秋、各官庁の水増し雇用報道の際、少なからず期待していた「官庁の障害者求人(臨職)」が出た事を職安からの連絡で知り、長男は早速に用意していた書類を送付しました。直ぐに面接の連絡が入り出向きました。けれど最初の期待とは裏腹に、面接の様子が歯切れ悪かった様で楽天家な長男が珍しく、ダメじゃないかな?と。聞けば面接の様子が他人事な雰囲気だったらしく、上が決める事だから的な物言いに終始したのだとか。

そして、予想通りに不採用通知が届きました。

 

 その後、障害者雇用に関して官庁が年度内に4000人余りを雇用する事が発表され、募集要項を眺めていました。筆記試験の具体的な例題も出されて、数学の苦手な長男はうなだれていました。勉強する気があるのならお母さんも心当たりを探してみるよ?との声掛けにう~んと冴えない表情、やる気もないのに押しても無駄です。

 

冬、官庁二か所からの(臨職)求人に応募。一か所は面接のみで希望者には予め見学と仕事内容の説明会あり。もう一か所は作文と面接で見学や説明会は無いが質問あれば電話可。そして面接日が重なったものの、時間がずれて両方受験可能に。

 事前情報が欲しい長男は希望して自ら見学に参加し、まるで面接並みに転職希望理由や前回と現在の職場での仕事内容やら聞かれ、最後に向こうの「支援機関はかかわっていないのですか?」との質問に「現在はありませんが前の職場ではかかわっていました」と答えました。長男はその言葉の重さに気づかず、また仕事内容が前職と同じな事に安堵し更に向こうが終始好意的な態度だったようで、上機嫌でその場の様子を私に話しました。私にはなんとも嫌な予感がふつふつと頭をよぎりました。

 

 面接日が近づいたある日、長男からの言葉に私は慌てました。前職の某官庁から連絡があったと言うのです。

 今回の水増し雇用に関し人事院がとりまとめる全国一斉障害者求人、一次試験合格者はその後直接、各官庁の現場が面接採用の可否を任される、ついては三年間勤めてその仕事や人となりを知る君と一緒に働きたいので、ぜひ人事院の一次試験を受けて欲しい、と言うお話しでした。

 こちらの某官庁、長男に打診する前に支援センターへ出向き事情を話すも、センターの後ろ向きな対応に業を煮やして直接彼に連絡をくれたそうで、受験手続等も分からなければお手伝いしましょうとのお言葉。既に前述の二つの官庁面接日まで十日余り、更に人事院の一次試験(筆記試験及び作文)までは二か月弱で、その申し込み締め切りまで一週間ほど・・・。

 「あなた自身はどう考えてるの?」の問いに長男は「前職の官庁で働きたい。でももし、もうすぐ受ける二か所のどちらかでも受かったなら、先に決まった所で働く。せっかく採用してくれるのを断るなんて絶対に出来ない」と答えました。親としては、出来る事なら前職場に本採用として勤めて欲しい。万が一にも一次試験さえ通ったなら道が開けそうな今、最善の努力を尽くすのが今後を思うと一番良い気がしました。けれど試験を受けるのは、そして勤めるのは長男です。彼の意志こそが全て。また、二か所の官庁の試験、当然どちらも不採用になっても不思議はありません。長男ももちろん分かっていて、落ちたら直ぐ人事院の試験に備え勉強を始めたいと、だからここは慎重に動かねばなりません。

 人事院の一次試験に申し込み、筆記試験の対策を考えました。花風社・浅見社長とのご縁でお会いした「てらっこ塾の大久保さん」へとても勝手なお願いの電話を入れてみました。

全ての事情をお話しし、たった一月弱の家庭教師をとお頼みしました。身勝手極まりない要請にもかかわらず即座にお手伝いしますと快諾頂けました。準備万端、落ちたらこっちにシフト!

