最近、就職活動やなんやらの中

不運続きの私ですが、


昨日 私の大好きなGLAYのシークレットライブが

横浜 みなとみらいの日本丸前で行われたので

行ってまいりました。


人生、不調・不運続きでは決してないんだなと

思った一日でした。

いつ何時、どんなラッキーなことにめぐりあえるか

分からないものです。


<幕末・明治> miki の 史跡巡り帳
【神奈川県横浜市 『日本丸』 2009.6.6撮影】


ついでにですが、

私の尊敬する人物は

・土方 歳三さん

・司馬 遼太郎先生

・GLAYのTAKUROさん

です。


共通するのは、

みなさん一本筋の通った生き方をしている点です。


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そして、

今回は我がふるさと三池藩の志士 『宇佐益人』 さん

をご紹介したいと思います。


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まずは、宇佐さんの簡単な人物紹介から。


  宇佐 益人

 天保9年(1838)生

 明治22年(1889)没


  現在の福岡県大牟田市にある、

 草木八幡神社の神職。

 柳河藩国学者 西原晁樹、

 上妻(八女)郡の心学者 木屋徳令 等 

 に就いて学ぶ。


 気宇豪快、よく大義に通じた。


  22歳ごろから勤王の志を抱き、

 同志と上洛、三条、姉小路ら諸卿に謁し、

 王政復古の策を講じて在京の志士等に交わる。


 幾度か捕らえられ入獄の憂き目にも逢ったが、

 真木和泉、平野国臣、伴林光平、広田彦麿、

 大楽源太郎、副島種臣、江藤新平、西郷隆盛ら

 とも面識があった。


 大和の志士で、後の明治政府の要路に入った

 北畠治房の如き、4年間も宇佐家に留まっていた程である。


  明治10年前後の乱治まり、

 国会開設・政党論盛んとなるや筑後自白会の委員

 として上京奔走し、以後は詩歌に余世を送った。



<幕末・明治> miki の 史跡巡り帳



<幕末・明治> miki の 史跡巡り帳


【福岡県大牟田市 『宇佐益人の墓・一族の墓』

                 2007.5撮影】




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以上が簡潔な、

宇佐さんのご紹介です。


そして、次に出典名を控え損ねている資料から詳しく

宇佐さんの志士活動ご紹介したいと思います。


大牟田市立図書館の郷土資料から

以前コピーしていたもので、

福岡のどこかの地方新聞で

『私とご先祖』シリーズの中にて

ご子孫の庄山稔之(当時74)さんがインタビューに

答えていらっしゃいます。

数十年前の記事ではないかと思われます。


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『  桜田門外を鮮血で染め抜いた

  大老、井伊直弼暗殺が起こったとき、

  宇佐益人は京都にいた。

  幕府の要職にある者が白昼しかも浪士たちに

  襲われたとあっては、

  取り締まりも一段ときびしくなるのは当然。

  

  宇佐はホラ貝に六尺棒、山法師スタイルに変装して

  京都を脱出、

  生まれ故郷の草木八幡宮(大牟田市)に帰った。



<幕末・明治> miki の 史跡巡り帳
【大牟田市 『草木八幡宮』 2007.5撮影】



   もともと、草木八幡宮の宮司家の長男として育った

 宇佐は柳河藩校の伝習館で国学を学ぶなど、

 幼いころから尊皇思想にみがきをかけていたのである。


 帰郷後の宇佐は、お宮を勤王のアジトとして飛び回った。


 京都からの密書を胸に清川八郎が訪れたのも、

 そのころだし、

 肥後の宮部鼎蔵、

 筑前の平野国臣らが顔を見せたこともある。


 それに北畠治房は幕史からのがれ、

 四年もの間、宇佐家に居候していた。

 

  「十日も二十日も家を留守にするかと思えば、

   帰ってくるなり同志を十四、五人も引き連れてきて

   “メシの用意しろ”

   と命令するらしく、

   生前、祖母が困ったといっていました。


  宮司家筋といっても貧乏ですし、

  米を借り回ったり、火の車の台所をかかえて祖母も

  泣いたことでしょう。


  新政府樹立後、北畠さんが四年間の居候の

  お礼として陣太刀と歌を京都から私の家に送って

  くれていますが、

  北畠さんも祖母の苦労をそばで

  見て知っていたんでしょう。


   “マスからあふれるほどの米で祝いたい”

 

  といった意味の歌ですよ」


  と庄山さんはいう。


 宇佐益人は庄山さんにとっては祖父。

 正確にいえば庄山さんの妻、梅雨子さん(七六)が

 益人の孫なのである。


  「維新が落ち着いたあと、北畠さんが祖父に

   “佐賀県知事にならないか”

   といってきたらしいんですが、

   祖父は政界入りをきらい、断った。

   それが祖母にとって大きな自慢だったとみえて、

   私たちによく話してくれました」。


  

  地元の郷土史家、森清隆氏(大牟田史談会員)に

  いわせれば

 

  「大牟田で勝海舟の書と

   七卿落ちの一人東久世通禧卿の掛け軸をよくみかける」

 

  そうだ。


  そのどちらも出所を入念に調べると宇佐家が根源だとか。


  勝海舟の方はあと回しにするとして、

  東久世卿の方を梅雨子さんにたずねてみた。


  「祖母がいうには、

   五卿が太宰府に落ちてこられたあと、

   うち二人が宇佐家に遊びにこられたことがるそうです。


   二階に泊まられたこともあり、

   帰るときに自筆の掛け軸なんかを置いて去られた

   というんです。

   それが東久世卿だったのですね」

 

  との説明。


  「私なんか公卿さんがこんないなかの宮司家に遊びにきた

   なんてウソだろうと祖母にいったこともありますが、

   “私が東久世さんの寝床も準備したし、

    食事の用意もしたんだから本当だ”

   と祖母はいっていました。」


  ご主人の庄山さんはいまでも半信半疑の心境だという。

  とにかく男爵までになった

  北畠治房が居候第一号とするなら、

  東久世卿は二号というわけだろう。



  それでは勝海舟の方に移ろう。

 これは宇佐益人の子供である

 穏来彦(おぎひこ)の解説がいる。

 

 穏来彦は双生児の一人で、

 青雲の志を立て、

 明治の御世になって勝海舟の書生になった。


 そこで幾歳月を過ごし、

 あとで風雲急を告げる満州へ渡るわけだが、

 勝海舟から

 

 “貧乏したらオレの書を売って食いつなげ”

 

 と自筆の書をもらったそうである。


 それだけでなく、

 一度か二度、勝海舟自身も草木八幡宮に姿を

 見せたことがあり、



<幕末・明治> miki の 史跡巡り帳
【大牟田市 『草木八幡宮』 2007.5撮影】


 戦前までは八幡宮の入り口に勝海舟の書がかけてあった。

 地元の老人たちならいまも覚えている人もあるだろう。  』


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勝海舟の有名な著『氷川清話』にも

宇佐さんに関する記述があるそうです(私は未だ未確認ですが)。


もし、大牟田市民でこのブログを読んでいらっしゃる方が

いたら草木八幡宮を通る時には、

ここに維新志士たちが集っていたことを

思い出していただければ幸いです。


今でこそ、

ひっそりとたたずむ草木八幡宮ですが

約100年前は志士たちでにぎわっていたはずですから。







<引用文献>

今回使用した、文献は2冊あるのですが

両者とも出典先を控え損ねてきていますので

分りません。

ただし、大牟田市立図書館に行けばあります。