【以下、いずれの映画についても結末を含む内容にふれていますので、観ていない方が読まれる場合は注意してください】

 

 

 

立て続けに、映画「ダウントン・アビー」と「パラサイト」を観た。それ以前に「万引き家族」も観ているが、「万引き家族」との対比はまたの機会にするとして、ここでは「ダウントン・アビー」ファンの視点からの「パラサイト」への感想(というか勝手な解釈)を記したい。

 

 

 

 

映画版の「ダウントン・アビー」は、テレビドラマとして人気を博したシリーズの続編であり、登場人物も時代背景もすでになじみあるものだが、あらためて整理すると、20世紀初頭、イギリス、ロンドンから少し離れたところにある大邸宅を仕切る貴族一家とその使用人とのあいだで起こる事件の数々を追いかけた物語である。貴族的生活が崩れつつあるなかで、これまでの常識や日常が揺らいでゆくが、その揺らぎにすべて身を任せるのでも、すべて拒むのでもなく、微妙なバランス感覚で時代を生き抜こうとする人々のありさまを見つめている。


とりわけ興味深いのは、使用人たちで、屋敷内ではあくまでも「下の階」の人間であるが、そのなかでも執事はほぼ「上の階」の側に近い存在となっているなど、両者の往還は不可能ではない。特に、元々は車の運転手であった人間が一家の長の娘の一人(シビル)と結婚し娘をもうけ、その後妻は病死するも、一家の一員として重要な役割を担うようになることもある。その名はトム・ブランソン。アイルランド出身で国王体制に反対する共和主義者であった彼が、下の階から上の階へのぼり、誰もがその立場を認めるに至った彼のこれまでの経緯から、「パラサイト」を眺めてみるとどうなるか、それがここで書いてみたいことである。


「パラサイト」の舞台は韓国。時代は、ほぼ現代と思われる。3つの家族が登場する。IT企業の社長を務める父がいる裕福な4人家族と、全員失業中で「半地下」で暮らす貧乏な4人家族。そして、「地下」で暮らす男とその妻。作品上、主人公は半地下の父であるようだが、その息子、 ギウに焦点をあてよう。


ギウはちょっとしたきっかけで大邸宅に暮らす高校生の娘ダヘの家庭教師となる。2人のあいだに恋が芽生え、ギウはダヘが高校を卒業したら結婚したいと考えている。そのまま順調に、すなわち、映画のようなことが起こらずに、何事もなくダヘが大学受験に成功していれば、ギウが描いていたような理想的な未来が待っていたはずである。しかし、ギウはそんな先のことよりも「今」の自分の家族のことを優先したようである。自分だけでなく、妹も、母も、父も、この富裕層家族にパラサイトし、「家族」として1日だけでも富裕層邸宅でくつろぐこと、それが第一のゴールであるように描かれていた。雨が強く降るなか、一度はキャンプに出かけた富裕層家族が戻ってくるかもしれないという不安を抱くこともなく、立派な家で酒を飲み、羽目を外す4人。ここまでは「計画」通りだったのであろう。ところが、その後、知られざる第3の家族を召喚することとなり、悲喜劇が加速する。


第3の家族は、本来、存在することのない、表に出ることのない、「闇」というか「影」というか、「媒介」というか、そういう役目を担っている。実際のところ最後は、2人とも死んでしまう。また、ギウの妹のギジョンは殺され、母のチュンスクはおそらく傷害罪により「塀の中」であることから、物語の終わりまで残る人物は、父のギテクとギウだけとなる(父を失った富裕層の家族がその後どうなったのかは不明)。しかもギテクは事件後、地下生活から抜け出すことはなく、ただ息子がいつの日か自分を解放してくれることを願うばかりとなる。もちろん、そういう日が訪れることは、決してないだろう。


言うなれば、半地下生活者たちは、完全に敗北しているのである。彼らはそれぞれ、それなりの才能はあったし、事業が失敗する前は、それなりに暮らしていた可能性もあるが、どうしてこういった「格差」や「悲劇」がもたらされるに至ったのであろうか。もしくは「ダウントン・アビー」のトムのような「成り上がり」方がどうしてできなかったのであろうか。もっと言えば、監督のポン・ジュノがそうしたハッピーエンドを望まなかった理由はどこにあるのだろうか。


ただ、ここで社会への問題提起としてこの作品の「意味」を解読することはしたくない。端的に作品がおもしろくなるかどうかという視点から言いたい。それであれば、ギウたちの「計画」が頓挫するほうが「おもしろい」に決まっている。かといって、また、あの宴席にてあれ以上の殺人が起こってゆけば、それは映画「冷たい熱帯魚」の世界になってしまう。少なくともIT社長であるパクがふいに殺されてしまうのは、運命的には、腑に落ちる。なぜなら、まさしく彼こそ、「匂い」ならぬ「臭い」によって自分たちと「彼ら」とを明確に別物ととらえていた張本人であるからだ。


もしもパクが「臭い」のことに気づいていたとしてもそのことをあからさまに、しかも公然と語ることさえなければ、このような悲劇は起こらなかったかもしれない。だが、彼はこの「臭い」を自明化することによって強烈にギテクたち一家のことを蔑視し、差別して追い込んでいったことになる。少なくともギテクたちは生まれながらの「半地下」の人間ではないはずなのに、「臭い」という拭うことのできない烙印が自分たちに刻み込まれていることに気づかされ、強烈な絶望感を抱く。

他方、その息子であるダソンはそもそも幼児期のトラウマが地下生活者によってもたらされたことがあるためか、偽装していたギテクたち一家の正体を「同じ臭い」のある者たちとして見抜いていた。そのダソンが再び、地下からやってきた恐ろしい形相をした者と向かい合うことになり失神するのは、何ともやりきれないものがある。ギウはギウでおそらくこれからの人生を地道に生きることになるが、ダソンもまた、心の傷が癒されることなく怯えながら生きることになるであろう。富裕層であれ半地下生活者であれ、この息子たちに幸福な人生という見通しはない。


他方、それぞれの娘はどうだろうか。ギテクの娘ギジョンは殺されてしまうが、パクの娘タヘはどうなったのだろうか。彼女は瀕死のギウを見捨てることなく、また「臭い」に対する不快感を示すこともなく、純粋にギウとの関係を維持していたと思われるが、さすがに惨劇にかかわったギウとはそれ以降は縁が切れているとも考えられる。そもそもギウに家庭教師の話を持ってきた友人のミニョクが、タヘに留学から帰ってきた後、タヘが高校を卒業したあかつきには正式な交際をすると宣言していたことから、もうギウのことは忘れて富裕層のミニョクと未来を歩む可能性が高い。とはいえ気になるのは、タヘはどうも母親と仲が良いわけではなく、むしろ元々のハウスキーパーだったムングァンと、彼女が解雇された後にも連絡をとりあっていたことからも、もしかすると、密かにタヘとギウとがつながり続けるのかもしれないという余地を残してくれる。しかし、おそらくギウは表のつながりを持ち続けることはないという意味では、結局はギウは半地下生活を続けることを余儀なくされそうである。


