小川康弘のブログ 「主人公・小川康弘」

日々を小説で書いてみてます。


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小川はヒゲをそるため、いつもより早く起床し、洗面所へ向かった。正直、まだ寝ていたい。だが剃らねばならない。今日会う方に失礼にあたるからだ。ふてくされたまま到着し、洗面台の前に立ち、ちらっと鏡を見る。薄汚れたツラをぶら下げた自分に冷たい視線を向けると、そっくりそのままが視界に返ってくる。小川は表情を変えることなく、いつもそうするように、ひげを水で濡らし、シェービングジェルをまんべんなく塗りたくった。間髪入れずにT字のカミソリを手にし、ジェルとヒゲを削り取っていく。

カミソリを2~3回ほど滑らせたときだった。

 

「いいかげんにしろ!」

 

小川は心の中で吐き捨てた。もういいかげんにしてくれ。

こんなことをしてなんになるというのだ。ほんの数時間、こざっぱりするだけだ。

 

小川のヒゲも、最初はもちろん産毛だった。いきなり完成していたわけではない。成人するかしないかくらいの時に、習慣的にヒゲを剃る必要が出てきた。以来、20星霜。生えてきては剃り、剃っては生え、をバカみたいに繰り返してきた。

 

2017年を迎え、新年初めてのヒゲ剃り、つまり剃り初めだったことも大きい。翌月、小川は40歳を迎えようとしていた。人生も折り返しだ。もういいだろう。もう十分剃った。寿命を80年と考えると、あと40年も剃る計算だ。20年剃ってきてこの疲れようだ。これから先は体力が落ちていく一方なのだ。

 

「あとこの2倍、剃り続けるのか……」

 

小川はうんざりした気持ちにかられた。

貴重な余生を、ひげそりなんかに使ってはいられない。

 

ヒゲのメリットは、手の甲がかゆいときにアゴでかくことができるくらいしかない。手の甲がかゆくなることなんて滅多にない。残りの人生であと何回かゆくなろうか。その間に、何回ヒゲを剃らなければならないだろうか。小川はヒゲ剃りをほとほとバカバカしく思えた。

しかし、途中でやめるわけにはいかず、きっちり剃り終えて、小川はパソコンに向かった。カタカタカタと、文字を打つ。

グーグルの検索に、「メンズ ヒゲ 脱毛」とつづられていった。

いろいろ比較し、

 

「ここにすっか」

 

と、数あるメンズエステの中から目星をつけ、小川は予約を入れた。

小川はヒゲ脱毛を決意した。今までさんざん剃ってきた自分へのご褒美だ。人生の半分を生きてきた、生誕40周年というアニバーサリーの誕生日プレゼントだ。

 

このヒゲを亡きものにしてやる。

そう意気込んでいたものの、いざ店へ行き、コースを決める段階になって小川は怖くなった。ヒゲへの未練が急に沸き起こってきたのだ。思いもよらない感情だった。

 

「まったく生えて来なくなったら、ちょっとさびしいかも……」

 

なので、ヒゲが薄くなるレベルのコースを選択。すると、

 

「今なら、通常○○万円のところを、部位を増やすとその部位込みで××万円になるキャンペーンをやっていまして」

 

と勧めてきた。

エステの常套句であるのだろうが、それぞれの部位を単体でやった場合の合計より断然安い。

小川は悩んだ。手短に熟考し、

 

「じゃあ腕をやります」

 

と答えていた。

腕毛のメリットは、ムカついた相手に向かって、むしって吹きかけるくらいだ。なくても困らない。ただ、完全になくなるのはさみしいので、こちらも薄くなるレベルのコースにした。

 

こうして小川は美しくなる道を歩み始めた。これからどんどん美しくなっていく。小汚いツラも、いずれ見れなくなる。そう思うと、それはそれでなんだかさみしい。ここにきて、今度は小汚さへの迷いが生じだした。もしかして、俺が俺でなくなるんじゃないか?

 

「しっかりしろ、小川!」

 

小川は弱気な自分を戒めるように両頬をピシャピシャと叩いた。

お前は十分小汚かった。20年も小汚かった。これからの40年も小汚いままでいいのか? よくないだろ?

 

ヒゲ剃りに割かれる時間、洗い流すために必要な水という資源。これらを考えるだけでも絶対に脱毛しておいたほうがいい。小川は腹をくくった。

もう恐れない。美しくなってしまうことから、僕は逃げない。逃げるもんか。

美しい自分から僕は目を背けない。目を背けるもんか。

そう決めた時点で、もう小川は十分美しかった。

 

とはいえ、そんなすぐにツルッツルになるというわけではないので、まだしばらくは小汚い。年内は小汚いだろう。

 

 

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小川がよく使っている喫茶店で仕事をしようとしていたときのことだった。

隣のテーブルに男女二人組が入ってきた。男性はちょっと年が行っている感じで、ファッションもやや年齢特有のダサさが出ており、女性のほうはわりと若かった。

 

二人は会話のボリュームにあまり気を遣わず、小川の耳にも内容が入ってきた。

女性が男性のことを社長と呼んでいた。どうやら社長と従業員の関係のようだ。

ただ、やたら女性が強気だ。

「~わかってんの?」や「~どうなってんの?」と、立場が逆でないと成立しない口調だった。

しかしまあ、下の人間が上の人間にこういう態度が取れるというのも、その会社の魅力かもしれない。

 

二人はある取引先との交渉について語り出した。

女性従業員が一回り以上は年が離れているであろう社長に進言する。

 

「相手にちゃんと言わないとわからないんだよ? 伝わらないんだよ?」

 

すると社長は、この件に関しては自信があったようで、感情的にはならずに努めて毅然と言い返した。

 

「それはちゃんと言った。本人に直接言った」

 

小川は二人の戦いの終わりを予見した。だって社長はちゃんと相手に直接言ったんだもの。

だがこの一言が火に油を注いでしまう。社長の言葉を聞いた女性は激怒した。

 

「言っただけじゃダメなの! その人をやる気にさせるまでがあなたの仕事なの!」

 

形勢逆転かと思われたが、いいのを一発もらってしまい、社長は黙りこくった。

 

沈黙を破ったのは女性従業員だった。

 

「私これからハローワーク行くんだけど」

 

ええ!? やめちゃうの!?

