宮城巳知子さんの辿った重い歴史の道を歩く | おきなわおーでぃおぶっく情報

宮城巳知子さんの辿った重い歴史の道を歩く

沖縄戦で法的根拠無く駆り出された学徒隊は、「ひめゆり学徒隊」ばかりではありません。他にも白梅学徒隊、積徳学徒隊、梯梧(でいご)学徒隊などたくさんの女学生が従軍看護部隊として組織されたのです。

県立首里高女の「瑞泉(ずいせん)学徒隊」もそのひとつで、最も早く最前線に送られた学徒隊でした。

4年生61名が動員され、そのうち33名が戦死したのです。

ずいせん学徒隊には引率する教師がいなかったことからひめゆりのような記録が残っていません。それを独り語り継いでいらっしゃるのが、ずいせん学徒隊の「生き残り」、宮城巳知子さんです。


昭和20年3月23日、ずいせん学徒隊は第六十二師団の野戦病院として使われていたナゲーラ壕(那覇市と南風原町の境界にある)に配置されました。5月下旬、南部への撤退命令が出され、もはや助かる見込みのない重傷患者を残し、宮城さんらは、まだかろうじて動ける兵隊に肩を貸して、砲弾の飛び交う中、南の識名壕、さらには米須壕へと移動して行きました。

そして6月23日、米須壕は米軍の馬乗り攻撃を受けるにいたり、もはや生き地獄より死を望んで、意を決して壕を出たところを、米軍に収容されました。


東京の和光鶴川小学校の6年生の修学旅行では、この宮城さんたちの「ずいせん学徒隊」が辿った道を、子供たちが追体験するのです。もう20年以上も続けていらっしゃいます。

この度、私たちは、その体験旅行に同行させていただけることになりました。


ナゲーラ壕は、那覇ICの近く、県道82号線から路地を降りていったところにあります。地元の方でさえ、ここにそのような壕があることを知らないのだそうです。


ナゲーラ壕 ガマ見学

この奥には、迷路のように、ガマが広がっています。
ナゲーラ壕2
この中には、多くの遺骨が、まだ収集されずに残っていることでしょう。


次に、子供たちは識名壕へ向かいます。

識名壕は光明寺の脇の階段を上り…

光明寺


識名壕入口   識名壕
民家と民家の間の細い隙間を降りたところに、入口があります。明かりなどありません。子供たちはこの後、各自持っている電灯を消して、一分間の闇を体験しました。

蓬(よもぎ)の葉を鼻に詰めて耐えたという、昭和20年の死臭を想像しながら。


そして最後の米須壕へ。
米須壕


どの壕も自然のガマ(鍾乳洞)で、一般の方が所有する土地の中にあるものです。

沖縄には他にもたくさんのこうしたガマがあり、きっとそれらのひとつひとつに、それぞれの辛い過去があるに違いありません。

同行した「おきなわおーでぃおぶっく」の女性スタッフたちは、あまりに重い体験に、最初のナゲーラ壕だけでいっぱいいっぱい、後のふたつには近づくこともできませんでした。


最後に「ずゐせんの塔」で待っていてくださった、84歳の宮城巳知子さんから、お話を伺いました。

宮城巳知子さんのお話   碑

重傷の隊長さんが、もう助からないことを悲観して、持っていた手榴弾を爆発させ、周りにいた生き続けられる可能性のあった何人もの人々を巻き込んで自爆したという話。

それは、子供たちの想像力をはるかに越えた出来事のように思えました。


お話の後、和光小学校の子供たちは、一年間練習してきたエイサーを披露しました。

エイサー

エイサーは、ご先祖さまを供養する踊り。そりゃあ地元の子供たちの迫力には及ばないけれど、でも東京の子供たちが一生懸命に叩いたの太鼓の音も、きっとニライカナイにいらっしゃるずいせん学徒隊の皆さんのところにまで、しっかり届いたに違いない、そう感じられて、熱いものが込み上げてきました。


ずいせんの塔には、宮城巳知子さんの他にも、県立首里高女の同級生の皆さんが集まってくださいました。「ずいせん学徒隊の生き残り」の方もいらっしゃいます。

子供たちが帰ってから、記念撮影です。

記念撮影

宮城巳知子さん以外の方々は、半世紀経った今となっても、自分たちの戦争体験を語ることができないのだそうです。

皆さんはおっしゃいます。

「巳知子さんは偉いさー」


でも、沈黙する皆さんの無言の《声》も、宮城巳知子さんの語られる《言葉》と同様に、大変に重いものとして私たちに迫ってきました。


          折鶴

鶴川小学校の子供たちが供えた折鶴です。

かの有名な「ひめゆりの塔」の脇には、こうしたお供えを保管し飾って置く場所があるのに、ここにはそれがありません。若くしてお亡くなりになった同級生を祀るここにこそ、子供たちのメッセージを置いておきたいのに、雨ざらしにしないためには持って帰るしかないと、宮城さんは淋しげに語られました。


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