いずれにせよ、「ダウント・アビー」の出世頭トムと「パラサイト」の落後者ギウの人生では大きく隔たりがあり、もしも自分が半地下もしくは地下の人間であれば、トムのように生きることを選びたいと思うに違いないが、作品の作り手と観客は必ずしもそうした結末を望んでいないことが往々にしてあり、本作でも、ギウには可哀そうだが、私たちに半地下と地上を行き来する危うさを追体験させるような役割を演じてくれたことに、私たちは感謝するほかない。

 

 

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もうすでに7か月が過ぎたが、パット・メセニーと長らく音楽活動を続けてきたキーボーディスト、ライル・メイズが2月10日に亡くなった。

 

ただただ悲しい。ただただ残念でならない。

 

名作は数知れず、名演奏もまた数知れず。

 

ソロアルバムもいくつか出しているが、やはり、パットとの楽曲が、Watercolors(1973)にはじまり、The Way Up(2005)まで、いずれも劣らず、美しい「作品」に仕上げられてきた。

 

とりわけ、As Falls Wichita, So Falls Wichita Fallsの緻密な構成やHave You Heardの艶めかしさは、何物にも代えがたい。

 

しかし、亡くなられたあと、ネットでしばしば話題となったのは、Close to Home、ではないだろうか。

 

あらためてこの楽曲の美しさに、耳を奪われた。

 

もちろん、パットとともにこの曲を演奏している姿は、何よりもまして、感慨深い。

 

https://www.youtube.com/watch?v=H9F9bjhrgvM

 

だが、パットがそこにいなくても、もっと言えば、パットが絡んでいなくとも、この楽曲のすばらしさは、十分に伝わってくる。

 

https://www.youtube.com/watch?v=FHZmqlZGgO4

 

ライルの生み出した「音」は、さりげないのだが、じわーっと心に響いてくる。

 

https://www.youtube.com/watch?v=FHZmqlZGgO4

 

ああ、ライル。

 

あなたは、本当に素晴らしい。

 

今日はあなたのことを、忍びたい。

 

ありがとう、ライル。

 

あなたの作品は永遠に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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たとえば、フランスのお菓子、というと、とても甘いイメージがある。スイスとかベルギーのチョコ、これも甘い。ドイツのお菓子、これは質実剛健という感じで、変わった味がする。それでは米国はどうかというと、やはり、少し甘めである。

カリフォルニアを中心としたスーパーのチェーン店Trader Joe'sで売っているお菓子も、やはり全般的に甘めではあるが、けっこうおいしい。小麦粉がしっかりとしているのだ。
 


これは、大きなクッキー。チョコとアーモンドが香ばしい。1枚で、十分に満足感が得られる(2枚食べると口のなかが、甘くなってしまう)。

これは、小さなチーズ味のクラッカー。これは甘くない。塩がふられている。


カナダ、という感じのクッキー。あいだにはさまれた白いところは、メープルシロップが入っているせいか思っている以上に甘い。
 


薄いクッキー。名前の通り、バターとアーモンドが香ばしい。これは数枚食べられる。

 


ワッフル風のクッキー。やはりメープルシロップがかけられていて、驚くほどの甘さ。


クッキーにピーナツバターが載せられている。ストレートに甘い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た映画作品
否定と肯定(原題:Denial)
Mick Jackson(Director)
Gary Foster、Russ Krasnoff (Producer)
David Hare(Screenplay)
2016年


原作
Deborah Lipstadt
History on Trial: My Day in Court with a Holocaust Denier
Ecco
2005

ひとこと感想
これまで自明だった事柄を疑うこと、そして、別の可能性を示すこと、そのこと自体は悪いことではない。だが、内容とやり方によっては、それは、ヘイトクライムや反社会的行為となりうる。表現の自由と人権の尊重、そして、歴史をめぐる解釈の相違と政治的主張の行き場など、よく考えねばならないテーマが山積みである。

 

***

 

映画の冒頭に”Based on a true story”とあるように、本作は、伝記的内容、すなわちノンフィクション作品として位置づけられている。

米エモリー大学に所属する歴史研究者デボラ・リップシュタット(1947- )が1993年にペンギンブックスより刊行した著書『ホロコーストの真実』(Denying the Holocaust: The Growing Assault on Truth and Memory)の内容に対して、英国の作家であるデヴィド・アーヴィング(David Irving, 1938- )が1996年に名誉棄損で訴えを起こしたところから、この物語ははじまる。

リップシュタットはホロコースト否定論者とは討論しないという主義だったが、アーヴィングが訴えられた側に立証責任のある英国の法廷に提訴したことにより、受けて立たざるをえなくなる。

もしもリップシュタットが敗訴すれば、裁判にてアーヴィングの主張が正しかったかのような印象が世間に広まる――彼女はそう懸念して、必ず勝てるように歴史家や弁護士を集め、チーム体制でこの戦いに挑むこととなった。対するアーヴィングは自らが証言者として立つ。無謀とも言える。

その後、リップシュタットの内面的苦悩、チームのメンバーとのやりとり、そして法廷でのやりとりが中心に話は進むが、結局は、アーヴィングの言い分は通らなかった、というのが大筋である。

本作品について感想をネット上で記している多くの人が指摘するタイトルの問題、すなわち、現代の「Denial」に対して、邦訳がなぜ「否定と肯定」となっているのか、については、他の方のブログなどをお読みいただければそれで充分なので、省略する。

また、ネット上にはすでにいろいろな方の感想がある。それらを読ませていただいたが、多くの方が、ストーリー展開に盛り上がりがないという指摘をしていることに驚いた。私には十分にドラマチックな「法廷劇」として楽しめたからである。

だが、本作について私は、そうした「作品」の映像的、物語的な論評をしたいわけではない。それ以前に、もっと真剣にふりかえっておきたいテーマがある。

一言でまとめれば、本作が歴史修正主義への説得力のある反論ができているかどうか、である。

結局のところ、どうして歴史修正主義者、反ユダヤ主義者、ヒトラー崇拝者である歴史作家のアーヴィングによる著述が受け入れがたいものなのか、そのことについて、どうやってこの考え方に親近感を抱く人たちに納得のゆく説明ができるのか、という点については、これでは十分ではない、と私は考える。

