【連載閑話】我欲にまみれた建武の新政~実は本能むき出しだった後醍醐天皇 | 奥さま聞いてよ!妻を愛す恋愛体質夫の生活      変なタイトルだけど意外にも長編私小説なのです

【連載閑話】我欲にまみれた建武の新政~実は本能むき出しだった後醍醐天皇

   

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奥さま・・・筆者一口メモです。本編じゃなくてごめんなさい。

 


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本編よりもこちらの方が気楽に筆を進められる上に、書きたい

テーマがたくさんありますので、ついつい一口メモを増やしてし

まいがちになりますが、私の趣味ブログですのでどうかご容赦

下さい。今回は日本史ネタです。またまたマニアックなネタです。

 

「後醍醐天皇(ごだいごてんのう)」という昔の天皇名を聞いたこと

がある方も多いでしょう。恐らく小学校でも歴史で習ったはずです。

時代は鎌倉時代末期から室町時代初期。1334年(建武元年)に

“建武の新政”を開始して、それまでの腐敗した鎌倉幕府の政治

を一新しようとした・・・と学校では習ったはず。

将棋 

きっとこう習ったでしょう・・・「足利尊氏(あしかがたかうじ)、新田

義貞(にったよしさだ)、楠木正成(くすのきまさしげ)などとともに、

鎌倉幕府の北条氏(ほうじょうし)を滅ぼし、天皇を中心とした政権

“建武の新政”を開始。しかし武家勢力の意見に耳を貸さなかった

ために足利尊氏らが反旗を翻し室町幕府を樹立。後醍醐天皇は

吉野に逃れて“南朝”を樹立。しばらく吉野の南朝と、京都の北朝

が並立する時代が続いた」・・・こんな感じでしょうか。

 

もう少し詳しい方ならば・・・「南北朝に分かれたもの、三種の神器

は後醍醐天皇側が持ち去っており、正当な王朝は吉野の南朝と

言える。後小松天皇時代に南北朝は統一され、現在の天皇家は

北朝系である」・・・ということもご承知かもしれません。

 

あるいは戦前教育を受けた方と戦後教育を受けた方ではまったく

異なる印象を持っているかもしれません。太平洋戦争敗戦以前の

日本は、言うまでもなく大日本帝国憲法下にありましたから、天皇

は神聖にして侵すべからざる神に等しき存在でした。その天皇に

背いたとされる足利尊氏は、戦前教育では大悪人で、一方の楠木

正成は無二の大忠臣とされていました。しかし私もそうですが戦後

教育では、足利尊氏を武士階級の声を拾った功労者として教えら

れており、後醍醐天皇や楠木正成は、実情を鑑みない政治感覚に

欠如した人物として学ぶことが多かったと思います。

将棋  

そもそも後醍醐天皇という人物は型破りでした。今でもそうですが、

通常、天皇の名前は諡号(しごう・おくりな)といって、死後に贈られ

るものです。存命中は「今上天皇(きんじょうてんのう)」と呼ばれる

のが普通です。例えば現在の天皇陛下の本名は「明仁(あきひと)」

ですが、公式には「今上天皇」と呼ばれ、万が一亡くなることがあっ

た場合に、おそらく「平成天皇」と呼ばれることになるのです。しかし

ながら後醍醐天皇はまったく違いました。

 

当時の天皇は既に政治的実権を武士階級に奪われ失っています。

そんな実態を憂えていた後醍醐天皇は、彼の時代よりもはるか昔

の延喜時代に天皇親政(てんのうしんせい)といって、政治の実権

を振るった天皇の代表格である醍醐天皇(だいごてんのう)に強い

憧憬の念を抱いていたようです。

 

そこで、彼は死後に贈られるはずの諡号を自分自身で「後醍醐」と

決めてしまい、存命中もその名で呼ばせるという今昔他に例のない

行動をとりました。ちなみに「醍醐」とはインド由来の乳製品で、ヨー

グルトとチーズの中間のような乳酸菌食品だったと言われています。

醍醐天皇はこの食品を極めて好んでよく食したために、この名前を

死後に贈られたという逸話が残っています。

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さて、このあたりからが本題。

 

