読んだ本
アマルティア・セン
アイデンティティに先行する理性
細見和志訳
関西学院大学出版会
2003年3月
Amartya Sen
Reason before Identity, The Romanes Lecture for 1998
The Oxford University Press
1999
ひとこと感想
アダム・スミスやカール・マルクスに並ぶ経済学者にして哲学者、アマルティア・センの哲学寄りの短い論考。従来の経済学が依拠している抽象的個人モデルと、共同体主義による社会的アイデンティティモデルに対して、ロールズの正義論の持つ意味を投げかけ、多様な価値観を持つ人どうしの共生の可能性を探る。
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テーマとタイトル
本書のテーマはタイトル「アイデンティティに先行する理性」が示している通りである。「~に先行する」という"before"の前後にある「アイデンティティ」と「理性」との関係性について論じられている。
「アイデンティティ」というのは、とりわけ「社会的」なアイデンティティを意味している。すなわち、「社会的アイデンティティおよびその役割と影響」(2ページ)を検証しようとしている。
言い換えれば(学問的な説明をすれば)「社会科学における人間行動の記述・説明図式をめぐる次のような問題」(3ページ)を再考するということである。
「どんな目的を追求し、どんな選択をすべきかを決めるにあたって、ひとは自分を他の誰かと同一化したりするものだろうか」(3-4ページ)
この文章にある「同一化したりする」にあたる原語が"identify"である。
アイデンティティとは
アイデンティティ、アイデンティファイ、アイデンティフィケーション。これらの語は、「あるものがそれ自身と同一であることを納得する」(2ページ)プロセスにかかわるが、一般的には、「私」が「自分」を認知すること、認識すること、承認すること、を意味する。
「自分はこういう存在である」「自分はこういう人間である」(と自分は自分のことを考えている)ということを意味する。「同一化」という言葉を使うのであれば、「自己自身との同一化」ということになる。
では「社会的アイデンティティ」とは何か。「自己自身との同一化」ではなく、「社会との同一化」である。上記では「他の誰か」との「同一化」と書かれているが、正確には「社会との同一化」である。しかもこの「社会」とは、多様な「社会」ではなく、ある一元化された特定の通念を指している。
センはこうした「社会的アイデンティティ」のみを全面に押し出す思考、すなわち共同体主義に対して、批判的な目を向けているのである。
アイデンティティの本質
ところが、近代の哲学者ヘーゲルによれば、こうした「同一化」には2つの、本質的に異なるパターンがある。一つは「即自」、もう一つは「対他」を経た「対自」である。
「即自」とは、何ら「他者」もしくは「言語」もしくは「対象」「客観」を経ない自己同一化である。本来「~を経ない」ということは現実的にはありえないが、あえて「~を経ない」という、「意識化」や「言語化」されていない状態の「同一化」を示している。
あいまいな、漠然とした自己同一化である。
もう一方の「対他」とは、こうした「~を経ない」のところが「~を経た」に変わる「同一化」、「~を経た」うえでの自己認識である。
はっきりとした、自覚的な自己同一化である。
この両者はヘーゲルにおいては、「意識」と「自己意識」との違いとしても説明されている。すなわち「意識」とは、とりあえず頭の中で思いついているような「意識」であり、「反省性」を持たない「意識」である。他方「自己意識」とは、「意識の意識」であり、「反省性」を内包した「意識」である。
「自己自身との同一化」は、こうした2つのパターンを持っているが、センがここで論じている「自己同一化」とは、後者すなわち「対他」的意識をもった「自己同一化」のことである。
また、同じくセンが批判する「社会的アイデンティティ」というものも、後者の「自己同一化」に含まれうる。あえて両者を別のものだと理解するためには、センの記述では十分ではなく、もう少しだけ説明を加える必要である。