たとえ、アーヴィング自体が敗訴の結果、賠償金が支払えず破産宣告するばかりか、その後、これまでの主張を否定して、今では当時と同じようには考えていない、と「改心」したかのようにふるまっていたとしても、決して私の気持ちが晴れないのは、決定打となるような論拠というか、核心を衝く論理というか、もっと打撃力の強いものを求めているからかもしれない。

もちろん、だからといって本作の質が低いとか、実際の歴史家リップシュタットの力量がない、とか、そういうことを言いたいのではない。むしろ、歴史修正主義への反駁の困難さをあらためて痛感しているのである。

これは、「事実」かどうかとか、「多数決」的な意見であるとか、そういった次元では解決できない、根深い問題である、と私は考える。

そこで、以下では、本作がどこまで相手である歴史修正主義を追い詰めることができたのか、という一点においてのみ、関心を集中させて論を進めることにする。

まず、ここで特に、問題としてとりあげたいのは、アーヴィングに訴えられた歴史研究者であるリップシュタットが判決後にコメントしていた、この世には、まがうことのない事実がある、という主張である。

「意見は多種多様ですが、否定できない事柄があるのです。奴隷制、黒死病、地球は丸く、エルビス・プレスリーは死んでいます」(リップシュタット)

とりわけ物証の少ない(とされているが、実はそれほど少ないわけではない。ただし、少なくとも露骨な証拠を極力残さないようにしていた)ナチによる組織ぐるみのユダヤ人大量殺戮については、その物証の少なさ自体が、重要な「事実」でもあり、そもそも歴史修正主義の本質は「事実」かどうかが問題なのではなく、どういう歴史が自分にとって望ましいかなのである。そうした歴史像を求める意志が一定数以上自分がかかわる共同体や社会に存在するかぎり、その「思想」は一つの「社会的な事実」として通用してゆき、ひいては「事実」として、人びとの意識は受容するようになるのである。

つまり、歴史修正主義者に「事実」をつきつけるような戦術は、法廷で争った結果、勝訴しても、彼らの「信仰」としての「妄念」の力をとめることはできない(できなかった)。

ただし、ここで強く断っておきたいのだが、私は、ある個人が歴史修正主義の「思想」を抱くことも、それを(小さく)表現することも、否定や非難はしない。その点における「自由」は保障されるべきである。

 

問題は、それを殊更強く、攻撃的に表現すること、である。ある種の「限度量」というものがあり、たとえば「信仰」の共同体と同じように、かつてのオウム真理教のように、彼らの信仰と異なる人間に向けて殺害を仕掛けるような場合、その信仰は(社会的に)否定されるが、共感しあえる人たちどうしでその「思想」を確かめ合ったりすることについては、否定できるものではない。

今私に言えることは、できるだけお互いに気を遣いあって、共生してゆきませんか?、ということである。私は、対立する意見をねじ伏せたいわけではないし、反論や反撃をしたいわけでもない。ただ、時々、公共空間において度を越した言動があるとき、非常に不愉快になったり、怒りが沸いてきたり、悲しい気持ちになったりしたくないのである。そして、この「公共空間」というものも、理解の仕方に違いがあるのかもしれないが、街角でヘイトスピーチをするのはもってのほかであるばかりか、ネット上のSNSにおいても、クローズドの会話でないかぎり、謹んでもらえないものなのか、ということなのである。

そうした情緒的な言い方しか今の私にはできないのだが、ただ、本作に求められているのは、経済学者にして哲学者であるアマルティア・センが指摘しているような、ロールズの正義論に対する共同体主義者の批判に対する再批判ではないか、と思われる。

実際の裁判の判決もそうであり、映画内における演出からしても、はっきりとした結論が出ているものの、判決文の詳細を読んでみると、必ずしもアーヴィングの主張も全面的に退けられたわけではなく、それなりに緻密な検証を行っていたことが評価されたりしている。

作中でも出ていたように、建築学的な知見から、アウシュヴィッツの「ガス室」が本当に殺戮のために使われたのかなど、振り返って検証しようとすると、必ずしも圧倒的な「正しさ」を見せつけられるとはかぎらない。

科学(歴史学)は揺らぐことのない真実に立脚しているわけではなく、事実的な事象を手掛かりにしつつも、自分の信念や信条に大きく左右されて、物語をつくりあげたり強化したりするものだという意味では、歴史修正主義も正統派の歴史家もそう大きくは変わらないのではないか。

少なくとも、正統派歴史家は、譲歩して、修正主義者に対して、「力」の差によって物事が決まっている点について、認めるべきではないか。

リップシュタットは冒頭で、黒板に以下の4点が「ホロコースト否定論者」(DENIAL)の主張であるとする。

1 KILLING NOT SYSTEMATIC
 殺戮はシステマティックなものではない

2 NUMBERS EXAGGERATED
 その数に誇張がある

3 AUSCHWITZ NOT BUILT FOR EXTERMINATION
 アウシュヴィッツは絶滅のための建物ではない

4 HOLOCAUST A MYTH
 ユダヤ人大量虐殺は神話である

こうして書き出してみると、4以外は突き詰めると、簡単に「断定」できるものではない、とは考えられないだろうか。

4は、1~3が正しいときに成立するものであるから別枠として、1~3は、膨大な史料や証言など、客観的証拠から正しいとされるのは言わずもがなであり、それが裁判でも立証されたわけであるが、話が簡単ではないのは、一つひとつの「正しさ」ではなく、ある一貫した(政治的)主張に基づいて、それに適合しうる事項を寄せ集めれば、それなりに納得のゆく説明を生み出すことができるということである。

こうした、歴史修正主義との戦いは、本作品にかぎらず、これまでもしばしば表舞台に登場してきた。

国内で有名なのは、1995年に『マルコポーロ』という雑誌に「戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった。」という記事が掲載され、その後抗議を受けて廃刊となった。

また、国内では、歴史修正主義は別の内容で展開されており、その声は依然よりも大きくなっているように、私には思える。

「別の内容」とは、主に、特に以下の2点である。

・日中戦争における南京事件はなかった
・日本軍に従軍慰安婦はいなかった

一方では、歴史的史料に基づいた検証をふまえた議論も含まれるが、それ以上に重要なのはこうした主張が、「日本人はそれほど残酷なことをするはずがない」といったようなきわめて情緒的な思いに支えられていることである。

