約20年ぶりの再読です。自分でも驚きの年月ですが、いまだ人生5本の指に入るほどの名作だと思ってます。細かい内容はすっかり忘れているのに、ずーっと心の中で輝きを失わなかった本。やっぱりよかった。

20年前に読んだ時はまだ10代で、もっとストーリーばかりを追っかけた読み方をしていたように思う。それはそれでとても感動したし、何と言ってもナルチスとゴルトムントのひたすら美しい関係にぽーっとなってた。(ぶっちゃけ、私の文芸萌えの原点はこの作品にある。今思い返せばってことで、あの頃はそれが萌えだなんて思ってなかったし、そういう概念すら確立してなかったように思う。JUNEってのはあったけどね。あの頃「美少年」くらいしか文芸作品には匂うキーワードがなかった。・・・それはさておき。)

今回読み返して、二人の邂逅が描かれる最後の五章にあらためてビビビ!ときました。うわ、こんな深い会話をしていたんだ、と。実はゴルトムントが放浪の途中で芸術(木彫り)に目覚めるという部分をすっかり忘れておりまして。

「知と愛」という題からつい愛の部分をゴルトムントの女性遍歴とばかり結び付けて覚えていたからなんだけど、実は「芸術」もとても大事なテーマだったんですよね。ナルチスが知性の人、修道僧なのでこちらは「宗教」の象徴。つまり(他にも色々な対比が考えられますが)「宗教と芸術」について語られてもいるのですね。

これはなんと最近はまりにはまっていた高村薫さんの「太陽を曳く馬」の二大テーマでもあるんです。二作品の切り口や論点は全く違うので比べたりするのは見当違いなんだけど、宗教と芸術が深い関係にあると位置づけた小説という点では非常に面白い偶然と言うか、私にとってはある意味衝撃でした。

そもそも「知と愛」を読み返そうと思ったのも、実はこの高村作品に出てくる合田と加納の関係がゴルトムントとナルチスの関係に似ているなあと直感したからなんです。合田さんのほうはともかく、加納さんは「意志の人」ナルチスともろかぶってますね(あくまでイメージとして)。

他にも「知と愛」を読んだことで「太陽を曳く馬」でもやもやしていたところがはっきりしてきたり、逆に「太陽~」を読んでいたから「知と愛」再読も違った側面が見えてきたり、と相互にいい刺激となりました。

「知と愛」はキリスト教文学、「太陽~」は仏教を扱う小説、そして作者のヘッセは東洋思想にも傾倒していて「シッダールタ」を書いてるし高村さんはキリスト教的な素養を持ちつつの仏教への転換と、こちらもなかなか面白い関係ではあります。

ただ作風としてヘッセはより詩的、高村さんはより思索的プラス刑事事件の絡んだミステリ要素もありで、本当になぜこの二作品が似てるなんて思えるのか不思議。

両作品の根底に「死」というテーマがあるのも共通点でしょうか。「知と愛」ではペストの大流行で大量の人がばたばたと死んでいく様を目の当たりにするゴルトムントがいて、「太陽~」ではNY同時多発テロで何千という命が一瞬のうちに消えるのを見つめる合田雄一郎がいる。時代も文化的背景も違うけれど、こうした強烈な人間の死の体験が作中に描かれているところは意味深いと思う。それぞれの死の捕らえ方、死に対する考えみたいなものは微妙に違うように感じたけど(宗教的背景の違いもそこにはあるでしょう)、互いに作者がちょうど50歳を越えた頃に書かれた作品ということを考えても、「死」に意識が向くのは自然なことのなのかもしれません。

文庫の解説には訳者の高橋健二さんご自身が書かれたヘッセの生涯と作品、「知と愛」についての解説、そして年譜までついていて大変お得です!って今でも同じだよね?私の持ってるのはなんせ20年前の、まだカバーが薄い水色のだから・・・。装丁が今のはずいぶん可愛らしくなってますね↓

知と愛 (新潮文庫)/ヘッセ

¥660
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精神の人になろうとして修道院に入った美少年ゴルトムントは、そこで出会った若い師ナルチスによって、自分は精神よりもむしろ芸術に奉仕すべき人間であることを教えられ、知を断念して愛に生きようと、愛欲と放浪の生活にはいる――。人間のもっとも根源的な欲求である知と愛とが、反撥し合いながら互いに慕いあう姿を描いた多彩な恋愛変奏曲。

読了日 2010年5月