「社会的アイデンティティ」もまた、対他的意識をもった自己同一化であることには違いないが、大きく異なるのは、第一に「自己同一化」のされ方であり、第二にこの自己同一化の他者への敷衍の仕方である。
「自己同一化」のされ方とは、本書のタイトルのあるように、「理性」に先行するものではない。アイデンティティは理性に先行しない。理性がアイデンティティに先行するのである。
また、こうして得られた社会的アイデンティティは、あくまでもその人のものであって、他者には他者の別のアイデンティティがありうる。少なくとも社会的アイデンティティとは、単一のものでも、普遍的なものでもない。疑いのない権威を持つわけでも絶対的なものであり続けるわけでも、断じてない。
この点についてのセンの主張は、私にも納得のゆくものである。しかし、しっくりこないところもある。それは、「利己的な個人」に対する理解の仕方である。
中性化された個人
近代社会において形成されてきた諸社会科学すなわち、経済学、政治学、社会学(センはここでは「経済学」だけに言及しているが、他の社会科学も同様と考えてよいだろう)などは、こうした「対他」的な自己同一化を出発点に置かず、その代わりに「利己的な個人」を前提とする、とセンは述べる。ここまでは私も合意できる。
「多くの経済理論は、それ[=社会的アイデンティティ]が役に立たないものだとして議論を進める傾向があったために、利己的な個人という仮説は、現代経済学の中心になることが多かったのである。実際、この仮説は、多くの場合、人間の行動を説明するにも、市場経済の効果的働きを説明するにも、適切だと考えられてきた。」(4ページ)
私たち一人ひとりが「利己的な個人」であるという前提の立て方は、きわめて重要な意味を持っている。それは、この前提を受け入れなければ、経済学というものの内部に入り込むことができないからである。
たとえば、ミクロ経済学の入門書の多くは、19世紀末、ワルラスによる「限界効用」(marginal utility)についての説明からはじまっている。1つの財を得るのに、いくらなら出してもよいのか、それが2つめであればいくらになるのか、そして3つめなら…、というものである。
ここでは、その人がどういう「社会的アイデンティティ」を持っているのかは関係なく、どのような「人間」であっても同じ「欲望」を持っていると想定されている。
アダム・スミスにしても、本来は「共感」や「寛大さ」「公徳心」などについて論じているにもかかわらず、経済学においては、買い手の需要と売り手の供給の一致を探る論点だけが抜き出される。
センは、こうした、これまでの経済学が前提とする「人間」観に批判的であることは、以下の引用からも明らかである。
「しかし、交換だけが、唯一の社会的活動ではないし、ましてや唯一の経済活動であるわけでもない。つまり分配も生産も重要だし、生産性に大きく影響する仕事への意欲や規律も重要である。さらに交換システムが効率的に作動するためにも、売買の欲求を駆り立てる基本的な動機付け以上のもの、すなわち、市場経済の繁栄を支えている責任や信頼や社会規範が必要なのである。」(5ページ、下線は引用者)
ただし、こうしたとらえ方は、何もセンが新たに見出したものではない。もっとも大局的に指摘したのは、私にとっては、イバン・イリイチの『シャドーワーク』(Ivan Illich, Shadow Work, 1981)であり、さらにさかのぼれば、シューマッハーやポランニーらの問題意識に連なっている。
また、言うまでもないと思うが、ここでセンが述べている「企業活動に見られる道徳的特質が、資本主義を成功に導く重要な要因であった」(5-6ページ)という説明は、マックス・ウェーバーをはじめとした議論とも交差する。
本書ではこれ以上経済学が「利己的な個人」という前提をたてることへの問題点には踏みこんでいないので、この問題については、セン別の著書を読むときにあらためてとりあげることにする。
取り急ぎここまでの議論を小括しよう。
利己的な個人と社会的アイデンティティ(小括)
問題を整理するとこうなる。