そして、これまでのような歴史観が他国から強いられたものである、という理解が前提となっている。それを信用していることに対しては、揶揄して「自虐史観」と呼んでいる。

私にとって驚きなのは、それほど正当性を持っていると保証できるように思えない「日本人はそれほど残酷なことをするはずがない」というような自己認識、自己規定がどうしてできてしまうのか、である。そういう人たちの心のなかにはまったく「残虐性」がないとでも言うのだろうか。そう願いたい、という気持ちはわかるが、事実や史実はそれを裏切ることがあることを、どうして受け止めることができないのか。

また、前述したように、歴史は「つくる」ものである以上、何らかの操作があることは自明である。彼らが言いたいのは、自分の気に入った歴史をつくりたい、ということであるだろうことは容易に想像がつく。もしそういう意志があるのであれば、それは過去の塗り替えをするのではなく、未来に向けて作ってゆけばよいのではないか。過去の解釈をめぐる闘争はどこか不毛である。未来はこうあるべきだ、という主張をする。そうすれば、将来、自ずと歴史は書き換えられるかもしれない。過去の歴史の書き換えに固執するよりも、未来に向けたメッセージを発してゆけばよいのではないだろうか。

 

 

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1月17日は、どうしても、1995年に起こった阪神淡路大震災を思い出さざるをえない。

 

その日、私は、大学時代のを失った。

 

あれから25年。

 

この四半世紀を私は生きたが、彼はあの日の時点で止まったままである。

 

もしも彼が生きていたら、今、どうしていただろうか?

 

相変わらず飄々としているだろうか?

 

それとも、大きな変貌を遂げていたであろうか?

 

・・・

 

その日の翌日、朝目覚めたとき、夢を見ていたことに気づいた。

 

主な登場人物が、亡き父、亡き猫たち(虎之助、シナモン、ゆいた)であった。

 

亡き友が、亡き父、亡き猫たちを夢の中に招き寄せたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

読んだ本

小松理虔

新復興論

ゲンロン

2018年9月

 

ひとこと感想

原発事故ならびに東日本大震災を経て、学んだことがある。書き手の目線が、自分しか、ほんの一部しか見えていないか、全体が見えているうえで、自分のいる場所のことを真剣に受けとめているかで、まったく異なる風景が生まれるということである。もちろん本書は後者である。

 

***

 

「ローカルアクティビスト」を名乗る著者。本書を「学術書」や「専門書」ではなく、「小名浜という町に暮らす一人の人間の経験を書き連ねたまで」(7ページ)と位置づける。

 

何の本なのか――「「地域とかかわること」について書かれた」(7ページ)ものである。その「地域」とは「いわき市」ならびにその周辺のことである。

 

本書は3部構成となっている。

 

1 食と復興

2 原発と復興

3 文化と復興

著者は「食」「芸術」「観光」に関心があるとするが、特に「観光」について、興味深い指摘がある。

 

「観光は、より遠くにいる人たちを切り捨てない。ふまじめな人、物見遊山の人、勘違いの人や、もしかしたら偏見を持っている人すらも切り捨てることはない。賛成/反対、食べる/食べない、帰る/帰らない、県内/県外、支持/不支持。様々に二極化される福島だからこそ、外部を切り捨てない観光という概念は、今、もう一度再起動されるべきだ」(10ページ)

 

そして「観光」のみならず「思想」もまた、「外部」を切り捨てない、と著者は述べ、門外漢であったはずの自分がその領域にかかわり、「地域」と「思想」の重なりにおいて、接点をもちうる人たちに、本書を届けたいという。

 

そして、「観光」のなかでも、または、「観光」へと至るプロセスのなかでも、最初にとりあげるべきものは「食」である、とする。

 

著者は2012年にいわき市にあるかまぼこメーカーに勤務し、営業・広報担当として、情報発信を行った後、2015年からはフリーランスとして、お店の手伝い、広報支援、イベントの企画など、食に関わる仕事を行う。

 

そのなかで感じた、いわき市ならびに三陸(特に浜通り)の印象は、「ヤマトとアイヌが混じり合い、暖流と寒流がぶつかり、北限の植物と南限の植物が共生する、浜通りとは、実に豊かで多様性のある地域なのだ。しかし、その潮目が自然環境の豊かさを与えれくれる一方で、境界線であるがゆえの難しさ、貧しさをももたらしてきたのも事実だろう」(30ページ)ということである。

こうした土地に足りなかったのは、「地域が自ら文化を育て、収奪に抗う力」(33ページ)だった、と指摘する。これを平田オリザは「文化の自己決定能力」と呼んでいる。イリイチならば、自律的生産様式を有するバナキュラーな文化の力ということになるだろう。

ところが、著者が活動するなかで、目の前にたちふさがる大きな壁の存在を自覚する。防潮堤である。安全性を優先したことによって、すばやく建てられた防潮堤は、貴重な地域資源である「海」とのつながりを断ってしまうこととなった。

「自分たちの命や文化をはぐくんできた海との間に壁を作り、海の民としての遺伝子を捨ててしまうことになりかねない」(47ページ)

著者の葛藤は、小名浜通りに「よそ者」としてかかわるなかで生まれ、「復興」のなかで少しずつ形が明らかになってきた。

「復興とは地域づくりだ。これは、震災後、多様な形で地域に関わり続けてきた私の信念でもある。ところが、これまで見てきたように、災害そのものの被害というより、その後の復興過程のなかで、魅力を減じられているようにも見える」(51ページ)

その原因を著者は「思想の不在」としている。

「外部の意見を受け入れつつ、自分たちの文化の強みを自分たちできめられるような開かれた地域を目指すことは、二度目の被災に対する「防災」になり得る」(52ページ)

 

そのため、「観光」もまた、著者の言葉で言う「リアル・ツーリズム」すなわち、非日常だけでなく、自分たちの日常を見せようとする。

 

「有名な観光名所もそれなりに回るが、案内する場所の多くは私にとっての日常である。それらを巡る旅は「リアル」ツーリズムと言っていい」(95ページ)

 

また「日常」のみならず、福島県ならびに浜通りには「バックヤード性」という特徴があり、これもまた観光につなげようとしている。

 

バックヤード性というのは、福島では(かまぼこをはじめとした)食品産業のみならず工業製品においても、非常に高品質のものをつくりあげる中小企業が数多く集まっているが、あまり表面に出ることがない、ということである。

 

「私はそのバックヤード性そのものを、文化や芸術、観光の力で可視化して伝えるべきだという考えを持っている」(100ページ)

 

ただし、あまりにもコモディティ化しているため、なかなか伝えにくいのが難点となっている。

 

この難点をクリアしようと実行しているのが、ブランド化である。今のところ酒が海外も含めてブランド化に成功しているので、これを突破口にしようとしている。

 