後醍醐天皇は「天皇親政復活」に燃えて鎌倉幕府を倒し、“建武の

親政”を成し遂げ、最後は吉野に逃れてまで野望を捨てなかった・・・

ある種の純粋な“夢追い人”のようなイメージで後醍醐天皇は受け

取られがちですが、実は我欲にまみれた心の狭い人物だった・・・と

いう有力な説があるのです。今回はそのあたりを暇つぶしにお伝え

しようかと思います。

将棋 

まず当時の政治的状況及び経緯を簡単にお知らせしておきましょう。

  

鎌倉時代中期の天皇に後嵯峨天皇(ごさがてんのう)がいます。よく

ある話ですが、彼の息子への偏愛がその後の混乱のすべてを生み

出したと言っても過言ではありません。彼は源頼朝(みなもとのより

とも)が鎌倉幕府を開設してから約50年後の1246年、息子の久仁

親王(ひさひとしんのう)に譲位します。これが持明院統(じみょういん

とう)と呼ばれる北朝系統の祖・後深草天皇(ごふかくさてんのう)です。

しかし14年後の1260年に、後嵯峨天皇に偏愛された弟の恒仁親王

(つねひとしんのう)に皇位を譲るように後深草天皇は強制されます。

恒仁親王は即位して、大覚寺党(だいかくじとう)と呼ばれる南朝系統

の祖・亀山天皇(かめやまてんのう)になります。ここで既に親子間、

兄弟間の感情のもつれが生じます。さらに亀山天皇が皇太子として

自分の息子を指名して、そのまま後宇多天皇(ごうだてんのう)として

即位させると、当然ながら感情のもつれがそのまま表面化して騒動に

なります。

 

収まらないのは、無理やり譲位させられて、跡継ぎまで弟の家系に奪

われた後深草上皇(ごふかくさじょうこう・上皇とは元天皇の意味)側の

持明院統。当時、朝廷に対しても強い影響力を持っていた鎌倉幕府の

一部勢力を動かして、その力を利用し後深草上皇の息子を伏見天皇

(ふしみてんのう)として無理やり皇位を奪い戻します。さらにその息子

の後伏見天皇(ごふしみてんのう)へと皇位を譲り、持明院統内におけ

る皇位継承をなかば既成事実化します。

 

今度は収まらないのが大覚寺統です。ライバルと同じように鎌倉幕府

の力を借りて勢力を盛り返し(武士がほぼすべて幕府に従っているた

め当時の朝廷は武力を持たなかったのです)、後伏見天皇から皇位

を奪い去り、後宇多上皇の息子・後二条天皇(ごにじょうてんのう)が

即位します。

将棋 

このように兄系統と弟系統で皇位の奪い合いをする泥沼状態になって

しまったわけですが、天皇家内で揉めているのと同様に、武家政権で

ある鎌倉幕府内でも揉め事になっていました。ある勢力が持明院統の

味方をしたと思ったら、別の勢力が大覚寺統の味方をするなど、幕府

内もややこしい事態になってしまっていたのです。この揉め事を無理

やり丸く収めたのは、モンゴル襲来のときに日本の武士たちをまとめ

て撃退したことで有名な、鎌倉幕府8代執権の北条時宗(ほうじょうと

きむね)です。いわゆる「元寇」が解決した以降の北条時宗の政治的

業績については、あまり有名ではありません。むしろ何も歴史上注目

できることはしていない・・・とも言えるでしょう。この天皇家のお家騒動

を丸く収めたことは彼の国内政治における唯一の実績かもしれません。


北条時宗が両者に示した案は、「両統迭立(りょうとうてつりつ)」と呼ば

れる、いかにも日本人らしい、双方の言い分の間を取った折衷案です。

兄系統の持明院統(北朝系)と、弟系統の大覚寺統(南朝系)が、仲良

く代わりばんこに天皇を輩出しましょう・・・そんな単純なアイデアだった

のです。どちらかの系統が天皇を出せば、逆の系統から皇太子を出す

・・・それを延々と10年間ずつ繰り返そうという、極めて雑な収め方だっ

たと言わざるを得ません。事実、この案はすぐに瓦解します。

 