これまでずっとポーカーフェイスを装っていた小川も思わず反応してしまう。

どうやら女性は退職の意思を社長に伝えるためにここへ来たようだ。

だが社長は引き留めようともしない。

もう彼女の気持ちを知っていたのだろうか。

 

彼女は転職活動をしつつも、現在の職場の心配をしている。

 

「このままじゃ、うちマズいよ? わかってんの?」

相変わらず生意気な言い方だ。社長は表情を変えず、わかってるよ、と答えた。

 

「私が会社勤め始めたら、プロレス一色の生活はできないんだよ!?」

 

またもや気になる一言を女性が言い放った。

 

え? プロレス一色?

 

たしかにそう言った。

もしかしたら小川の聞き間違いかもしれない。

が、聞こえてくる言葉は、どこどこでやった統一選がどうのやらで、ファイティングみたいな単語も飛び込んできた。

 

「プロレス一色の生活? 社長がプロレスをしょっちゅう観に行って仕事をおろそかにしてるとか?」

 

反撃できかねている社長に対し、女性が追撃に出た。

 

「○○○○にはもう後がないの! わかってる?」

 

またまた気になる単語が出てきた。固有名詞のようで、小川はスマホをいじっているフリをしてそのワードを検索した。すると、あるプロレス団体のホームページが出てきた。

レスラー一覧をクリックした。そのトップに掲載されている顔を見て小川は驚いた。

 

「社長じゃねえか!」

 

男性はプロレス団体の代表を務めるレスラーで、相手の女性はそのプロレス団体のスタッフだった。

社長が女性を下の名前で呼んでいるのだが、ホームページのスタッフ一覧にはそれと同じ名前が載っている。

思わぬ展開に小川は興奮した。

 

「Photo」のバナーをクリックすると、リング上で顔面血だらけの社長が出てきた。

ほかにも跳び蹴りの最中なのだろう、両足を伸ばしながら宙を舞っている社長の写真など、多数掲載されている。

どうやらこの団体の看板レスラーでもあるらしい。

しかし、興業的に厳しい戦いが続いているようで、彼女が一般職に就かないといけなくなったようだ。

 

彼女は自分が会社に勤め出したらその仕事もちゃんとやらなきゃいけないから○○○○(団体名)のことは今までのようにはできない、という。

 

すると今度はプライベートに関する不満が浴びせられ始めた。

社長のここが嫌だ、あれがストレスだ、とか、そんな類を色々言われだした。

それはもう、深い仲でないと出てこない不満で、どうやらこの女性は公私に渡って社長を支えている存在のようだ。

 

彼女いわく、本当だったら不満を感じたときに直接言いたかったけど、そうしてしまうとそのときがすごくつらくなるから言わずに明るく振るまっていたんだという。

そんな私の気持ちわかってた? なんにも考えてなかったでしょ?

 

社長は、もうこの日何度目かわからなくなった沈黙に再び陥った。

小川は、二人の無制限一本勝負をSS席で堪能している気分だった。

 

もっと聞いていたかったが、彼女がハローワークへ行く時間が来てしまった。

小川はその後もこの二人が気になり、ホームページやブログをちょくちょく覗いている。

先日も顔面血まみれ写真が新たにアップされていた。

レフェリーが社長の右腕を掲げている。

勝ったようだ。

スタッフ欄にも彼女の名前がちゃんと載っていた。

 

 

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早いもので西暦も2017年を迎えた。西暦1年という年を生きた人たちは、2000年後のこの世界をどう想像していただろうか。2000年と2017年でも、インターネットが普及したりでだいぶ変わったんだぜ、と小川は当時の人間に教えてあげたかった。

 

そのインターネットで小川は調べてみた。どうやら西暦1年は弥生時代の真っ只中だったようで、となると西暦という概念すらまだない。

「なんだよ。考えて損したな」

と、舌打ちをしてインターネットエクスプローラーの右上のバツ印をクリック。そんな小川にとって、今年はどんな一年になるだろうか。本人はどうやら、ある不安を感じているようだった。

 

小川には専属の奴隷がいる。後輩のONY(読み:オニー)だ。

小川は以前、住んでた部屋の押入れを壊してしまった。洋服を掛けるラックが備え付けだったのだが、服をかけすぎたせいでもげてしまい、これはやばいと感じた小川は、ONYにそれを直させた。ONYは見事、壊れた形跡を跡形もなく潜めさせた。結果、敷金は無事ほぼ満額で戻ってきた。

 

また、これも以前に住んでいた家のことだが、ちょっとした庭的なエリアがあり、そこから生えてくる草を生い茂るたびにむしらせた。そこを引っ越すときは、水回りのこびりついた汚れを掃除させ、きれいな状態で不動産屋に引き渡すことができた。結果、これも契約時にあらかじめ決まっていたハウスクリーニング代を除き、敷金はほぼ満額帰ってきた。

