父上とは、朝餉の後に少し話をしていた、今後の行動について時貞に伝えなければならぬことがあったからだった、この後、一週間の間に時貞と運之丞は長崎を発ち、二人で島原をめざし行動することとなる。関所通過の為の奉行所発行の手形をここで受け取った、これは父上が奉行所を辞める前に発行しておいた物であった。表向きの移動理由を書き連ねてあり、その説明と、その後でどこで合流するのかを、もう一度確認をして、互いの無事を祈った。


「時貞、これからそちの体験してきたこと以上の辛いことが起こるであろう。心優しき息子よ。ゼウスのごとくなれ。弱いものに心を寄せて、共に涙し、支える者になるのじゃ。今のうちに、多くのところを見て歩くのじゃ。よいか。岡場所での事件、儂の耳にも入っておった。可哀相なことになったものじゃ。」


最後に一言そう漏らすと、時貞の肩にポンと手をかけた。同じ年頃の娘を抱える父としても、その話は、時貞と同じく胸を痛めていた。明け方に戻ってきた息子の様子がおかしいことに気が付いた父上は、そっと様子を見ていたのだ。運之丞が殴った時に、息子には頼もしい仲間が出来ていることに安堵していた、


「運之丞、時貞を頼むぞ。先に※志自岐原城(しじきはらじょう)にて待っておる。」※通称、原城


控えていた運之丞にも言葉を残して島原に向かわれたのだ。


間もなく長崎は夏になろうとしていた。夜明け前にこっそりと時貞と、運之丞は屋敷を旅立った、周りの者に気が付かれないよう旅立ったのだ、屋敷にはまだ、使用人が残っている。運之丞の父親が最後にここを閉めて旅立つことになっていた。養育係としてずっと育ててくれていた運之丞の父親ともこれで別れなのである。彼もまた、肥後藩の細川家に、キリシタンの間者としてもぐり込むのだ。名を陣佐左衛門となり肥後に渡る。運之丞にとってこの旅立ちが、父との永遠の別れとなることをこの時まだ予期してはいなかった。また、親子で時貞に使えることになると固く信じて彼は父親と別れたのだ。


じっとりとまとわりつく暑さと、ザーザーと降り続く雨の中、時貞と運之丞は日見の峠を越える、最初の関所がそこにある、雨の日をわざと選んで旅立ったのだ、足元はぬかるみ歩きにくいが、傘をかぶることで顔がわかりにくく関所の番人に顔を覚えられる心配が減る、手形が本物かどうかさえ判れば、関所は通過できるのだ。長崎の関所は入ることにはことのほか厳しく、出ることについては厳しくはない、長崎が直轄地であるからなのだ、中に入るにはそれ相応の理由が必要となるが、出るのはこのころはまだ厳しくはなかった。日見峠を越えればそこはまだ未開の地が広がっていた。険しい山道を下りながら海を目指す。海の近くから少し山側に戻ったところには矢上の宿場(現長崎市矢上町)があるここは長崎街道と島原街道の合流地となり、警備が厳しい、その為休むことをせず通り抜け宿場からはずれた場所に仲間の用意した宿があり一泊することになっていた。雨の中の旅では、思うように先に進めないが、顔を覚えられるよりははるかに安全なためところどころに、安心して休める場所を用意していた。


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