上記の大覚寺統・後二条天皇の後を継いだのは持明院統の花園天皇

(はなぞのてんのう)でした。皇太子には大覚寺党の正統筋の嫡流であ

る後二条天皇の息子・邦良親王(くにながしんのう)がなるべきでしたが、

邦良親王がまだ極めて幼かったため、暫定的に同じ大覚寺統ではある

ものの、後二条天皇の弟で傍系であった尊治親王(たかはるしんのう=

後の後醍醐天皇)を皇太子としました。邦良親王が成人したあかつきに

は、皇位を譲るという大前提の上での決着でした。

将棋 

そして尊治親王は即位して後醍醐天皇を名乗ります。そのまま行けば、

約束どおり邦良親王の成人後には自動的に皇位を失うことになります。

ちなみに鎌倉幕府の方では既に北条時宗は死没して、孫の北条高時

(ほうじょうたかとき)が14代執権として絶大なる権力を保持しています。

この頃の幕府は北条氏本家である得宗家(とくそうけ)の私的な使用人

でしかなかった内管領(ないかんれい)と呼ばれる長崎氏などの一族が

幕府の実権を握り、源頼朝以来の正統な御家人の不満が爆発寸前に

まで至っていました。そもそも将軍が一番偉かったはずの幕府でしたが、

すぐに北条氏による世襲の執権(しっけん)が実権を握り、中期からは

執権もお飾りとなり北条氏の本家嫡流である得宗が実権を握ります。

末期に至っては、その使用人である内管領が実権を握っていたのです。

将軍も形式上は天皇から任命されているわけですから、当時の日本は

世界でも類を見ない五重権力構造になっていたのです。異常です。

   

そこにつけこんだのが後醍醐天皇です。幕府内の不満分子をこっそり

と探して個人的に対談、懐柔し、自分の手足として自由に利用しようと

したのです。それが、幕府では正式に御家人として認めらていなかった

楠木、赤松などの地方武士、そして足利氏に大きく遅れをとっていたけ

れども、足利家よりも血筋は上だと思っていた無位無官の新田義貞で

した。鎌倉幕府を倒した足利尊氏は、妻が北条家出身であるなど鎌倉

幕府内でも重きを為す恵まれた環境にありましたが、権力欲のために、

クーデターの流れに乗った感じでしょうか。

 

後醍醐天皇は「腐敗した鎌倉北条氏政権を打倒すべし」という聞こえの

良い大義名分の下に上記の武士団を利用して、実際に鎌倉幕府を倒し

てしまいます。そして天皇中心の清廉潔白な政治を復活させる・・・とい

うスローガンを掲げて、“建武の親政”と呼ばれる政治を開始します。こ

の新政治体制が、結局は混乱を極めてすぐに崩壊したのは、既に皆さ

んも歴史で習ったとおりのことです。完全に時代遅れの政治体制が成功

するはずもありません。

 

しかし、実は後醍醐天皇は新しい政治などどうでも良かったのだ・・・とい

う有力な説があります。新しかろうが古かろうが本音はどっちでも良かっ

た・・・どうでも良かったから手抜き政治をした・・・だから当然ながら不満

もたまり“建武の親政”はすぐに崩壊したのだ・・・こういう説があるのです。

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やっと主題になってきました。 


後醍醐天皇は要するに自分の息子、孫の系統に皇位を継がせたかった

のです。単に自分の遺伝子を優先させたい、自分の子供を天皇にしたい

という、ありがちな親のエゴだったのです。暫定的なピンチヒッターにとど

まるなど自尊心が許さなかったのです。

  

しかし、鎌倉幕府の決めたルールのとおりに従ってしまえば、邦良親王

の成人後は自動的に皇位を奪われ、その後は持明院統と大覚寺統の

正統筋・嫡流である邦良親王の子孫が10年ごとに交代で皇位を継ぐこ

とになります。そうなってしまっては、後醍醐天皇とその子孫たちは単な

る一庶流皇族として、まったく日の目を見ない存在に没落してしまいます。

これが我慢ならなかったのです。 

将棋 

この悩みを解決するには鎌倉幕府自体を無くしてしまう他はありません。

さらに、後醍醐天皇の系統ではなく邦良親王の系統が大覚寺統の正統

であるとしている兄の後二条上皇(元天皇)の影響力を排除するために、

慣習的に上皇が実権を握ることになっていた「院政」という制度も壊さな

くてはなりません。

  