 

ONYは非常にいい仕事をする奴隷で、小川も自慢の奴隷だ。

料理も達者で、小川はよくONYに作らせている。

ONYのいいところは、美味しい料理を作るだけでなく、食器洗いを含む後片付けまでしてくれることだ。

 

こう見ると小川は、ONYをかなりこき使っているように見える。だが、小川ほど奴隷に甘い主人もいない。

ONYに作らせた料理は、ちゃんとONYにも分けるし、どこか出かけた時などは水分も自分のタイミングで摂っていいし、トイレも自由だ。これだけでも甘やかしすぎだが、なんと食事代はたいてい小川持ちである。

奴隷にしては好待遇で、ONYの肩書は奴隷のちょっと下、下僕がピタリとくるかもしれない。

 

ここ数年、小川は下僕以上奴隷未満のONYとクリスマスを過ごしている。

 (2013年のクリスマス)

 

(2014年のクリスマス)

 

(2015年のクリスマス)

 

 

(2016年のクリスマス)

 

ONYは料理が得意なため、小川は毎年ONYに腕を振るわせている。

ONYが当然のように包丁で肉を切り、野菜を刻む。その光景を見ていた小川は、気づくとONYから包丁を奪い、ONYに刃を向けていた。

「うい! うい!」

見よう見まねのフェンシングでONYを攻撃する。もちろん、腕を伸ばしても届かない距離でだ。

だがONYは「万が一があります!」と部屋の中を逃げ回る。しかしそのほうが危ない。小川は獲物を追いかけるからだ。ただ、小川もその辺は利口だ。刑事事件になるようなバカな真似はしない。“ふざけてるだけです”で済む範囲からははみ出さない。

それに料理も味に支障が出るので、ONY追いは手短に済ます。

それでもONYは万が一に怯え、しまいには「最後に親に電話だけさせてください」と懇願する。

小川は大げさだなあと思いつつ、追い回すのをやめ、最後は記念撮影で締める。

 

これをもう2013年から4年連続でやっている。最初は離れた場所から包丁を突き付けていたが、だんだんと距離が縮まってきている。包丁を突き付ける際の高揚感も年々増している。

2017年は5回目となるアニバーサリー回だ。もしかしたらテンションが上がってしまい、いよいよ殺ってしまうんじゃないかと小川は不安を覚えた。

 

逆にONYにやられる可能性も見据えている。ONYは小川に従順なフリをしているだけで、虎視眈々とその時を伺っているだけかもしれない。美味しい料理を作っているフリをして、その右手に握られている包丁をいつか小川に振りかざしてくるのではないか。それが今年かもしれない。

 

つい最近も、こき使おうと思って予定を尋ねた。今夜は空いてるかの問いに対し、ONYは飲み会があってダメですとほざいた。じゃあ次の日は? 予定入ってますとONY。じゃあ明後日は? この日は○○さんに誘われちゃっていてとONY。じゃあしあさって。すいませんこの日も○○さんが遊びに来ることになっていてとONY。

 

ONYは小川に歯向かうようになってきている。このままいくと、いつか小川に弓を引くに違いない。

ONYによる小川殺人事件は、もう始まっているのかもしれない。

まだ直接的な動きは見られないが、一足先に叫んでおくか。

 

「ひ、人殺しーーーー!!」

 

どうだ、ざまあみろ。これでお前は容疑者だ。

ONYに殺されてたまるものか。あの野郎、もしその時は絶対道連れにしてやる。

 

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2016年の8月が終わった。今年の夏も両親とともに祖母の元気な姿を見ることできた。

母方の祖母が唯一健在で、今年で91歳にも関わらず、これまたすさまじく元気なのだ。背中はまっすぐ伸び、頭脳も明晰で、足も歩くスピードはいたってゆるやかだが気になるのはそれぐらいだ。

食欲もあって畑仕事に精を出し、まだまだ果てしなく生きそうな気配を漂わせている。


帰り際、初孫の小川に向かって言った祖母の言葉がどうかしていた。


「いいか、悪いことはしちゃいけないぞ。悪いことするなら死んだほうがマシだ。悪いことをしたら死ね」


小川は一瞬、目が点になった。


(ええ!? 極刑!?)


祖母は戦争の足音を聞きながら育ち、青春時代は激しい戦火の中で過ごした。


激動の昭和を乗り越え、どっこい90年以上生きてきて達した境地だろうか。



私の孫である以上、悪いことをしたら死ね。

祖母の血を受け継いだ人間としての運命(さだめ)だ。

一族の鉄の掟にしたいものだ。



悪いことをした者には死を!