話は少し逸れて(本書で言えば第2部にあたる)原発事故による影響であるが、著者の認識は以下のとおりである。

 

「双葉郡から避難を余儀なくされた人も、いわきで被災した人たちも同じ被害者なのだ。それなのに、被害者同士がなぜ反目し合わなければならないのだろう。分断の中心には賠償がある。原発を誘致した時と同じように、権力はカネで分断を図るのだ」(158ページ)

 

賠償金のみならず、復興予算にしても著者は疑問を呈し、今後しっかりと検証しなければならず、賠償のシステムを見直し、もっと地域が自立できるようなプランを考えてゆかねばならないと考える。

 

「原発事故を経験した私たちは、未来の子孫が依存に終わらないよう、大きな思想を持って地域や企業のビジョンを策定していく必要がある」(170ページ)

 

こうして要旨をまとめてみると、その文面に、それほど強烈なインパクトがあるわけでないことに気づかされる。だが、本書の魅力はそこではない。

 

本書の魅力は、原発事故のあとの、福島県やいわき、浜通り、双葉郡などの日常の光景を、事細かく「記録」している点にある。著者の言う「思想」とは、私にとっては本書の「記述」の仕方にあるように考えられる。

 

当事者が、他者や全体性、外部性を意識しつつ、当事者であることから発言したり記述すること、こうしたあたりまえのことが、実は多くの言説では成立していない。

学問的に言えば、今なお、ブルデューが指摘した「客観化する主体の客観化」やラトゥールの言う「アクターネットワーク」理論の地平をクリアできていない記述は、どれだけ支持者があろうとも、どれだけ本人に強い信念があろうとも、公共空間とりわけアカデミズム空間においては、きわめて脆弱なものでしかない、ということである。

それゆえ、本書の作者のような、何らアカデミズムに気兼ねも負債もないままに、それでいながら、アカデミズムの内部ではなかなか到達しえないような次元に上りつめた作品は、とても貴重な私たちの共有「財」なのである。

著者に、感謝、である。

 

 

 

 

 

 

 



 

以前より気になっていたのだが、あらためて真剣に考えてみた。

 

タイトルにある通り、私は、コーラやジンジャーエールなど、ノンアルコールの炭酸ドリンクでも「酔う」ようなのである。

ノンアルコールビールや、ノンアルコールのカクテルなどでも、同様。

 

「酔う」とは、どういうことか。と、いうと、炭酸ドリンクを飲むと、あからさまに、顔が赤くなる。顔が火照る。ちょっと良い気分になる。ぽーっとする。

 

今まで、これは誰にでも起こるものだとばかり思っていたが、実はそうではないらしい。

 

実際、「YAHOO!知恵袋」には、以下のような問い合わせが散見される。

 

知人の中に "炭酸で酔う"と言う人がいるのですが・・・

炭酸飲料を飲むとたまに頭がホワッとなって一瞬で・・・

炭酸を久しぶりに飲んだらお酒を飲んで酔う感・・・

炭酸飲料を飲んで酔う人っているのでしょうか・・・

僕は炭酸飲料を飲んだらテンションが上がってし・・・

 

大別すると、以下のように原因が説明されている。

 

1)カフェイン説


これは、コーラの場合に特にあてはまる。アルコールではなく、カフェインによって、酔ったのと似たような様子になるととらえられている。

たとえば「 カフェインは神経伝達物質に良く似た構造をしていて神経の受容体をブロックするために慣れていない人が大量に摂取するとちょっとおかしな状態になります」といった記述がある。

 

これは、「神経」への影響に注目しているもので、カフェインによって、気分が高揚するといった影響がありそうだというのは、理解できるが、これでは顔が赤くなる理由の説明とはならない。

 

2)香料説


香料にエタノールが使われているため、微量のアルコールが含まれているという説明もある。
 

たとえば、「飲料水に使われる「香料」は、溶剤に通常エタノールが使われています。そのため清涼飲料水であっても、0.05~0.2%程度のアルコール濃度は、普通です」といったようにである。

香料の入っていないドリンクでも同様の現象が生じているので、これも、有力な説とはしがたい。

 

3)二酸化炭素吸収説

 

急激に炭酸(二酸化炭素)が体内に入ることにより、「酔い」と似た状態になるというもの。

 

「血中二酸化炭素上昇で血液pHを下げ、血管拡張と呼吸中枢刺激による呼吸深大とが起こるため」という説明もある。

 

説明はもっとも科学的であるが、これだ、という確信が持てない。

 

4)超微量アルコール説

 

2)と重なるが、香料にかぎらず、ともかく、その飲料に超微量のアルコールが含まれているから、それに身体が反応しているのだ、というもの。

 

やはりこれも確信が持てない。

 

5)気分説

 

感覚的には「気分」で「酔う」というのが、今のところの私の仮の結論だ。

 

炭酸そのものの気持ちよさは、最終的には、3)の説明に行きつくのかもしれないが、3)だ、と言い切るのは、ちょっと違うと思う。

 

1)から5)の可能性もあるが、今一つ決定打がない。

 

放射線被曝においてもそうであるが、ごく微量の化学反応をうまくとらえることは、きわめて難しい。また、意外なほどに個体差がある。おそらく、ただ一つの答えはないのであろう。それでも私は炭酸に「酔う」ことは「確か」なのである。

 

 

 

2013年9月に、「サルバドール・ダリと原子(力)」という記事を書いたが、いくつか、追補。


原子十字架

The Atomic Cross
絵画

1952年


原子力の時代
The Atomic Era

リトグラフ

1957年

また、2点ほど、ダリと原子力にまつまわる写真ついて補っておきたい。

 

諸橋近代美術館のホームページにて、 フィリップ・ハルスマンが撮ったダリの写真のなかに、「原子力」を絡めているものが2点紹介されている。

 

ダリ・アトミクス

Dalí Atomicus
Philippe Halsman
写真

1948年

タイトルに「アトミクス」という言葉が含まれているが、画像に含まれているのは、ダリと椅子とカンバスと水と黒猫である。 28本のフィルムを使い、8時間かけて撮られたと言われている。

 

私は原子爆発に思いふける

I Personally Indulge in Atomic Explosions

Philippe Halsman
写真
1954年

 

こちらはダリの口からタバコの煙の代わりに原爆のキノコ雲のようなものが出ている。

 

これら2点をみると、「アトミック」という言葉が、その破壊力のすさまじさのイメージから用いられている感がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

