シャクティーパットを受けた翌日、私は一緒に出家することになっていた友人とともに、富士山総本部へ向かった。そして規定の立位礼拝の修行を三日ほど行い、それからワークにつくことになった。
私が所属したのは建築班であり、全く初めてのことでとまどうことも多く、ワークが思うようにできず悩むことも多かった。
しかし、出家生活は厳しい面も多々ありながらも、充実した日々と実感する毎日をすごしていた。そして出家してから一ヶ月ほどたったある日のこと、教団が衆議院選挙にうってでるという話しを聞いた。
1989年7月27日に松本死刑囚がその時富士山総本部にいたシッシャを集め、衆議院選挙に参加する意思があることを述べ、しかしこういうことは独断で判断できないので、みんなの意見を聞いて決めるということで、その場にいたシッシャの中で意見のある者が意見を述べていき、何度か多数決をとって選挙に出るか出ないかを決めていった。
私はその時和歌山まで出張しており、参加していなかった。そこで富士に戻ってきてからビデオを見て、その時の様子を知ることができた。出家修行者は、ほとんどの人が松本死刑囚の言うことには疑いもなく従う、という習性ができあがっている。だからこの時も賛成意見、反対意見の二手に分かれてはいたが、賛成意見の方がずっと多かった。主立った幹部の中では現ひかりの輪代表である上祐と、95年に逮捕され、後釈放されて脱会したKの二人は、選挙に参加することに反対の意見だったが、他の幹部クラスの人たちは、賛成の立場であった。
何度か賛成、反対の人たちの意見を聞いていきながら、多数決をとっていったが、上祐がすぐに多くの人が賛成の立場をとっているから、自分もそれに従うという見解に変わり、それからは決を採るたびにどんどん賛成意見が増えていき、反対意見の人は減っていった。最終的には、その場にいた人全てが選挙に参加することに賛成ということで、教団は選挙にうってでることになった。
出家修行者は全員が富士にいるわけではないから、完全に全員の総意で参加することになったとは言えないが、多くの出家修行者が富士におり、また松本死刑囚が参加すると決めたからには、それに表だって反対する人はまずいない。よって、心の奥底では反対意見や疑問を感じた人もいたかもしれないが、そういったことが表沙汰になることもなく、教団は一致団結して選挙に参加することになった。このころには松本死刑囚の言うことは絶対であるという考えが、教団全体としてほぼ固まっていたように思える。
私個人は果たして選挙にうってでても、勝つことができるのだろうか?と選挙の話しを聞いてすぐに思った。しかし、松本死刑囚が参加すると決めたからには、それに従うのが当然であるとして、特に反対や疑問を持つことなく、選挙活動に参加していった。/font>