祖母からの執行猶予付きの死刑宣告から2週間後、小川は赤坂サカスで行われたTBSラジオ「エレ片のコント太郎」のイベントを観に行った。

年末に行われるイベント「エレ片 in 両国国技館」にさきがけて、女性リスナーによる女相撲大会が開催されたのだ。


決勝に残ったのは、圧倒的強さでコマを進めたデブっちょの女芸人と、子持ちの女性だった。

デブっちょ女芸人の四股名は「イベリコの豚」で、その名前から体格と強さが感じられる。対するママさん女力士の四股名は「子どもいるから」だった。


その名のごとくお母さんであり、客席にはご主人とお子さんも応援に訪れていた。

二人はどんな気持ちで妻の、そして母の本気で相撲する姿を見ていたのだろうか。



子どもいるから関は母親の強さを感じさせ、並み居る女力士たちをなぎ倒していった。

だが小川は、「決勝はさすがに子どもいるからは負けちゃうだろうな」と予想を立てた。


なにせ相手はイベリコの豚関だ。体の大きさも違う。勝負は目に見えていた。

小川は、子どもいるから関には悔いだけは残してほしくないな、と思いながら決勝を見守った。


時間がどのくらい過ぎただろうか。

これまでのイベリコの豚関だったら、とうに相手を倒している頃だ。
だがイベリコの豚関は、まだ子どもいるから関と必死に組み合っている。

イベリコの豚関が勝つと思われていたが、子どもいるから関がそうはさせないのだ。
小川の心が躍り始めた。これは、ひょっとしたらひょっとするぞ。


だがイベリコの豚関が全力で仕留めにかかる。

そのパワーに、子どもいるから関も屈しそうになった。
腕相撲でいえば、もう机に手が付きそうなになっている寸前の、あんな感じだ。



「子どもいるからもここまでか……」



よく頑張ったと思ったそのとき、子どもいるから関は驚異的な粘りを見せ、形成を立て直した。



「うおー、マジかよ子どもいるから!!」



子どもいるから関は、守る者がいる強さを発揮した。

イベリコの豚関は、その力の前についに敗れた。

大歓声が赤坂に轟いた。


「おばあちゃん、子どもいるからが優勝したよ」



気づくと心の中で報告をしていた。

子どもいるから関との名勝負を見せてくれたイベリコの豚関も、途中で散っていった女力士の皆さんもあっぱれだった。


小川は祖母を年末の「エレ片 in 両国国技館」に招きたいが、難しいかなと思っている。



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近藤真彦さんを間近でお見かけし、会釈まで獲得できた翌日、時刻が夕方を過ぎると小川は渋谷へ向かった。

駅を降り、改札を抜け、スクランブル交差点を渡った。渡ったがセンター街には入らない。

左へ向かい、そのまましばらくまっすぐ進む。左手に道路を挟んでドンキホーテが見えた頃、bunkamuraを目指していた小川はそろそろこの道を横断してあちらへ渡りたいと思い始めた。渡りたいという気持ちが、渡らなければならないという決意に変わり、小川は信号が赤から青に変わるのを待った。青に変わったら渡ろうと思っていた気持ちに特に変化は表れず、信号を待っていた人間たちが歩み始めたのと同時に小川もそうした。



ありがたいことに小川はこの日、bunkamuraオーチャードホールで行われる森山良子さんのコンサートを鑑賞させていただけることになっていた。

指定された席は1階の後ろから2列目だった。

キャパ2000を超える縦長の作りで、ここからだとステージまでは結構遠い。

実際、コンサートが始まると森山良子さんの顔はよくわからないほどだった。



森山良子さんはわりと冒頭のほうで今日のゲストをステージに呼び込み、紹介した。

一通りのからみも終わると、「今日はシークレットなスペシャルゲストもいらっしゃるのでお楽しみに!」的なことを言ったので、小川はワクワクした。



ゲストの一人、谷村新司さんの出番になった。やはり遠くて顔ははっきりわからない。

だがアリス時代のヒット曲なども惜しげなく披露し、十分楽しい。


小川は谷村新司さんの存在を知ったあの日のことを思い出した。

あれは小川が小学生の頃だ。

ものまね王座決定戦を観ていると、清水アキラさんが登場した。

セロハンテープで鼻を引っ張りあげ、鼻の穴をむき出しにして披露したのは谷村新司さんのモノマネだった。



小川はものまね王座決定戦が大好きで、毎回欠かさず観ていた。

この番組で知った歌手や日本の古い名曲も数多い。

清水アキラさんも「冬の稲妻/アリス」「チャンピオン/アリス」「夏をあきらめて/研ナオコ」など、多くの名曲を小川に教えてくれた。





(「冬の稲妻」に度肝を抜かれ、何度も聴きたくてCDまで買ってしまったほど)


 
(名曲がいっぱい)



過去の回想から戻ってくると、小川はあそこで今歌っているのがひょっとしたら清水アキラさんの可能性もあると思えてきた。



なんせ顔がよくわからない。

だが歌はうまく、声もまるで谷村新司さんであるかのようにそっくりだ。


しゃべりも面白い。



しかし、「歌がうまい」「谷村新司みたいな声」「おもしろい」などの特徴は清水アキラさんにも当てはまる。

楽しみつつも疑いの目で見ていると、小川はふと気が付いた。



「そういえば、顔が反射していない。もしテープで鼻を引っ張り上げているとしたら、照明に反射してキラキラするはずだ」


本人がわざわざ自分の鼻をテープで引っ張り上げるだろうか。

いや引っ張らない。


ということは、ステージ上で「チャンピオン」を歌っている谷村新司疑惑のある人物は、清水アキラさんではない可能性が極めて高い。

状況証拠ではあるが、間違いない、あの男は黒だ。谷村新司だ。



疑惑が晴れたときにはコンサートは前半が終わり、休憩時間となった。



事件は休憩時間が終わる頃に訪れた。

後半はいよいよシークレットなスペシャルゲストが来るぞ、いったい誰なんだろうと心を躍らせていると、客席がざわつきだし、拍手がわき起った。

客席の入口から、なんと天皇陛下と皇后陛下の両陛下が現れた。


小川の席からも肉眼ではっきり見える距離だ。小川はずっこけそうになった。




「いやスペシャル過ぎでしょ!」




もちろん声に出しては叫べない。それができたらたいしたものだ。

これはスペシャルどこの話ではない。もうロイヤルだ。




え、もしかして両陛下も一曲歌うとか? え、まさかデュエット?」



マジかよと小川はドキドキしながら後半のコンサートを鑑賞した。



結局、森山良子さんが言っていたシークレットなスペシャルゲストは由紀さおりさんで、両陛下がステージまで下りてお歌を披露されるようなことはなかった。



由紀さおりさんはめちゃくちゃ歌がうまくて、しかもパワフルでぶったまげた。

両陛下も楽しまれていたようだった。



昨日はマッチさんで、今日は素晴らしいコンサートを鑑賞できたうえに両陛下にもお目にかかれ、とってもスペシャルでロイヤルな2dayだった。

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その日、小川はスタジオの共有スペースで打ち合わせをしていた。