 それにしてもまた支援センターです。前職場を紹介しておきながらこの対応。具体的なところは分かりませんが、前職場の人事担当者からの打診に動かなかった、という事です。長男を受けさせたくなかった?勤めさせたくなかった?という事だと思うのです。更に・・・。

 

 重なった面接日でしたが、見学説明会に出向いたところからだったので緊張もほどほどに一件目に向かった長男でした。時間がないので終わるのを見計らって迎えに行き、次を受ける心の準備を。車中で長男は開口一番「面接終わってドアの外に出たら支援センターの人がいてお疲れ様って言われたよ。中に入って行った」!!どうして?たぶん見学会で彼が以前かかわっていたと答えたからだろうなと、そしてまた同じく彼の苦手な仕事や十年も前の障害特性を話すのかな・・・。「結果は今日中に連絡くれるって。早いね。」と。それ、早過ぎ。もう結果出てるのかも・・・そう思いはしても、長男には「結果は後で考えよう。それより次の事考えて!作文もあるんだし初めての場所だから好きだよね?何階で試験するんだろ(大好きな)エレベーターに乗れると良いね!」と次への切り替えを促したのでした。

 

 午後イチで二か所目の試験を受け、自宅に戻った長男。他に6人が受けに来ていた事,身体障害の人が多く補聴器の人もいて・・・と詳しい。作文もあり一緒に居る時間があったから、と。あぁ一か所目は面接のみだし時間が細かく指定されていたね、だから他の人と会わなかったんだね、と言うと、会ったよ支援センターの人に、と言う長男。いや、他の受験者って意味だしその件は思い出したくなかったんだけどな、等と思っていたところに彼のスマホが鳴って、一か所目からの不採用の連絡を受け取った長男でした。

 いやいや仕方ないよね、で?感触はどうだったの作文とか面接もさ!「作文は言われたテーマで一生懸命に書いたよ。面接はまぁさっきと同じような事を聞かれて・・・三日以内に合格者にだけ電話しますって。落ちた人には書類返却でお知らせだって」そして「あのね、なんかさ、ぜひまた受けてください、て」!!??え?なに?「もしもですが、今回落ちたとしても、たぶんまたわりと早い時期にまた募集すると思うので、もしも落ちても、是非また受けてくださいね、て言われたよ」!!!ダメだろそれきっと。ダメなパターンじゃない?

 

 翌日の夕方、長男は出勤の直前、二か所目から採用しますと連絡を頂きました。嬉しさに踊るようにバスへと走る背中を見送り、次の一手をお願いしていた大久保さんへ採用の報告と家庭教師のお断りをご連絡、快くおめでとうございます!と言って頂けて本当にありがたかった。

 大久保さんと支援センターとの大きな大きな違い、隔たりを思わずにいられませんでした。要らないです、就労の邪魔しかしないセンターなんて。

 

 都会では当たり前になって来た障害者の就労ですが、田舎ではまだ難しい面があるようです。本社が二つ返事だったのに現地の支社が面接もせず即断られた場面が何度もありました。これも地域格差?実際に普通の人たちですら就職難な当地だから仕方ないのかもしれません。

 水増し雇用報道のおかげで勤められた今回の就労。また、契約期間の終了とともに就活に勤しむ日が始まるのかもしれません。  

  

 長くなりましたが、三度目の就活に関しては終わります。

 あきらめないこと、福祉を頼らない・あてにしない事、を心がけて頑張った結果だったと思っています。Twitterで応援頂きました皆様に心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

 

 

 少し間をおいて番外編を書ける?書きたいです。

 

 

 当然、 はなから当てになどしていなかった就労支援センターの、想像以上の使えなさに呆れ果てながら、それでもまだこの時点では「センター要らないわぁ」としか思っていませんでした。 

 

 職安から連絡があり彼の履歴書・職務経歴書を再確認した後に、提案だけれどと告げられました。

障害者を雇用しなければならない某独立行政法人とずっと平行線のままで一手を講じかねている。求人に繋がるかは不明だが向こうの担当者に話を通しておくので、履歴書・職務経歴書を送ってみてくれないか?紹介状は出せないけれど、と。

 機は動き始めたように見えました。そして書類送付から2週間後に某独立行政法人は障害者雇用の求人票を出し、長男は添えられなかった紹介状を改めて送り、面接の運びとなりました。6名ほどの求人でした。

 

 面接会場に行くと、そこには同じく求人に応募した数名の障害者と共に支援センター職員がいて、長男を見かけるとなぜ応募を事前に連絡しないのかと長男をたしなめ、更に当然のように面接に同席し、あろうことか彼の苦手な仕事や障害特性を話し出したそうです。長男は驚いたけれど「苦手な事もありますが与えられた仕事は一生懸命に頑張りたいです」って言ったんだよ、と事の顛末を教えてくれました。

