轟々と燃え盛る炎に包まれた城の中を、四郎は歩いていた。城のいたるところで自害した同胞たちの瞼を閉じながらその前でクロスを両手で包みその者たちが死後にゼウスの元に召されるように祈っていた。すでに四郎は死したことになっていた。しかし、彼はまだ首も取られておらず、頬はこけ、やせ細っていたがその美しい容姿からは、敗北した城の主のようなみすぼらしさはなかった。
ただ、ゼウスにかけ、ゼウスと元に召された者たちに、詫びを入れ続けていた。炎は容赦なく四郎を襲い始める。その炎にまかれながらも、彼は祈り続けた。

「主よ、ゼウスよ、わが同胞を憐み、そしてお救い下さい」


時は江戸初期、3代将軍徳川家光の時代になっている、世は太平の時を感じつつある中で、幕府は宗教改革にものりだしていた、その中でもキリシタン信仰は、幕府の推し進める政策と真逆を説く、このまま放置しておくとやがて幕府に刃を向けることになると危惧しそして幕府はキリシタンの締め出しにかかり始めていた。キリシタン信者にとってはまさに地獄の時代へと移り変わりつつあった。


キリシタン禁止令が施工されたことをいいようにとり、これを旗印にキリシタン弾圧を強めていたのが、島原藩主 松倉重政であった。キリシタン信者と疑いあらば、雲仙の地獄にて拷問を行い、信者であればそのまま地獄に突き落とし処刑した。この様子を、キリスト教信国でなかったオランダの人々でさえあまりの残虐さに目を覆うような光景が繰り返されていると書き記しているほどであった。
これほどまでの弾圧はその時の幕府は強いていたわけでなく、自分のいう事を聞こうとしない民への不満をキリシタン弾圧にてうっぷんを晴らしていたのやもしれない。
なぜゆえに民は藩主の思い通りにならなかったのだろうか、それにはこの、重政が自身の欲望を満たさんが為に年貢の徴収をきつく執り行っていたのだ。島原城の新築、独自にルソン島遠征計画を練りその為の先遣隊送りなどが年貢の取り立てをきつくした主な理由であった。その為にキリシタンだけでなく、農民までもが過酷な拷問に耐えていた。禄高もない地域に過度の年貢や、使役をかし、それに従わなければ、蓑踊りと称して蓑をその者に被せ、手足の自由を奪い生きたまま火をつけるとゆう非道極まりないことをしていた。それは、重政の息子勝家の時代になっても引き続き行われ、キリスト教を信じるものでなくとも、救世主を求めていた時代であった。


天草においても過酷な年貢の取り立てが行われていた。天草の石高を、実際の2倍の石高として幕府に申し出ていたのだ、実情と合わない石高申請の為に、農民、漁民などの生活は困窮を極まっていた。過酷な年貢の取り立ては、人々の心の中に不満と憤りとして積み重ねられていった。


関ヶ原の戦いに敗れた西軍の武将、小西行長の生き残った家臣たちは、行長の旧所領地だった熊本に潜んで幕府の思想とは相容れぬ思想の元に民を導かんとしていた、その中の一部は、天草に渡り、困窮する農民、漁民の指導者となりその思想を広める事に従事していた。その中の一人である益田甚兵好次のもとに一人の男児が生まれた、その名を四郎時貞という。


→2