です。(22)

真理とはなにか、ってことは難しい問題だ。そこで真理の明かされ方を研究してみようってこと。

王自身はパレーシアステース(パレーシアを行使する人のこと)ではありませんが、王が善き支配者であるかどうかを判断する基準は、王にパレーシアのゲームを演じる能力があるかどうかでした。善き王とは、ほんもののパレーシアステースが語るすべてのことをうけいれる王でした―たとえ、自分の決定を批判する言葉を聞くのが不愉快だったとしても。(27)

パレーシアのゲームに参加する勇気を持つ王は偉い君主だ。もちろん、パレーシアを行う人間はそれによって罰せられるかもしれない、だからなんども、「私はパレーシアを行使しますよ、それによって引き起こされるあなたの怒りを恐れているのですが、だからやっぱ行使しないでおこかな」とかいって、王にパレーシアのゲームに参加するように求めるわけだ。もちろん、その逆も然り、王からゲームに参加するよう怯える臣下を誘う事も多いな。(「怒らないから、ほんとのこと言ってみ」とかね、そう考えると、教室、取調室いろんなところで、パレーシアのゲームへの勧誘が行われているのだ。)


パレーシアの権利を失っているということ、それはいかなる種類の権力も行使できないということで、「奴隷の境遇」にあるということです。さらに市民がパレーシアの権利を行使できない場合には、支配者の権力に対抗できないということです。(36)

これは古代ギリシャの社会システムを思い起こす必要がある。市民権を持つ、成人男子だけが一人前の人間なわけで、それ以外の、女、子供、外国人はパレーシアを行使することが出来ない。パレーシアを行使するとは、単に言葉を好きに使うということだけではなく、好きに行動する、好きな風に暮らすということまでをも意味することなのだ。

そして言語活動としてのパレーシアは、発言における純粋な率直さにすぎず、真理を開示するための十分な条件ではありません。悪しきパレーシアがあり、無知なままに放言することも、パレーシアの一つだからです。(111)

ただ、ここで問題が、パレーシアそれ自体は好き勝手なことを話すということだけなので、その話されている内容が真実であることを意味しない。好き勝手に、無知な人々がパレーシアを行使すると、アテナイでのような衆愚政治となる。ほかには悪しきパレーシアがある、中世の修道院では沈黙が良しとされた、そうすると、パレーシアは無駄なおしゃべりとして断罪される。パレーシアの正しい行使が問題点となってくる。

そこでソクラテスが知りたがっているのは、ペロポネソス戦争でのラケスの功績の物語ではありません。ラケスが自分の勇気について、合理的でわかりやすい〈形〉を示したロゴスを語ることを求めているのです。このようにソクラテスの役割は、ある人が自分の生き方について、みずから合理的な説明をするよう求めることだと言えるでしょう。(142)

ソクラテスのよく分からない対話だけれども、フーコーの分析はなかなか鋭いなあと思った。みんなにいろいろなこと(愛とはなにか、勇気とはなにかetc)を語らせるわけだけれども、たぶんソクラテスはそこで語られている内容にはそんなに気を使っていない。むしろ、ものごとを語る際に、いかに合理的な言説を作成するかっていうこと見ているようだ。時に、結論それでいいの?みたいな対話の結論もあるけれども、それをこの観点から見ると、ソクラテス的には有意義な対話だったのだろうな。

ソフィストは勇気について非常に美しく、素晴らしい議論を展開することができますが、自分では勇気をもっていません。言葉と行為が一致しているのはソクラテスであり、そのことをラケスが証言しているのです。(146)

ソクラテスって戦争でも勇敢に戦ったんだね。

ディオゲネスはアレクサンドロスに、日向ぼっこのじゃまになるから後にさがってくれと命じます。アレクサンドロスがじゃまで、太陽の光が届かないというのは、ディオゲネスは自分が太陽との間で直接的で自然な関係を保っていることを主張するものです。これは神から生まれたアレクサンドロスは、太陽を体現した存在だという神話的な系譜を逆転させたものなのです。(179-180)

これなかなか納得した。このお話はみんな知っているけれども、そうか、そういった意味があったのか。こういったところがフーコーのすごいところなんだろうな。