 望んでいない、面接への同席、聞かれもしないのに苦手な仕事を羅列(彼は声の聞き分けが難しく会議のテープおこし等の聴覚の仕事が苦手です)、そして障害特性の誇示。

聞けば前回センターから紹介された企業でも面接の際に同じ話をしたのだと。唖然とする私の思いを察して長男は「大丈夫だよ、お母さんはセンターに電話しなくて良いからね。」と言ったのでした。

 

 就労を支援するってどういう事なのか?考えても私にはセンターの意図が分からず、居てほしくない、のではなく、むしろ明確に就労の邪魔をされたとしか思えなくなりました。長男に止められてセンターに連絡も叶わず、けれど今後もセンターがかかわるなら就労が遠ざかるばかりな気がしてならず・・・。

 この面接から数日後、省庁の障害者水増し雇用問題が新聞やテレビで大きく報じられました。そう独立行政法人は役所に準じた存在ですので、この報道で求人の動きは一旦凍結したようでした。

(ちなみにこちら、面接から一月半が過ぎた頃に長男が電話で結果を問い合わせてみたところ、まだどんな仕事をしてもらうかを決めかねていて、結果は出せないと返答。求人票を出しておきながらこれって・・・。もちろん現在も何の音沙汰もありません。某独立行政法人、ダメですね)

 

 この他、地域の役所での臨時職員採用試験を受け筆記の一次試験は通りましたが二次の面接では職務経歴も転職を希望する理由も聞かれないお粗末さでした。地元企業の障害者雇用求人を幾つか当たるものの、みな身体障害者の求人をほのめかし、やんわりと応募を断られたりもしました。何度かの面談の予約をという支援センターからの連絡には、面談不要ですと長男は答え続けていました。

 

 

 

 次回で終わります。

 

 

 

 

 

 三度目の就活を終えて、新しい職場で初めての8時間労働(厳密には7時間45分)に挑んでおります長男です。今回は1年半近い長丁場の就活に私自身が何度か心折れそうになりましたが、その都度長男が「大丈夫だよ」と私を励まし、むしろ彼自身は淡々と就活に動いておりました。

 就労が決まるまでのあれこれを辿ります。

 

 専門学校を卒業の際に最初の職場を紹介し就労に繋げてくれたのは障害者就労支援センターでした。官庁が募集した障害者チャレンジ雇用の三年間は今の彼を形作ってくれたので、繋げる際の一悶着や、務めた三年間の雇用契約の一つだった、毎月の支援センターとの面談内容に関してたくさんの誤学習を生んだ事を差し引いても、紹介して貰えた部分だけは感謝しております。

 そういった経緯や二度目の就活を始めるに当たってのつまづきからも分かるように、その後は常に困った存在いえ要らない存在でした。ですから当然次の仕事は支援センターを通さずに職安に通って彼自身の力で採用に漕ぎつけました。

 

 今回なぜ希望の職に就いていながら転職を希望したのか、と言いますと一番は求人票に書かれていた8時間労働ではなかったという事です。全国津々浦々にある会社なのですが、求人は拠点の一つ北海道支局?から出されていて当地での採用の際にその確認が為されず、こちらからの申し出ではじめて8時間は叶わないことが分かりました。仕事自体が早朝からまたは夕方からの4時間だけだったのです。早朝の作業にはバスがなくまた怒号の飛び交う中での勤務なので、夕方から4時間の一択であった事も、理由の一つでした。

 就労支援センターはこの事に関して、センターを通さずに就労するからこういうことになったのだと彼に言いました。山ほどの反論はありましたが、彼に止められ私は、反論しないかわりにセンターに近寄らないことを彼に提案しました。

 

