小川はゴールデンウィークの後半、アメリカはカリフォルニア州にあるモーガンヒル市の姉妹都市にバカンスで訪れていた。その町は時差がほとんどなく、人は東京都西多摩郡瑞穂町と呼んだ。そこには小川の実家があった。




小川の仕事は、打ち合わせや会議などをのぞけばどこでもできる。ネット環境が整っていてパソコンさえあればこっちのもんだった。バカンスとは名ばかりで、日中から夜遅くまでずっと喫茶店で仕事をしていた。寝に実家へ帰っていたようなもんだった。



このときに抱えていた仕事のひとつに、床屋をテーマに書いた物語の原稿チェックがあった。主人公が幼い頃に通った、自身初の床屋に関するくだりを読み返していたときだった。

小川はふと思い立った。




「そうだ、せっかく実家に帰って来てるんだし、初めての床屋に行ってみよう」



小川の初めての床屋は、瑞穂町に住む前に暮らしていた隣の青梅市にあった。たしか保育園の年長か小学校に入りたてくらいの頃に、小川は頭髪的親離れを果たした。小学校の同級生のお父さんがやっている理容室だった。




(初めて床屋で髪を切った記念の一枚)



だが時はゴールデンウィークだ。人によっては10連休という、夢のような金字塔を打ち立てている者も少なくない。




「さすがに休みかな」



そもそも、もう店をたたんでしまっているかもしれない。なんせ39歳の子を持つ親だ。年齢もおそらく60代から70代だろう。立ちっぱなしの大変な仕事をまだやっているだろうか。



まずは確認だ。小川はネットで「久保田理容室 青梅」で検索した。ホームページは存在しなかったが、組合か何かの一覧の中に引っかかった。そこは「ヘアーサロンクボタ」だった。住所を見るとおそらくここだ。小川はずっと店名を間違えて記憶していたことに気づいた。


次は電話で直接確認だ。だが、いざアクションを起こそうとすると戸惑いが生じ、そわそわしてきた。




「やっぱやめようかな。緊張するし。それに2週間くらい前に髪切ったばっかなんだよな」



しかしだ。せっかくだ。思い切ってかけてみた。プルルと、電話を発信したときおなじみの音が流れる。


「はい」


年配の男性の声が聞こえてきた。うわっ、出た! やべえどうしよう……ん? 名乗らないぞ?


「あ、もしもし、久保田理容室さんでしょうか?」


あっ、いっけね、ヘアーサロンクボタだった!


「……」


あれ? 違うとこにかけちゃったか。小川は間違い電話をしてしまったかもしれないことへの動揺で、店名の間違いが完全に抜けた。


「すいません、久保田理容室さんじゃなk

「そうです」


食い気味で答えが返ってきた。『か』と打とうとしてkのあとにaを打つ前に返答があった、そんなニュアンスとテンポだ。

久保田さんは、本当はヘアーサロンクボタなのに、久保田理容室なのかと聞かれ、そうですと言ってくれた。確かにほぼ同じ意味ではある。ヘアーサロンクボタを和訳したら久保田理容室だ。


「今日やってます?」

「やってますよ」

「あ、じゃあ、伺うかもしれません」

「はい」

「失礼しまーす」

「はーい」


小川は電話を切った。うおー、やっていたよー。営業している状態が日常である感じだった。現役バリバリっぽかった。




小川はデビューを飾った床屋へ30年ぶりに向かった。最後に切ったのは、青梅市を引っ越す9歳以来だ。







(青梅市から瑞穂町に引っ越し、この学校へ転校。母校を通り過ぎながらヘアーサロンクボタへ向かう車中から撮影)








つづく