「院政」とは1072年に後三条天皇(ごさんじょうじょうてんのう)が息子の

白河天皇(しらかわてんのう)に譲位した折に開始した制度です。天皇で

はなく、譲位した後の上皇(出家すれば法皇)が政治の実権を握るという

システムです。源義経を翻弄したことで有名な後白河法皇も院政制度で

実権を握っていました。その後鎌倉時代を通じて、その影響力は朝廷内

にとどまるものの、形式上の「院政」は続いていました。つまりそのままで

は後醍醐天皇でまだ存命中の後二条上皇の意思を無視できないのです。

そこでわざわざ古くてカビの生えたような制度「天皇親政」なのです。名目

だけでも天皇自身が政治を行うことにしてしまえば、邪魔な兄たちは口を

出せなくなるのです。“建武の親政”って・・・実はこんなエゴだったのです。

  

後醍醐天皇は足利尊氏、新田義貞、楠木正成などを利用して倒幕を果た

し、自分を中心とした政治体制を築きました。すべて自分の思うままにした

いがための我侭で我欲にまみれた計画だったと言えるかもしれません。

将棋 

色々と噂がありますが後醍醐天皇在位中に、皇太子になることを約束され

ていた邦良親王が27歳の若さで急死します。どう考えても怪しいのです。

この死にも後醍醐天皇がかかわっているとの説があります。親王が死ん

で一番得をするのが後醍醐天皇自身だからです。親王が死ねば、大覚寺

統の中に適齢期の皇位継承対象者が自分と自分の息子以外いなくなるの

です。そして・・・親王の死はあまりに急で不自然だったと伝えられています。

さらに邦良親王の息子である康仁親王(やすひとしんのう)が皇太子になる

ことを、後醍醐天皇はあらゆる手段で妨害します。変ですね。

 

そのために本来は大覚寺統の正統筋である邦良親王の子孫は、木寺宮家

(きでらのみやけ)という独立した宮家となり、元来はライバル関係だったは

ずの持明院統と友好関係になります。室町幕府が成立して北朝の実権が

大きくなって以降も、木寺宮家は北朝系統や足利幕府将軍家とも友好関係

だったと伝えられます。そして徐々に衰退し、歴史の表舞台から消え去って

いくことになるのです。木寺宮家の人名が歴史で登場するのは、戦国時代

末期が最後だったと言われています。

 

これ以降は、足利尊氏らに裏切られた後醍醐天皇が吉野に逃れて南朝を

立てて皆さんが昔授業で習ったとおりの南北朝時代に入ります。南朝は

後亀山天皇で終わりますが、その後室町幕府8代将軍足利義政のときに

起こった応仁の乱の時代まで、その子孫は様々な勢力に担がれて利用

され続けます。そして・・・その子孫は日本各地に散っていったと伝えられ、

現在でもまことしやかに天皇家の血筋だと伝承され自称する家が残って

います。これらの家々は代々地元でも特別扱いをされて、周囲の住民たち

からは「宮様」と呼ばれているのですが、公式の歴史では一切認められて

いませんし、宮内庁も把握はしているようですが認めてはいません。この

あたりは機会があればまた書こうと思います。

タイトル未設定

まったく歴史上から抹殺されていますが、南朝が滅んだ後のその家系を

「後南朝」と呼び、専門に研究する歴史学者もいます。ただし現在の天皇

陛下の系統が後小松天皇(ごこまつてんのう=一休さんの父上とも)から

続く北朝系統であるため、こうした研究をすること自体が、戦前戦後を通し

てあまり日本政府にとっては好ましいものではなかったようです。そのた

めか、こうした学者は異端扱いをされてしまうことがほとんどで、教科書に

乗ることなども一切ありません。ただし、宮内庁はかなりの実態を把握して

いることは間違いありません。知る人ぞ知るタブーと言えましょう。


 

 


 

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