読んだ本
アマルティア・セン

アイデンティティに先行する理性

細見和志訳

関西学院大学出版会

20033

Amartya Sen

Reason before Identity, The Romanes Lecture for 1998
The Oxford University Press

1999


ひとこと感想
アダム・スミスやカール・マルクスに並ぶ経済学者にして哲学者、アマルティア・センの哲学寄りの短い論考。従来の経済学が依拠している抽象的個人モデルと、共同体主義による社会的アイデンティティモデルに対して、ロールズの正義論の持つ意味を投げかけ、多様な価値観を持つ人どうしの共生の可能性を探る。

***

テーマとタイトル
本書のテーマはタイトル「アイデンティティに先行する理性」が示している通りである。「~に先行する」という"before"の前後にある「アイデンティティ」と「理性」との関係性について論じられている。

 

「アイデンティティ」というのは、とりわけ「社会的」なアイデンティティを意味している。すなわち、「社会的アイデンティティおよびその役割と影響」(2ページ)を検証しようとしている。

言い換えれば(学問的な説明をすれば)「社会科学における人間行動の記述・説明図式をめぐる次のような問題」(3ページ)を再考するということである。

 

「どんな目的を追求し、どんな選択をすべきかを決めるにあたって、ひとは自分を他の誰かと同一化したりするものだろうか」(3-4ページ)

 

この文章にある「同一化したりする」にあたる原語が"identify"である。

 

アイデンティティとは
アイデンティティ、アイデンティファイ、アイデンティフィケーション。これらの語は、「あるものがそれ自身と同一であることを納得する」(2ページ)プロセスにかかわるが、一般的には、「私」が「自分」を認知すること、認識すること、承認すること、を意味する。

「自分はこういう存在である」「自分はこういう人間である」(と自分は自分のことを考えている)ということを意味する。「同一化」という言葉を使うのであれば、「自己自身との同一化」ということになる。


では「社会的アイデンティティ」とは何か。「自己自身との同一化」ではなく、「社会との同一化」である。上記では「他の誰か」との「同一化」と書かれているが、正確には「社会との同一化」である。しかもこの「社会」とは、多様な「社会」ではなく、ある一元化された特定の通念を指している。

 

センはこうした「社会的アイデンティティ」のみを全面に押し出す思考、すなわち共同体主義に対して、批判的な目を向けているのである。


アイデンティティの本質

ところが、近代の哲学者ヘーゲルによれば、こうした「同一化」には2つの、本質的に異なるパターンがある。一つは「即自」、もう一つは「対他」を経た「対自」である。

「即自」とは、何ら「他者」もしくは「言語」もしくは「対象」「客観」を経ない自己同一化である。本来「~を経ない」ということは現実的にはありえないが、あえて「~を経ない」という、「意識化」や「言語化」されていない状態の「同一化」を示している。

あいまいな、漠然とした自己同一化である。

 

もう一方の「対他」とは、こうした「~を経ない」のところが「~を経た」に変わる「同一化」、「~を経た」うえでの自己認識である。

 

はっきりとした、自覚的な自己同一化である。

 

この両者はヘーゲルにおいては、「意識」と「自己意識」との違いとしても説明されている。すなわち「意識」とは、とりあえず頭の中で思いついているような「意識」であり、「反省性」を持たない「意識」である。他方「自己意識」とは、「意識の意識」であり、「反省性」を内包した「意識」である。

 

「自己自身との同一化」は、こうした2つのパターンを持っているが、センがここで論じている「自己同一化」とは、後者すなわち「対他」的意識をもった「自己同一化」のことである。

また、同じくセンが批判する「社会的アイデンティティ」というものも、後者の「自己同一化」に含まれうる。あえて両者を別のものだと理解するためには、センの記述では十分ではなく、もう少しだけ説明を加える必要である。

「社会的アイデンティティ」もまた、対他的意識をもった自己同一化であることには違いないが、大きく異なるのは、第一に「自己同一化」のされ方であり、第二にこの自己同一化の他者への敷衍の仕方である。

「自己同一化」のされ方とは、本書のタイトルのあるように、「理性」に先行するものではない。アイデンティティは理性に先行しない。理性がアイデンティティに先行するのである。

 

また、こうして得られた社会的アイデンティティは、あくまでもその人のものであって、他者には他者の別のアイデンティティがありうる。少なくとも社会的アイデンティティとは、単一のものでも、普遍的なものでもない。疑いのない権威を持つわけでも絶対的なものであり続けるわけでも、断じてない。

この点についてのセンの主張は、私にも納得のゆくものである。しかし、しっくりこないところもある。それは、「利己的な個人」に対する理解の仕方である。

 

中性化された個人

近代社会において形成されてきた諸社会科学すなわち、経済学、政治学、社会学(センはここでは「経済学」だけに言及しているが、他の社会科学も同様と考えてよいだろう)などは、こうした「対他」的な自己同一化を出発点に置かず、その代わりに「利己的な個人」を前提とする、とセンは述べる。ここまでは私も合意できる。

「多くの経済理論は、それ[=社会的アイデンティティ]が役に立たないものだとして議論を進める傾向があったために、利己的な個人という仮説は、現代経済学の中心になることが多かったのである。実際、この仮説は、多くの場合、人間の行動を説明するにも、市場経済の効果的働きを説明するにも、適切だと考えられてきた。」(4ページ)

 

私たち一人ひとりが「利己的な個人」であるという前提の立て方は、きわめて重要な意味を持っている。それは、この前提を受け入れなければ、経済学というものの内部に入り込むことができないからである。

たとえば、ミクロ経済学の入門書の多くは、19世紀末、ワルラスによる「限界効用」(marginal utility)についての説明からはじまっている。1つの財を得るのに、いくらなら出してもよいのか、それが2つめであればいくらになるのか、そして3つめなら…、というものである。

 

ここでは、その人がどういう「社会的アイデンティティ」を持っているのかは関係なく、どのような「人間」であっても同じ「欲望」を持っていると想定されている。

アダム・スミスにしても、本来は「共感」や「寛大さ」「公徳心」などについて論じているにもかかわらず、経済学においては、買い手の需要と売り手の供給の一致を探る論点だけが抜き出される。

 

センは、こうした、これまでの経済学が前提とする「人間」観に批判的であることは、以下の引用からも明らかである。

「しかし、交換だけが、唯一の社会的活動ではないし、ましてや唯一の経済活動であるわけでもない。つまり分配も生産も重要だし、生産性に大きく影響する仕事への意欲や規律も重要である。さらに交換システムが効率的に作動するためにも、売買の欲求を駆り立てる基本的な動機付け以上のもの、すなわち、市場経済の繁栄を支えている責任信頼社会規範が必要なのである。」(5ページ、下線は引用者)