経済学のように、利己的な個人を前提とすることは間違っているが、かといって、共同体主義のように、すべてが他者への同一化によって決まるという考え方も間違っている。
センの言うことはそれほど難しいわけではない。わかりにくいところは、むしろ、講演録の持つわかりやすさに起因している。
また、非常に重要な問題を扱っているわりには、なかなか議論がかみあわず、しばしば放置されてきた内容であるからであろう。
「利己心から離れれば、かならず何らかの形の社会的アイデンティティにたどり着くのかどうか、これはいまなお未解決の問題である。」(8ページ)
少なくとも、リベラルか共同体主義か、といった、いずれかを選択するのではない、別の道を私たちは探ってゆかねばならない。
そこまでは誰もが直観しているはずだが、その先になかなか進めない。
「社会的アイデンティティ」について、「人間の行動に対して重大な影響を及ぼしている」(8ページ)ことは疑いないものの、その範囲(領域)と影響力については、慎重であるべきだ、というのである。
ここで、センは20世紀後半から次第に台頭しはじめた「コミュニタリアニズム」すなわち「共同体主義」に話題を移してゆく。センは勇気をもって、この本題へと進む。
共同体主義への批判
共同体主義は、社会的アイデンティティを基盤とする考え方である。
「社会的アイデンティティは、知識のみならず行動をも左右する」(10ページ)という理解がベースになっている。
共同体主義は、極端に進むと、自身の所属する共同体の外部の価値観は存在しないか、もしくは、理解できないし、理解する必要もなく、少なくともその内部においては、その固有の「社会的アイデンティティ」を愛すること、受け入れることは当たり前であり、そうではない所属メンバーは、「所属」に値せず、場合によっては、元々「所属」していないか、「所属」することを否定する。
SNSで「そういうことをする奴は日本人ではない」「よそ者は出ていけ」「左翼はみな日本人ではない」「そんなことを日本人がするはずはないから、そんな残酷な行為はなかった」といった主張を、絶対的な善意かつ真理であるかのように語れる人たちの心情は、まさしく、ある一つの「社会的アイデンティティ」に依拠したもの、と考えられる。
こうした主張が、かつてのナチズムやファシズム、今日のヘイトスピーチと共通することは、言わずもがなであろう。
もちろん、共同体主義も多様であり、単に誰かがある社会的アイデンティティを受け入れ、それを賞賛すること自体に罪はない。だが、共に共同体を形成する人のなかに、そういう考えではない人がいる場合に、そういう人たちとその思考に非寛容な、敵対的な態度をとることは、その共同体に分断と質の劣化をもたらすことになる。
センの考える「社会的アイデンティティ」をまとめると、次のようになる。
社会的アイデンティティとは、きわめて脆弱であり、可変的であり、多様である。画一な、単一な、純粋な一つの共同体というものは存在しえない。
「日本」や「日本人」という社会的アイデンティティも、当然、1つではないし、絶対的なものでもない。もちろん、そういうことを語るからといって、そうした社会的アイデンティティを「否定」しているわけではないのである。
歴史修正主義とポストトゥルースの時代
にもかかわらず、こうした考えを推し進め、押し付けようとする流れがある、歴史研究における、リビジョニズム、すなわち歴史修正主義は、こうした社会的アイデンティティの過度な信奉の結果とも言える。
「事実」は常に「社会的事実」であり、「解釈」の結果にすぎないがゆえに、歴史を見直すことは常にあるべき姿である。そのことには賛同できる。だが、一般的に知られる歴史修正主義は、そうした批判的意識よりも、自分が信奉する社会的アイデンティティを無批判に(しかも本人は善意の気持ちで)他者に強要してはいないか。
また、「ポストトゥルース」の時代は、ふだんからSNSなどを通じて「事実」かどうかよりも、たとえ「フェイク」であったとしても「いいね」すなわち「共感」の多さを競うことになる。「いいね」やフォローワーが多いことが、その共同体における「正しさ」のバロメーターであると誤認することになる。
こうした「共感」が現代の反知性主義を生み出している。
ロールズの正義論