これからニッポン放送「魔法のラジオ」という番組の収録だった。

4月にスタートし、毎週日曜朝5:06から放送されており、地域によっては若干放送時間が違う。


番組HP


10分番組だが、民俗学に基づいて旧暦を紐解きながらお送りしており、これがまた面白い。

朝早いがぜひ聴いてほしいと小川は思っている。



最終的なすり合わせをしていると、何やら他の番組のスタッフたちがざわつきだした。大物や売れっ子が来るときによくこうなる。

今日は誰がおいでなすったのかなと、チラリと見やったところ、小川はぶったまげた。ポーカーフェイスを演じることができず、素直に感情を表に出してしまった。現れたのがなんと近藤真彦さんだったのだ。




仕事の場で人気者を見かけたことをSNSにあげたりしないのが小川の流儀だったが、今回は書かずにはいられなかった。

小川は数日前、ネットで近藤真彦さんの書物を立て続けに購入していた。

1冊は「いま俺、やるっきゃない」、もう1冊は「青春タイトルマッチ」だ。

アイドルバリバリだった昔に刊行されたもので、古本でないと手に入らない。

その流れがあってのこれだったので、これはもう何かあるとしか思えなかった。あまりにもマッチづいている。小川の人生の中で、こんなにもマッチがかったことはない。



気づくと小川は、マッチさんが出る番組とはまったく関係ない部外者であるにもかかわらず、その上てめえの番組の打ち合わせ中であるにもかかわらず、すくっと立ちあがって「おはようございます!」とあいさつしていた。

マッチさんはさわやかに会釈してくれた。

よし!

何の手ごたえかまったくもって不明だが、小川は心の中でガッツポーズを炸裂させた。



その後もチラチラと見てしまうと、マッチさんはスタッフの方たちと気さくに打ち合わせをし、中身を詰めていた。



邪魔をしてはならないので、小川は念を送った。

「カラオケに行くと毎回何曲か歌ってます!」

「ためいきロ・カ・ビ・リーは毎回必ず歌います!」

「この間はマッチさんの本を2冊買いました!」

「『もう一杯ぶん話そうか』は持っていたので、いま家にはマッチさんの本が3冊もあります!」

「『いま俺、やるっきゃない』は人にあげたり借りパクされたりして、もう何冊買ったかわかりません!」

「でも全部中古で買ってるのでマッチさんには一銭も入りません! すいません!」







(“真彦十八歳”とあるように、マッチさんが18歳のときに出されたエッセイ)







(うちにあるマッチ三部作)



もう15年ほど前のことだ。

小川は「ためいきロ・カ・ビ・リー」が好きすぎて、芸人時代にこの曲でネタを作った。

組を抜けたいチンピラが、愛する女を連れて逃避行するという任侠ミュージカルで、名曲「ためいきロ・カ・ビ・リー」に乗せてストーリーが繰り広げられていく。

歌詞とまったく関係ない内容だった。


小川に足を洗ってほしい女と、報復を恐れる小川。

苦悩の末、小川は女を選ぶ。

ヤクザに追われて命からがら逃げまわったり、愛する女が小川を守って身代わりに刺されてしまったりと色々展開していくなか、とにかくサビにさしかかるとストーリーの途中でも小川が熱唱するというもので、なかなか評判が良かったし小川もやっていて楽しかった。



このネタをマッチさんに観ていただきたかった。

マッチさんは小川の原点でもあった。

小川は初心に戻った気がし、決意を新たにした。

日々、精進だ。それしかない。

マッチさんの言葉を借りると、こんな心境だ。



康弘三十九歳

いま俺、やるっきゃない




なんだこの切なさをまとう響きは。

なんだろう、いささかの哀しみを帯びている。

原因は“三十九歳”な気がする。



しかし、マッチさんの本の表紙にのっとるとこうなる。

『いま俺、やるっきゃない』を言ってもOKな年齢があるのだろう。

個人的には27歳くらいまでかな、と小川は思う。

この言葉を使うには、小川はとっくに定年を過ぎていた。

だが、小川の偽らざる気持ちを見事に表しているのもまた確かだった。




こうしてレジェンド級のお方にお会いした日の翌日、これまたとんでもないお方と遭遇することをこのとき小川はまだ知らない。

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6月が終わると、多くの日本人とほぼ同じタイミングで小川は7月を迎えた。時の流れは小川にも分け隔てなく平等に訪れた。

上半期ラストの月である6月、小川は富士山に登ってきた。

エレキコミックやついさんの、海抜0メートルから富士山に登るツアーにお誘いいただいて参加してきたのだった。






(参加者の皆さんと。背後に見えるのが富士山の頂上。)