ただし、こうしたとらえ方は、何もセンが新たに見出したものではない。もっとも大局的に指摘したのは、私にとっては、イバン・イリイチの『シャドーワーク』(Ivan Illich, Shadow Work, 1981)であり、さらにさかのぼれば、シューマッハーやポランニーらの問題意識に連なっている。

 

また、言うまでもないと思うが、ここでセンが述べている「企業活動に見られる道徳的特質が、資本主義を成功に導く重要な要因であった」(5-6ページ)という説明は、マックス・ウェーバーをはじめとした議論とも交差する。

本書ではこれ以上経済学が「利己的な個人」という前提をたてることへの問題点には踏みこんでいないので、この問題については、セン別の著書を読むときにあらためてとりあげることにする。

取り急ぎここまでの議論を小括しよう。

利己的な個人と社会的アイデンティティ(小括)
問題を整理するとこうなる。

経済学のように、利己的な個人を前提とすることは間違っているが、かといって、共同体主義のように、すべてが他者への同一化によって決まるという考え方も間違っている。


センの言うことはそれほど難しいわけではない。わかりにくいところは、むしろ、講演録の持つわかりやすさに起因している。

また、非常に重要な問題を扱っているわりには、なかなか議論がかみあわず、しばしば放置されてきた内容であるからであろう。
 

「利己心から離れれば、かならず何らかの形の社会的アイデンティティにたどり着くのかどうか、これはいまなお未解決の問題である。」(8ページ)

少なくとも、リベラルか共同体主義か、といった、いずれかを選択するのではない、別の道を私たちは探ってゆかねばならない。

 

そこまでは誰もが直観しているはずだが、その先になかなか進めない。
 

 「社会的アイデンティティ」について、「人間の行動に対して重大な影響を及ぼしている」(8ページ)ことは疑いないものの、その範囲(領域)と影響力については、慎重であるべきだ、というのである。
 

ここで、センは20世紀後半から次第に台頭しはじめた「コミュニタリアニズム」すなわち「共同体主義」に話題を移してゆく。センは勇気をもって、この本題へと進む。


共同体主義への批判

共同体主義は、社会的アイデンティティを基盤とする考え方である。

「社会的アイデンティティは、知識のみならず行動をも左右する」(10ページ)という理解がベースになっている。

 

共同体主義は、極端に進むと、自身の所属する共同体の外部の価値観は存在しないか、もしくは、理解できないし、理解する必要もなく、少なくともその内部においては、その固有の「社会的アイデンティティ」を愛すること、受け入れることは当たり前であり、そうではない所属メンバーは、「所属」に値せず、場合によっては、元々「所属」していないか、「所属」することを否定する。


SNSで「そういうことをする奴は日本人ではない」「よそ者は出ていけ」「左翼はみな日本人ではない」「そんなことを日本人がするはずはないから、そんな残酷な行為はなかった」といった主張を、絶対的な善意かつ真理であるかのように語れる人たちの心情は、まさしく、ある一つの「社会的アイデンティティ」に依拠したもの、と考えられる。

こうした主張が、かつてのナチズムやファシズム、今日のヘイトスピーチと共通することは、言わずもがなであろう。

もちろん、共同体主義も多様であり、単に誰かがある社会的アイデンティティを受け入れ、それを賞賛すること自体に罪はない。だが、共に共同体を形成する人のなかに、そういう考えではない人がいる場合に、そういう人たちとその思考に非寛容な、敵対的な態度をとることは、その共同体に分断と質の劣化をもたらすことになる。

センの考える「社会的アイデンティティ」をまとめると、次のようになる。

 

社会的アイデンティティとは、きわめて脆弱であり、可変的であり、多様である。画一な、単一な、純粋な一つの共同体というものは存在しえない。

「日本」や「日本人」という社会的アイデンティティも、当然、1つではないし、絶対的なものでもない。もちろん、そういうことを語るからといって、そうした社会的アイデンティティを「否定」しているわけではないのである。

歴史修正主義とポストトゥルースの時代
にもかかわらず、こうした考えを推し進め、押し付けようとする流れがある、歴史研究における、リビジョニズム、すなわち歴史修正主義は、こうした社会的アイデンティティの過度な信奉の結果とも言える。

「事実」は常に「社会的事実」であり、「解釈」の結果にすぎないがゆえに、歴史を見直すことは常にあるべき姿である。そのことには賛同できる。だが、一般的に知られる歴史修正主義は、そうした批判的意識よりも、自分が信奉する社会的アイデンティティを無批判に(しかも本人は善意の気持ちで)他者に強要してはいないか。

 また、「ポストトゥルース」の時代は、ふだんからSNSなどを通じて「事実」かどうかよりも、たとえ「フェイク」であったとしても「いいね」すなわち「共感」の多さを競うことになる。「いいね」やフォローワーが多いことが、その共同体における「正しさ」のバロメーターであると誤認することになる。

こうした「共感」が現代の反知性主義を生み出している。

ロールズの正義論
一元的な社会的アイデンティティを絶対化するような共同体主義に抗うために、センは、ジョン・ロールズを代表とし、ロナルド・ドウォーキン、トーマス・スキャロン、ジョゼフ・ラズ、ジョン・ローマーらに連なる正義論を対置させる。

 

これをセンは「リベラル」な正義論とまとめているが、前述したように「リベラル」と共同体主義は対置されるものではないことに注意しておきたい。
 

「公正としての正義」は、ある集団全員に等しく利害や自由の配慮があるようにするために、「原初状態」(the original position)というものを想定する。この「原初状態」こそ、自分がどういった「社会的アイデンティティ」を持っているのか、自分がどのようにこの「社会的アイデンティティ」を受け止めているのか、について、まったく分からない状態を意味する。

 

この正義論の第一原理は、「自由の優位」である。その集団全員が同じように自由であるという前提からスタートする。すると、自分だけの自由、もしくは、自分と同じ「社会的アイデンティティ」を共有する人だけの自由、という考え方は退けられる。

 

第二の原理は「機会の配分」であり、格差が生じている場合には、その集団内の最下層の部分への対応を最優先させるものである。福祉の原理であり、この最下層には、さまざまな社会的アイデンティティを有する人たちが集まる傾向にある。

 

サンデルによる批判への批判

当然、ロールズの正義論に対して共同体主義からは批判が現れている。センはなかでも、マイケル・サンデルによる批判は、検討に値するものとしてその中身を検討している。

 

ロールズモデルに対するサンデルの批判は、その成立そのものに社会的アイデンティティもしくは共同的連帯意識が不可欠である、というものである。

ロールズモデルもまた、そうして生まれた一つの考えであり、その考えを広く敷衍したり、実践領域に持ち出すことはできない、とされている。

 