一元的な社会的アイデンティティを絶対化するような共同体主義に抗うために、センは、ジョン・ロールズを代表とし、ロナルド・ドウォーキン、トーマス・スキャロン、ジョゼフ・ラズ、ジョン・ローマーらに連なる正義論を対置させる。
これをセンは「リベラル」な正義論とまとめているが、前述したように「リベラル」と共同体主義は対置されるものではないことに注意しておきたい。
「公正としての正義」は、ある集団全員に等しく利害や自由の配慮があるようにするために、「原初状態」(the original position)というものを想定する。この「原初状態」こそ、自分がどういった「社会的アイデンティティ」を持っているのか、自分がどのようにこの「社会的アイデンティティ」を受け止めているのか、について、まったく分からない状態を意味する。
この正義論の第一原理は、「自由の優位」である。その集団全員が同じように自由であるという前提からスタートする。すると、自分だけの自由、もしくは、自分と同じ「社会的アイデンティティ」を共有する人だけの自由、という考え方は退けられる。
第二の原理は「機会の配分」であり、格差が生じている場合には、その集団内の最下層の部分への対応を最優先させるものである。福祉の原理であり、この最下層には、さまざまな社会的アイデンティティを有する人たちが集まる傾向にある。
サンデルによる批判への批判
当然、ロールズの正義論に対して共同体主義からは批判が現れている。センはなかでも、マイケル・サンデルによる批判は、検討に値するものとしてその中身を検討している。
ロールズモデルに対するサンデルの批判は、その成立そのものに社会的アイデンティティもしくは共同的連帯意識が不可欠である、というものである。
ロールズモデルもまた、そうして生まれた一つの考えであり、その考えを広く敷衍したり、実践領域に持ち出すことはできない、とされている。
「サンデルによると、ロールズの求めるような正義の規則を適用しようとしても、共同的連帯意識や社会的アイデンティティが予め確立されていないような場合には、実際には無理だろう、というのである。」(15ページ)
ここでセンは、社会的アイデンティティには、1)描写的役割、2)認知的機能、という2つの視点がある、と指摘する。
1) 描写(delineation)的役割
・誰をそのメンバーとみなすのか、含めるのか
・何を社会的アイデンティティとして共有するのか
<問題>
・国境などの境界線の引き方は変わりうるし、境界線の範囲も小規模なものから大規模なものまでありうる
・グループ分けの仕方にもさまざまな方法があり、1人の人間にも多様なアイデンティティがあり、どれを代表させるのかも任意にすぎない
共同体主義は、「人のアイデンティティというものは、その人が決定するものではなく、探し出すものだ」(23-24ページ)ととらえるが、この「決定する」と「探し出す」のあいだには大きな違いがある。
「探し出す」というのは、かつての「私探し」がそうであるように、どこかに「本当の私」があるが、自分ではそれに気付かなかっただけとみなす。「本当の私」とは、「本当の居場所」の「発見」のことである。
だが、これはサルトルが強調していたことでもあるが、私たちはそうしたアイデンティティを自らの責任のもとに「選択」しているにすぎない。そうした「選択」は、常に偶発的であり、また、可変的でもありうるにもかかわらず、「発見」はそれを必然かつ普遍的なものとしてとらえ、他者にも通底するとみなす。
また、こうした「選択」は無制限に行えるものではなく、さまざまな制約のもとで成立している。
「われわれのアイデンティティに関する現実的な選択肢は、いつでも外見、状況、経歴、歴史などによって制限されているのである。」(26ページ)
「社会的アイデンティティ」は、何の疑問も抱かずに受け入れるものではないということと、しかも、選択の余地がある、ということを、まずセンは強調する。
しかし、共同体主義は「共同的アイデンティティを選択の問題ではなく、自己実現の問題にしてしまう」(23ページ)のである。
2) 認知的機能
社会的アイデンティティの認知的機能とは、「共同体の成員が世界を認知し、現実を理解し、規範を受け入れ、何をなすべきかと話し合う時の、そのやり方に関わるもの」(19ページ)である。