お客さんも皆さんいい人で、楽しく過ごさせていただいた。

女性のお客さんにいたっては、行きのバスの車内で開催された『小川の嫁探しランウェイ』で物色されたにも関わらず、その後も温かく接していただいた。



男性のお客さんとも道中談笑したり、大浴場では湯につかりながら語らったりと、裸の付き合いをさせていただいた。

奥さんや彼女と一緒に参加された方も、嫁探しランウェイで小川に大切なパートナーをそういう目で見られたことがまるで嘘のように和やかに接してくださった。



夕飯はバーベキューで、美味しい食材を堪能し、富士市のスタッフさんの中に小川のいとこと同じ職場だった人がいて世間の狭さに驚いたりと、にぎやかで愉快な初日を過ごせた。



あとは部屋でのんびりおしゃべりでもして、眠くなったら寝ちゃえば最高だ。

だが小川はそうはいかなかった。



ありがたいことに小川はこの時期、一年の収入をほんの数週間で売り上げようとしているかのごとく仕事が立て込んでおり、連日昼も夜もなく、旅先でも仕事をしないといけない状況だった。

同室だったやついさん、おくまん、旅行会社の山ちゃんが寝静まったなか、ひとりパソコンと向き合った。カタカタとキーボードで主に日本語を、ごくたまに英語を打ったりなどしていると、



「ん? くせえな」



おならのにおいが漂ってきた。誰かが屁をこいたのだ。

すかしっ屁であるため、誰がこいたかはわからない。


まあ寝っ屁は誰にでもある。小川も寝ていたらこいていたかもしれない。

気にせず気持ちを切り替えてまたパソコンに向かった。

すると、ほどなくしてまた屁のにおいが漂ってきた。



「また誰か屁しやがったな」



暗闇に目が慣れたのとパソコンの明かりでうっすらと顔が見える。

3人ともいかにも屁をこきそうな顔をしており、さっぱりわからない。

屈託のない顔で寝てやがる。音なき屁に小川はお手上げとなった。



眠いし翌朝も早い。そのうえ二日目はいよいよ富士山に登る。早く仕上げて少しでも多く睡眠を取らねば倒れてしまう。小川は屁のことは水に流し、ギアを上げた。その時だった。



「ブーッ」



小川をあざ笑うかのように誰かが屁をこいた。キーボードを打つ小川の指が止まる。心の中で巻き舌で問うた。



「誰だマジで! バカにしてんのか!」



みんなちょうどいい距離にいるため、音というヒントがあったのに誰の仕業かわからない。

布団をめくって尻のニオイをかげばすぐ判明するだろうが、そんなことする気も起らないし、している場合でもない。


他人の屁は、そのニオイ以上に臭く感じるものだ。

バーベキューで肉をいっぱい食べているから、そもそも臭い。

だが、ここで小川は自分の過ちに気づいた。




「誰も悪くない。いや、全部俺が悪い」



いま小川が寝ていないのも、てめえの都合でこうなっているだけだ。

お前が旅行に仕事を持ち込んでるだけだ。

周りからしたら知らねえよそんなもん、なのだ。



小川は反省の意味を込め、屁のニオイが漂う部屋の空気を鼻から思い切り吸い込んだ。





(左から山ちゃん、おくまん、やついさん、小川)


くっせーしねみーしでしんどかったが、悪条件のなか何とか間に合わせることができ、つかの間の睡眠をとった。

肩の荷が下りたからだろうか、ほどなくして訪れた朝はとても気持ち良かった。



二日目、ツアーの一行は富士の山道へと足を踏み入れた。

この旅がどれだけ楽しかったかはエレ片のPodcastを聴くとおわかりいただける。




エレ片Podcast




6月が幕を閉じ、小川はあの繁忙期にどのくらい売り上げたかそろばんを弾いた。



「ふふふ、一年分くらいいったかな。どれどれ、えーと……」



計算が終わると、小川は呆然となった。

稼げた額は、1か月暮らせるかどうか程だった。


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名曲か否かを問われたら、小川はその曲を元気いっぱい「名曲です!」と答えるだろう。太田裕美さんの『木綿のハンカチーフ』といえば、誰の心にも名曲として刻まれている、日本が誇るスタンダードナンバーだ。

歌詞は、カップルであろう若い男女の往復書簡で進んでいく。青年が恋人を故郷に残し、一人都会へと旅立つ場面からこの曲は始まる。






 

(青年はおそらく新幹線で東京へ向かったと思われる)



一番では、都会で君への贈り物を探すよと言う青年に、彼女は「なんにもいらないから都会の絵の具に染まらないで帰ってきてほしい」という旨を伝える。



二番では、逢えなくなって半年が過ぎ、都会で流行っている指輪を贈ろうとする青年に、彼女は「たとえ星のダイヤであろうと海に眠る真珠であろうと、あなたのキスよりきらめくものはない」と答えた。



三番では、社会に揉まれ、たくましくなった凛々しいスーツ姿の僕を見てくれと、写真を送ろうとする青年に、彼女は「草に寝転ぶあなたが好きだった。木枯らしのビル街、からだに気をつけてね」と恋人の体調を気遣った。