 仕事を続けながら職安に通う日々、勤務の夕方までの空いた時間で履歴書と職務経歴書を書き、求人先に送る毎日がしばらく続きました。ふと気が付くと応募先は皆、以前の就活の際にも応募し、同じく書類選考で落とされた所ばかりでした。条件も変わらず、年齢・免許資格・学歴経験全てが不問、にも関わらず書類選考は光の速さで今後の活躍をお祈り・・・。3件5件とそれが続き8件?、私とうとうブチ切れ!(笑)。求人票を片手に長男と同行し職安の障害者就労担当者にお会いして来ました。「今後の参考にぜひ教えて下さい。自営業ですので求人の際のシステムは知っています。不採用の場合その理由を書く決まりになっています、息子が落ちた理由はなんと書かれていますか?これらの会社は少なくとも数年前から繰り返し求人票を出していますが当地での採用歴はどの程度ですか?まさか採用しないのに表向きの求人票ではありませんよね?もちろん求職中の側の必死さを汲んで紹介頂いてますよね?」

職安からの答えは思った以上に歯切れの悪いものでした。

曰く、長男に関してはどの会社も落ちた理由が書かれていない、採用歴に関して詳細は答えられないが、公共職業安定所という立場で企業からの求人票が出たら受理し公開している。表向き云々に関しては自分からは言う立場にない。そして最後に「今後は求人側と十分にその内容を話し合ってから紹介状を発行したい、と告げられました。ここから、職安の対応はガラリと変わりました。そして時折、ここは女性を希望ているらしいから、等と長男にこっそり内部情報を教えてくれたりという事もありました。

 

 某社会福祉協議会から求人があると職安から連絡を受けました。1名の求人だけれど面接は書類が届いた先着順に5名だから至急、書類をだした方が良いとの事で、提出の際に確認してもらうと4人目でした。長男はようやく面接が受けられると、ウキウキして連絡を待ちましたが、届いたのは面接の連絡ではなく書類選考の結果不採用との通知で、就活に挑んで初めて見せた長男の落胆の切ない表情に、私、二度目のブチ切れ。もちろん職安ではなく某社会福祉協議会に。

電話を手に取ったものの、直ぐに思い直し長男の許しを得て親としての思いを綴ったお手紙作成。「必親展」で会長に届けなければ抗議の声は届かないと思いました。福祉の看板が虚偽の求人票記載で障害者の心を傷つけるなんて有り得ないと、私には思えたのです。怒りに震えながらの抗議文を三度見直し投函。

二日後某会からこ、れから責任者と謝罪に伺いますとの電話が入りました。長男と話して、「どう謝罪されてもこの件は許せないので来ないで下さい」と謝罪をお断りしました。

 

 私の中でまだ怒りが燻る中、長男に就労支援センターから求人の連絡がありました。彼の希望職種であり最初は短時間でのスタートだけれど慣れたら8時間でという内容でした。

私自身はセンターに不信感しかないものの、長男が乗り気である以上は応援するしかないのだと事の次第、成り行きを見守りました。最初の連絡から一か月以上も経ってようやく面接、そして実習を3日間。採用人数は1名で応募者は2名、長男の話からもう一人の方は精神手帳をお持ちで現在は無職との事でした。結果が出るまでに何故か更に2か月を要しました。実習の現場で企業の担当者は長男に、仕事にはなんの問題もなくとても期待できる、と告げられていました。けれど結果は不採用でした。理由など一切は不明、今後の就活に活かせる情報は皆無。それを聞く事も叶わない状況でした。就労支援とは一体なんでしょう?

 

長くなりました。次回に続きます。

 

 タイトルをご覧いただいてお分かりのように、就活を終えることが出来ました。新卒の折の40社には遠く及ばないながらも、十数社に向けて履歴書を書き続けた日々でした。

 以前との違いはそこかしこにありました。が、やはり一番大きな違いは職務経歴が出来た事だったと思います。そして以前は問はなかった、何でも働けさえすれば、という職種を事務職に絞ったというのが大きな違いだったかと思います。

 

 そうして得た職は厳密には事務職とは言えない仕事ではありますが、実は私自身は彼が高校生だった当時から「あの仕事なら向いてるんじゃないかしら?」と密かにいえむしろ声に出して本人に伝えていた仕事でした。もっとバラすとこの職に応募するのは、専門学校生だった頃から数えて四度目で、ようやく叶った職場でした。

 

 今回も4時間勤務からのスタートですが、8時間勤務での求人なのでいずれはという形です。

半年ごとの契約更新ではありますが、希望の職を得たので今の職場の契約を最後まで全う出来るよう陰ながら支えて行きたいと思っております。

応援いただきありがとうございました。

 

   2017/02/18  記

 

 