「人が帰属している共同体や文化は、その成員が状況を理解したり決断を検討するときの仕方に大きな影響を及ぼすことがある、ということはほぼ疑いないであろう。どんな解釈の作業でも、地域固有の知識、合理的な規範、特定の共同体で共有されている特殊なものの見方や価値観といったものに注意を払わねばならない。」(34ページ)
この点については、共同体主義に対して異論を持たない。しかし、だからといって、その文化的伝統の内部にいなければ、そうした判断ができない、というわけではない。
<課題>
・合理的な判断に影響を及ぼすのは、ある特定の集団の文化や信念だけではなく、選択の余地がある
・文化にも多様性があり、常にさまざまな文化的態度や信念が共存している
ーー人間は、自明性や常識を「疑う」という能力を持っている
このようにして、センは、ロールズの正義論を支持し、サンデルの共同体主義からの反論を退ける。
サンデルの思考は「アイデンティティがまず先にあって、その後に選択に必要な合理的判断が来る」(23ページ)のである。
「人のアイデンティティというものは、その人が決定するものではなく、探し出すものだということになる。」(23-24ページ)
ただし、1)選択は大切であるが、選択が一度きりでいつまでも変わらないとはかぎらないし、2)選択は無制限というわけではない、3)アイデンティティの発見は「今まで気付かなかった人とのつながりとか、家系というものを見出す、という意味において」(27ページ)のものに限定される、という点が留保される。
まとめ
最終的に本書は、以下の4点について、主に述べたことになる。
・社会的アイデンティティは重要であることは疑いない
・しかしそれは、共同体主義の言うような意味とは異なる
・ロールズの正義論は共同体主義の批判にも耐えうる
・ただし、そのためには、若干の修正が必要である
こうした議論は、経済学や哲学、倫理学、政治学といった学問内部のためのものではなく、今、世界にとってなくてはならないものである。
また、経済学内部においても、同様である。
マルクス経済学は、私が学生の頃には、まだ経済学部の半分くらいを占めていた。それが今ではほとんど見る影もなくなった。環境経済学、開発経済学、地域経済学などが、その流れをある意味継承してきた。
センの魅力は、経済学の内部のみならず、外部ともつながりと広がりをもちながら発言をしているところであろう。
年末の混雑したときに行った。予約して入って、まず驚いたのは、一番奥の6人分の席だけが禁煙席になっていたこと。つまり、喫煙席を通って席につく。これは、あまりうれしくない。ただし、実際にはたの席でも喫煙者はおらず、席そのものは快適であった。
不満その1
最初に頼んだ分は普通にやってきたが、中盤から後半、一番奥の席だったのせいなのか、注文してもなかなか料理が来なかった。30分くらいたってようやく来た。また、頼んだはずのものが来なかった。
不満その2
後から、レシートを見ると、バニラアイスが180円(外税)だったはずが、360円(外税)と打たれていた。180円(プラス外税)余計にとられたことになるように見える。
不満その3
トイレの操作レバーが壊れたままで放置されていた。せっかくおいしい料理を出しているのに、とても残念であった。
ただし、料理はいずれも美味しくいただけた。このお店は創作串揚げ専門店で、穴子のスパイシー揚げ、天使の海老、オニオングラタンスープ、キスとみつ葉、帆立、フォアグラ大根、渡り蟹の甲羅詰め、などをいただいた。
ソースも「特製ソース」「燻製出汁」「バジルソース」「レモン汁」の4種があり、とりわけ、バジルソースはなかなか串揚げにあっていた。レモン汁は残念ながら使う機会がなかった。
ほか、アボカドのおひたし、鴨と水菜のハリハリサラダも美味しかった。
お酒についても、特に、 自家製サングリア(白)、自家製グレープフルーツサワーはいずれも果実の風味がしっかりと出ており、「自家製」の名に恥じぬ手抜きなしの味わいだった。
日吉駅からも近く、便利もよく、上記に書いた以外は、総合的には、またもう一度行きたいお店であった。