小川は、なんて素敵な女性なのだろうと思った。こんないい子はそうそういない。この歌に出てくる青年は幸せ者だ。



しかし、最後の四番で二人に異変が起こる。

青年が「君を忘れて変わっていく僕を許してくれ。毎日愉快に過ごしている。僕は帰れない」と別れを切り出したのだ。



小川は、てめえそりゃあねえだろと思った。もういっぺん言ってみろ、と。


もうこのバカ男に君からガツンと言ってやってくれよ、ガツンと。



ところが、彼女は「最後のわがままに、涙拭く木綿のハンカチーフをください」とねだるだけだった。



「どんだけいい子なんだよ!」



彼女はどこまでも健気だった。本当にあいつのことが好きだったんだなと感じた。

小川は胸を打たれた。世の中にこんないい子いるんだな、と。3番まで聴いた時点でかなりいい子だとは思っていたけど、ここまでいい子だったとは思わなかった。



こんないい子にここまで悲しい思いをさせるなんて、この男をぶん殴ってやりたい。この歌に登場して、身勝手なこいつを説教してやりたい。そういう流れの5番を作ってほしいくらいだった。





月日は流れ、小川も都会の荒波に揉まれた。人の汚い面、ずるい面を目の当たりにし、心も薄汚れていったのだろう。ある日、ふと気づいた。



「あーーーーー! なんてこったーーーーー!」



小川は長年思いもしなかったことに気づいてしまった。



「そっか、この子、あいつとキスしてんだ……」



小川は今更ながら、二人がAまでいっていることに気づいた。



「なんだよ!キスしてんじゃねえかよ!」



なんで気づかなかったんだろう。歌詞にちゃんと書いてあるではないか。


小川は大きなショックを受けた。過去の話だし、小川だってキスぐらいでガタガタ言いたくはない。なのに、なかなか現実を受け入れることができなかった。



キスくらいいいじゃないかと言い聞かせるが、あの子のあまりのいい子ぶりにそういうことをする女性じゃないと認識してしまい、イメージと現実とのギャップに苦しんだ。

何かの間違いかもしれないと思い、ちゃんと歌詞を確認した。

ふむふむ。あなたのキスほど云々、とある。

どう考えてもクロだった。

しかも、星のダイヤや海に眠る真珠よりもきらめくはずはないわと言わしめている。



「これは一度や二度じゃねえぞ。なんなら彼女のほうから何度もおねだりしているに違いない」



考えたらわかる話だ。年頃の男女なのだ。好奇心も旺盛な時期だ。

歌詞では半年逢えていないとなっているが、さすがにどこかのタイミングで男は里帰りしているはずだ。もしくは彼女のほうが都会に遊びに行って会っている可能性もある。想いを募るだけ募らせた状態で再会しようものならそりゃあ、だ。



「これもう完全にCまでいってんな!」



小川は、今まで健気で一途で貞淑な女性だと思っていたこのヒロインが急にけがらわしく思えてきた。

「ふざけんじゃねえよ!なんなんだよ!」

今頃、あばずれたあの子は誰かの腕の中で眠っているのだろう。それでいて、別の男の夢を見ているに違いない。

危うく騙されるところだったぜと、都会で大事な何かを失くした小川がつぶやいた。


それぐらい小川はこの歌が好きで、よく口ずさんではカラオケでも歌ったものだ。これからもそれは変わらない。

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小川はゴールデンウィーク中、実家があるアメリカ合衆国カリフォルニア州モーガンヒル市の姉妹都市の喫茶店で、床屋をテーマにした物語の原稿チェックをしていた。

主人公が子供の頃に床屋デビューした店舗の主人と対峙するシーンに触発を受け、3年も前にてめえで書いておきながら今更ながら「あ、自分の初めての床屋に行ってみたい」と高ぶってしまった。


実家から車で20分ほど走らせれば、以前住んでいた隣の青梅市の住居近くまで行くことができる。その床屋はそこから程近い。そんな状況が小川にひらめきを与えたのかもしれない。


電話で存在&営業確認をし、緊張しながら向かった。ヘアーサロンクボタに着くと、小川はなぜか一旦通り過ぎた。






「どうしよう、緊張するなあ」


話が弾まなかったらどうしよう。どのタイミングで素性を明かそうか。素性を明かさないパターンでいこうか。でもそれは何のためにだ?

あんまりウロウロするのはやばい。小川は思い切って入口の扉を開けた。



「いらっしゃい」


白髪のダンディーな男性が出迎えてくれた。久保田さんのおじさんだ。


うおー、当時のおじさんの30年後って感じがする!


小川の記憶では鼻下に立派なひげを蓄えていたのだが、ツルッツルだった。入口の正面に小部屋があり、そこでファミコンをやらせてもらっていたのだが、それっぽい部屋があった。目に飛び込むものいちいちに、心ひそかに感嘆した。


小川はそんな気持ちを微塵も出さず、素知らぬ顔で一通りの接客を受けた。

ゴールデンウィークを絡めた世間話などしていると、おじさんが、



「散歩の途中か何かなの?」


と聞いてきた。


「ここに来たのがですか?」
「そう」


小川くらいの年端の客は珍しいそうだ。小川は、今だなと思った。


「実は……」



かくかくしかじかと、初めての床屋に行ってみたくなって訪問したことを伝えた。そこから自分の名前を明かし、お子さんと今井小で同級生だったことを伝えた。ちなみに保育園は今寺保育園であることを伝えると、「うちのもそうだよ」と、保育園も一緒だったことが判明した。小川の記憶でもそんな気がしていたが、小学校からだった線も捨てきれなかった。



(お遊戯会終演後っぽい。なんかよくわかんない役を射止めた小川(写真前列左端)。この中に久保田さんのお子さんがいるはず。)



「そっか、あの小川さんのとこのか」

「そうなんですよ。おじさん昔ヒゲ生やしてませんでしたっけ?」

「生やしてた」

「やっぱり! あと、あっちの部屋でファミコンやらせてもらったことも覚えてます」

「おー」

などなど、盛り上がった。(と、小川は思っている。)
久保田さんとこの同級生は、現在、店の裏に住んでいて、今は子供と映画を観に立川へ行っているという。会えず残念だ。せっかくだったので会いたかった。小川は、ふと聞いてしまった。