 追記  下書きのまま公開せず放置していた事に今(2019/1/11)気づいて冷や汗をかいております。

 この後、半年が経過して求人票の内容に相違があり、結局三度目の就活に突入致しました。三度目の就活は2番目の職場での仕事に就いたまま1年半近くも続き、ずいぶん色々ありました。

「障害者就労」という形について、知って頂きたいと思った事を次回に書きたいと思います。

 

 「愛着障害」という言葉とその意味を知ったその瞬時に、「長男にそれはないが娘にはある、しかも相当に重いはず」という確信がありました。

育てづらさという点においては、発達障害の診断を持つ長男よりも格段に苦労しました。正直言って20歳を目前とする今も若干そう感じています。

 育ち方を振り返ると長男とは明らかに違う点が多々有り、だからこそ娘が自閉症ではないと言う核心めいた思いは早くからありましたがそれでも、ではこの育てづらさはいったいなんだろうと何度も考えて来ました。

 不安感・恐怖感は幼児期から度を超えていて、親から離れられずけれど親を信頼しきれず。幼稚園のお迎えバスには、三年間のなかの二年半泣き顔の娘を先生に預けたものでした。自ら進んで登校したのは高校生になってから、小学中学とも常に不登校予備軍でした。

 

 長男の子育て情報の中に「きょうだいじへの配慮」という重要課題がありました。「障害児のきょうだいは親が手をかけずとも皆良い子だ」という定説とともに、我慢を重ねるきょうだいじにこそ心を砕かねばと言う「かつてきょうだいじとして育った支援者」からの重い提示もありました。

このご本が出版された今なら、そのきょうだいじの負った愛着障害にも思い当たりますが、当時はその提示を心に刻み、娘を大切にしなければと懸命に娘との時間を作ったものでした。

けれど娘との距離感は遠く、与えても与えても彼女の要求は得られていないように思え、自己肯定感など微塵もない娘の姿は、そのまま私の罪悪感になりました。

 

 娘自身、不安感・恐怖感その他諸々や友だちがいないことに随分悩んでいたし、中学生までは支援職に就こうとしていた事からも闇は相当に深いものでしたし、そういう彼女の在り方がおそらく友だちという存在を遠ざけていたのだろうとも思えます。

 希望は、自分を変えたいといつも思っていたことでした。このままは嫌、私は違う自分になりたいのだとずっと思い続けていたこと。彼女のたくさんの思いに何もしてはやれず、ただ寄り添っているだけの私でした。

 

 転機は大学進学、そして内省が何度となく求められる進路だったこと。

親元を離れリハビリ職を目指す娘は、独り暮らしと大学で教育心理や臨床心理などの講義で、何度も何度も自分の育ちや親の対応を思い起こす事になりました。そうしてそれらを周りの子と比べる事にも。

また、身体を学ぶ中で自分の不具合いさへの気づきそしてその基となる脳の働き。

いろんな思いを経て、娘は愛着障害に辿り着きました。もうすぐ出版されるご本、出版社は母の書棚にずらっと鎮座する見覚えあり過ぎる(笑)ところだし、そう言えば読みなさい必ず役に立つと持たされた数冊も全部ここのご本だわ、と自ら注文。

 

 こうして私と娘はほぼ同時に「愛着障害は治りますか?」を手に取ることとなりました。

私より相当な時間をかけて読み解いていたようです。読み終えそして電話で一言「一応言っておくけど、胎児性であったことも含めてお母さんは何も悪くないよ、本にも書いてあったけど本当だよ」と。

 

 このご本がもたらしたものは、私と娘の関係を前に押し出してくれただけではもちろんなく、とても大きくてそして事細かにたくさんあり過ぎて私には書ききれません。そして私自身にも実は大きな愛着障害があった事に気づかせて貰えました。更に言うなら、私の愛着障害は気づいた瞬間に治りました。そんな、凄いご本です。

 私自身の愛着障害に関しては中身がちょっと重すぎなんで書けませんが、重くても治るものです。

 

 愛着障害は、治ります。それと愛着障害、きっと気づかずにいるだけでそこいら中に落ちてます(笑)。

だから、読んでください。お母さんも、先生と呼ばれる立場の方も、命を育むその周りにいるすべての方、どうぞこのご本をお読みください。前に進めます。