今現在読んでいる書籍が、高村薫の「太陽を曳く馬」である。
太陽を曳く馬〈上〉/高村 薫
![](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F41QqAJr%252B5hL._SL160_.jpg)
¥1,890
Amazon.co.jp
太陽を曳く馬〈下〉/高村 薫
![](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F41wk2rp9CaL._SL160_.jpg)
¥1,890
Amazon.co.jp
オウムを作品の題材にしていると思われる小説はいくつかあるが、「太陽を曳く馬」ではオウム真理教と麻原彰晃という名前が実際に出てくる。そして、登場人物にオウムについて、宗教的な面から、社会的な面から総括させている。こういう小説は今までなかっただろう。著者はかなり仏教について学んだろ思われる。その内容が正しいか否かは別にして、オウムや宗教について真っ向から向かい合い、取り上げた姿勢について、私は敬意を表したい。
数人の僧侶がオウムについて語っている場面があるが、その中でもわかりやすい言葉で批評されている部分を掲載する。
「ちなみに主催者である麻原という人物については、なにがしかの宗教的資質に恵まれた人だというだけで、実際には修行を怠り、何より修行の大前提である戒を保たなかったと言うほかはない。あんなに太ったグルはおりません。また同様に、あの人物を解脱した成就者であるとみなすこともできません。なぜなら、インド思想いう解脱も、ヨーガでいう心作用の止滅も、見る者と見られる者、聞く者と聞かれる者、認識する者と認識される者、主体と客体が消えて完全に一になった状態のことを言うからです。
そこでは因と果もなく、縁起もなく、生物学的循環はもはやないので、不生・不死が成立するわけですが、ひるがえって麻原ははなはだしく今生に執着し、金銭に執着し、己が死を避けるために奔走したと言われています。してみれば彼の営みはどこまでも有情の業でしかなく、依って解脱はしていないということになりましょう。才能あるヨーガ行者も、行を怠ればただの人。その上嘘をつけば、もう宗教者などではない。とすれば、そんな人物の説いた世界が宗教であるか否かについては、皆さんがわざわざ検討なさる必要もない。
あるいは、それでも社会学的には宗教の条件が揃っているということであれば、たとえばバラモンの祭祀が廃れて以降のヒンドゥー教は宗教であるか否か、またあるいはヨーガ・スートラは宗教であるのか否か、人によって意見が分かれるのと同じように考えればよいのではないか。その上で私自身の考え方を申せば、オウムが自らを宗教と呼ぶのは自由だけれども、一般には、人間の言語体系を超えた神秘体験の抽象化、表象化がない世界を宗教とみなすのは難しい、ということになります」
ここに太ったグルはいない、とあるが、実際には太っている優れたグルも存在するから、これは正確ではないと思う。しかし、なにがしかの宗教的資質に恵まれただけで、修行を怠り、戒を保たなかったというのはその通りだろう。初期において松本死刑囚は修行をきちんと行っていたようだが、次第に修行を怠るようになっていったといういくつかの証言もある。また、自分はグルであるとか在家であるという名目の下、戒を保っていないことが多かったのも周知の事実である。
また松本死刑囚が今生に執着し、金銭に執着し、己が死を避けるために奔走したと言われている、というのもその通りである。未だに教団に残っている人は、そんなことはないと否定するかもしれないが、オウムでは今生に解脱し、救済するということを述べていたが、裏を返せば今生に執着していたからともいえる。また、松本死刑囚が逮捕された時、隠し部屋に現金と金塊とともに、隠し部屋に隠れていたと言われるが、これぞ金銭に執着し、己に執着していたことの証であろう。現役がいかなる詭弁を弄したとしても、そのことが覆ることはない。そしてこの事実は、彼が解脱はしていなかったことを明確に物語っている。執着が強ければ、解脱はあり得ない。
この作品は、本来現役の人に読んでもらいたいが、彼らはグル以外の書籍を読むことはご法度、という姿勢を貫いているので、まず読むことはないだろう。しかし、奪回しても未だにとらわれがある人には、ぜひ読んでいただきたいと思う。僧侶たちがオウムについて討論する場面は、肯定できなくても、何を言っているかわからなくても、目をそむけることなく一読するに値するはずである。