「同窓会とかやってそうですか?」



おじさんのハサミが止まった。

同窓会とかやってそうですか―――



呼ばれていたらこんな聞き方をしない。呼ばれていない人間の物言いだ。


おじさんは窓の外を見つめ、「ちょっとわかんないなあ」と答えた。小川は、ああこれやってんなと思った。

小川を思いやってとぼけたのか、本当にわからないのか、どちらのようにも見える。小川はそれ以上聞かなかった。
保育園時代と小学校のときの、一番懐かしい人たちは今どうしているのか? 達者でやってくれているといいな。

そんなことを思っていると、髪を切り終わって顔剃りのタイミングに移り、おじさんは次のお客さんのカットに移動してしまった。

そこで現れたのがおばさんだった。顔剃りはおばさんが担当のようだ。


「おばさんも面影ありますね~!」

「そう?」



おばさんはそう言うと、当時とは比べ物にならないほど茂った小川の顔を丁寧に剃ってくれた。「私はこの顔、面影どころか見覚えないなあ」そんなことを思わせながら剃らせてしまったかもしれない。

顔剃りが終わるとドライヤーで髪を乾かし、セットしてくれた。顔剃りの最中は危ないが、今ならしゃべれる。

小川とおばさんは昔話や近況などに花を咲かせ、おしゃべりを楽しんだ。(と、小川は思っている。)





「また来ますね!」


そう伝え、小川は会計を済ませた。30年ぶりに払う料金は、すっかり大人になっていた。


帰り際、おばさんが「これ持ってって」と小川を引き留めた。渡してくれたのは、なぜかBOXティッシュだった。とりあえず小川は嬉しそうにお礼を言っておいた。




















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小川はゴールデンウィークの後半、アメリカはカリフォルニア州にあるモーガンヒル市の姉妹都市にバカンスで訪れていた。その町は時差がほとんどなく、人は東京都西多摩郡瑞穂町と呼んだ。そこには小川の実家があった。




小川の仕事は、打ち合わせや会議などをのぞけばどこでもできる。ネット環境が整っていてパソコンさえあればこっちのもんだった。バカンスとは名ばかりで、日中から夜遅くまでずっと喫茶店で仕事をしていた。寝に実家へ帰っていたようなもんだった。



このときに抱えていた仕事のひとつに、床屋をテーマに書いた物語の原稿チェックがあった。主人公が幼い頃に通った、自身初の床屋に関するくだりを読み返していたときだった。

小川はふと思い立った。




「そうだ、せっかく実家に帰って来てるんだし、初めての床屋に行ってみよう」



小川の初めての床屋は、瑞穂町に住む前に暮らしていた隣の青梅市にあった。たしか保育園の年長か小学校に入りたてくらいの頃に、小川は頭髪的親離れを果たした。小学校の同級生のお父さんがやっている理容室だった。




(初めて床屋で髪を切った記念の一枚)



だが時はゴールデンウィークだ。人によっては10連休という、夢のような金字塔を打ち立てている者も少なくない。




「さすがに休みかな」



そもそも、もう店をたたんでしまっているかもしれない。なんせ39歳の子を持つ親だ。年齢もおそらく60代から70代だろう。立ちっぱなしの大変な仕事をまだやっているだろうか。



まずは確認だ。小川はネットで「久保田理容室 青梅」で検索した。ホームページは存在しなかったが、組合か何かの一覧の中に引っかかった。そこは「ヘアーサロンクボタ」だった。住所を見るとおそらくここだ。小川はずっと店名を間違えて記憶していたことに気づいた。


次は電話で直接確認だ。だが、いざアクションを起こそうとすると戸惑いが生じ、そわそわしてきた。




「やっぱやめようかな。緊張するし。それに2週間くらい前に髪切ったばっかなんだよな」



しかしだ。せっかくだ。思い切ってかけてみた。プルルと、電話を発信したときおなじみの音が流れる。


「はい」


年配の男性の声が聞こえてきた。うわっ、出た! やべえどうしよう……ん? 名乗らないぞ?


「あ、もしもし、久保田理容室さんでしょうか?」


あっ、いっけね、ヘアーサロンクボタだった!


「……」


あれ? 違うとこにかけちゃったか。小川は間違い電話をしてしまったかもしれないことへの動揺で、店名の間違いが完全に抜けた。


「すいません、久保田理容室さんじゃなk

「そうです」


食い気味で答えが返ってきた。『か』と打とうとしてkのあとにaを打つ前に返答があった、そんなニュアンスとテンポだ。

久保田さんは、本当はヘアーサロンクボタなのに、久保田理容室なのかと聞かれ、そうですと言ってくれた。確かにほぼ同じ意味ではある。ヘアーサロンクボタを和訳したら久保田理容室だ。


「今日やってます?」

「やってますよ」

「あ、じゃあ、伺うかもしれません」

「はい」

「失礼しまーす」

「はーい」


小川は電話を切った。うおー、やっていたよー。営業している状態が日常である感じだった。現役バリバリっぽかった。




小川はデビューを飾った床屋へ30年ぶりに向かった。最後に切ったのは、青梅市を引っ越す9歳以来だ。







(青梅市から瑞穂町に引っ越し、この学校へ転校。母校を通り過ぎながらヘアーサロンクボタへ向かう車中から撮影)








つづく






















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