「サンデルによると、ロールズの求めるような正義の規則を適用しようとしても、共同的連帯意識や社会的アイデンティティが予め確立されていないような場合には、実際には無理だろう、というのである。」(15ページ)

ここでセンは、社会的アイデンティティには、1)描写的役割、2)認知的機能、という2つの視点がある、と指摘する。

1) 描写(delineation)的役割
・誰をそのメンバーとみなすのか、含めるのか
・何を社会的アイデンティティとして共有するのか

<問題>
・国境などの境界線の引き方は変わりうるし、境界線の範囲も小規模なものから大規模なものまでありうる
・グループ分けの仕方にもさまざまな方法があり、1人の人間にも多様なアイデンティティがあり、どれを代表させるのかも任意にすぎない

共同体主義は、「人のアイデンティティというものは、その人が決定するものではなく、探し出すものだ」(23-24ページ)ととらえるが、この「決定する」と「探し出す」のあいだには大きな違いがある。

 

「探し出す」というのは、かつての「私探し」がそうであるように、どこかに「本当の私」があるが、自分ではそれに気付かなかっただけとみなす。「本当の私」とは、「本当の居場所」の「発見」のことである。

だが、これはサルトルが強調していたことでもあるが、私たちはそうしたアイデンティティを自らの責任のもとに「選択」しているにすぎない。そうした「選択」は、常に偶発的であり、また、可変的でもありうるにもかかわらず、「発見」はそれを必然かつ普遍的なものとしてとらえ、他者にも通底するとみなす。

また、こうした「選択」は無制限に行えるものではなく、さまざまな制約のもとで成立している。

 

「われわれのアイデンティティに関する現実的な選択肢は、いつでも外見、状況、経歴、歴史などによって制限されているのである。」(26ページ)

 

「社会的アイデンティティ」は、何の疑問も抱かずに受け入れるものではないということと、しかも、選択の余地がある、ということを、まずセンは強調する。

 

しかし、共同体主義は「共同的アイデンティティを選択の問題ではなく、自己実現の問題にしてしまう」(23ページ)のである。

 

2) 認知的機能
社会的アイデンティティの認知的機能とは、「共同体の成員が世界を認知し、現実を理解し、規範を受け入れ、何をなすべきかと話し合う時の、そのやり方に関わるもの」(19ページ)である。
 

「人が帰属している共同体や文化は、その成員が状況を理解したり決断を検討するときの仕方に大きな影響を及ぼすことがある、ということはほぼ疑いないであろう。どんな解釈の作業でも、地域固有の知識、合理的な規範、特定の共同体で共有されている特殊なものの見方や価値観といったものに注意を払わねばならない。」(34ページ)

 

この点については、共同体主義に対して異論を持たない。しかし、だからといって、その文化的伝統の内部にいなければ、そうした判断ができない、というわけではない。

 

<課題>

・合理的な判断に影響を及ぼすのは、ある特定の集団の文化や信念だけではなく、選択の余地がある

・文化にも多様性があり、常にさまざまな文化的態度や信念が共存している

ーー人間は、自明性や常識を「疑う」という能力を持っている

 

このようにして、センは、ロールズの正義論を支持し、サンデルの共同体主義からの反論を退ける。

 

サンデルの思考は「アイデンティティがまず先にあって、その後に選択に必要な合理的判断が来る」(23ページ)のである。

 

「人のアイデンティティというものは、その人が決定するものではなく、探し出すものだということになる。」(23-24ページ)

 

ただし、1)選択は大切であるが、選択が一度きりでいつまでも変わらないとはかぎらないし、2)選択は無制限というわけではない、3)アイデンティティの発見は「今まで気付かなかった人とのつながりとか、家系というものを見出す、という意味において」(27ページ)のものに限定される、という点が留保される。

まとめ

 

最終的に本書は、以下の4点について、主に述べたことになる。

 

・社会的アイデンティティは重要であることは疑いない

・しかしそれは、共同体主義の言うような意味とは異なる

・ロールズの正義論は共同体主義の批判にも耐えうる

・ただし、そのためには、若干の修正が必要である

こうした議論は、経済学や哲学、倫理学、政治学といった学問内部のためのものではなく、今、世界にとってなくてはならないものである。

また、経済学内部においても、同様である。

マルクス経済学は、私が学生の頃には、まだ経済学部の半分くらいを占めていた。それが今ではほとんど見る影もなくなった。環境経済学、開発経済学、地域経済学などが、その流れをある意味継承してきた。

センの魅力は、経済学の内部のみならず、外部ともつながりと広がりをもちながら発言をしているところであろう。

 

 

 

 

 

 

行ったお店

創作串揚げ はち

東横線日吉駅から5分ほど

 

・料理は良かった
・その他は、いろいろと不満が残った
 

年末の混雑したときに行った。予約して入って、まず驚いたのは、一番奥の6人分の席だけが禁煙席になっていたこと。つまり、喫煙席を通って席につく。これは、あまりうれしくない。ただし、実際にはたの席でも喫煙者はおらず、席そのものは快適であった。

不満その1

最初に頼んだ分は普通にやってきたが、中盤から後半、一番奥の席だったのせいなのか、注文してもなかなか料理が来なかった。30分くらいたってようやく来た。また、頼んだはずのものが来なかった。

 

不満その2

後から、レシートを見ると、バニラアイスが180円(外税)だったはずが、360円(外税)と打たれていた。180円(プラス外税)余計にとられたことになるように見える。

不満その3

トイレの操作レバーが壊れたままで放置されていた。せっかくおいしい料理を出しているのに、とても残念であった。

 

ただし、料理はいずれも美味しくいただけた。このお店は創作串揚げ専門店で、穴子のスパイシー揚げ、天使の海老、オニオングラタンスープ、キスとみつ葉、帆立、フォアグラ大根、渡り蟹の甲羅詰め、などをいただいた。

 

ソースも「特製ソース」「燻製出汁」「バジルソース」「レモン汁」の4種があり、とりわけ、バジルソースはなかなか串揚げにあっていた。レモン汁は残念ながら使う機会がなかった。

 

ほか、アボカドのおひたし、鴨と水菜のハリハリサラダも美味しかった。

 

お酒についても、特に、 自家製サングリア(白)、自家製グレープフルーツサワーはいずれも果実の風味がしっかりと出ており、「自家製」の名に恥じぬ手抜きなしの味わいだった。

 

 

日吉駅からも近く、便利もよく、上記に書いた以外は、総合的には、またもう一度行きたいお店であった。