小川康弘のブログ 「主人公・小川康弘」

日々を小説で書いてみてます。


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2016年の8月が終わった。今年の夏も両親とともに祖母の元気な姿を見ることできた。

母方の祖母が唯一健在で、今年で91歳にも関わらず、これまたすさまじく元気なのだ。背中はまっすぐ伸び、頭脳も明晰で、足も歩くスピードはいたってゆるやかだが気になるのはそれぐらいだ。

食欲もあって畑仕事に精を出し、まだまだ果てしなく生きそうな気配を漂わせている。


帰り際、初孫の小川に向かって言った祖母の言葉がどうかしていた。


「いいか、悪いことはしちゃいけないぞ。悪いことするなら死んだほうがマシだ。悪いことをしたら死ね」


小川は一瞬、目が点になった。


(ええ!? 極刑!?)


祖母は戦争の足音を聞きながら育ち、青春時代は激しい戦火の中で過ごした。


激動の昭和を乗り越え、どっこい90年以上生きてきて達した境地だろうか。



私の孫である以上、悪いことをしたら死ね。

祖母の血を受け継いだ人間としての運命(さだめ)だ。

一族の鉄の掟にしたいものだ。



悪いことをした者には死を!




祖母からの執行猶予付きの死刑宣告から2週間後、小川は赤坂サカスで行われたTBSラジオ「エレ片のコント太郎」のイベントを観に行った。

年末に行われるイベント「エレ片 in 両国国技館」にさきがけて、女性リスナーによる女相撲大会が開催されたのだ。


決勝に残ったのは、圧倒的強さでコマを進めたデブっちょの女芸人と、子持ちの女性だった。

デブっちょ女芸人の四股名は「イベリコの豚」で、その名前から体格と強さが感じられる。対するママさん女力士の四股名は「子どもいるから」だった。


その名のごとくお母さんであり、客席にはご主人とお子さんも応援に訪れていた。

二人はどんな気持ちで妻の、そして母の本気で相撲する姿を見ていたのだろうか。



子どもいるから関は母親の強さを感じさせ、並み居る女力士たちをなぎ倒していった。

だが小川は、「決勝はさすがに子どもいるからは負けちゃうだろうな」と予想を立てた。


なにせ相手はイベリコの豚関だ。体の大きさも違う。勝負は目に見えていた。

小川は、子どもいるから関には悔いだけは残してほしくないな、と思いながら決勝を見守った。


時間がどのくらい過ぎただろうか。

これまでのイベリコの豚関だったら、とうに相手を倒している頃だ。
だがイベリコの豚関は、まだ子どもいるから関と必死に組み合っている。

イベリコの豚関が勝つと思われていたが、子どもいるから関がそうはさせないのだ。
小川の心が躍り始めた。これは、ひょっとしたらひょっとするぞ。


だがイベリコの豚関が全力で仕留めにかかる。

そのパワーに、子どもいるから関も屈しそうになった。
腕相撲でいえば、もう机に手が付きそうなになっている寸前の、あんな感じだ。



「子どもいるからもここまでか……」



よく頑張ったと思ったそのとき、子どもいるから関は驚異的な粘りを見せ、形成を立て直した。



「うおー、マジかよ子どもいるから!!」



子どもいるから関は、守る者がいる強さを発揮した。

イベリコの豚関は、その力の前についに敗れた。

大歓声が赤坂に轟いた。


「おばあちゃん、子どもいるからが優勝したよ」



気づくと心の中で報告をしていた。

子どもいるから関との名勝負を見せてくれたイベリコの豚関も、途中で散っていった女力士の皆さんもあっぱれだった。


小川は祖母を年末の「エレ片 in 両国国技館」に招きたいが、難しいかなと思っている。



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近藤真彦さんを間近でお見かけし、会釈まで獲得できた翌日、時刻が夕方を過ぎると小川は渋谷へ向かった。

駅を降り、改札を抜け、スクランブル交差点を渡った。渡ったがセンター街には入らない。

左へ向かい、そのまましばらくまっすぐ進む。左手に道路を挟んでドンキホーテが見えた頃、bunkamuraを目指していた小川はそろそろこの道を横断してあちらへ渡りたいと思い始めた。渡りたいという気持ちが、渡らなければならないという決意に変わり、小川は信号が赤から青に変わるのを待った。青に変わったら渡ろうと思っていた気持ちに特に変化は表れず、信号を待っていた人間たちが歩み始めたのと同時に小川もそうした。



ありがたいことに小川はこの日、bunkamuraオーチャードホールで行われる森山良子さんのコンサートを鑑賞させていただけることになっていた。

指定された席は1階の後ろから2列目だった。

キャパ2000を超える縦長の作りで、ここからだとステージまでは結構遠い。

実際、コンサートが始まると森山良子さんの顔はよくわからないほどだった。



森山良子さんはわりと冒頭のほうで今日のゲストをステージに呼び込み、紹介した。

一通りのからみも終わると、「今日はシークレットなスペシャルゲストもいらっしゃるのでお楽しみに!」的なことを言ったので、小川はワクワクした。



ゲストの一人、谷村新司さんの出番になった。やはり遠くて顔ははっきりわからない。

だがアリス時代のヒット曲なども惜しげなく披露し、十分楽しい。


小川は谷村新司さんの存在を知ったあの日のことを思い出した。

あれは小川が小学生の頃だ。

ものまね王座決定戦を観ていると、清水アキラさんが登場した。

セロハンテープで鼻を引っ張りあげ、鼻の穴をむき出しにして披露したのは谷村新司さんのモノマネだった。



小川はものまね王座決定戦が大好きで、毎回欠かさず観ていた。

この番組で知った歌手や日本の古い名曲も数多い。

清水アキラさんも「冬の稲妻/アリス」「チャンピオン/アリス」「夏をあきらめて/研ナオコ」など、多くの名曲を小川に教えてくれた。





(「冬の稲妻」に度肝を抜かれ、何度も聴きたくてCDまで買ってしまったほど)


 
(名曲がいっぱい)



過去の回想から戻ってくると、小川はあそこで今歌っているのがひょっとしたら清水アキラさんの可能性もあると思えてきた。



なんせ顔がよくわからない。

だが歌はうまく、声もまるで谷村新司さんであるかのようにそっくりだ。


しゃべりも面白い。



しかし、「歌がうまい」「谷村新司みたいな声」「おもしろい」などの特徴は清水アキラさんにも当てはまる。

楽しみつつも疑いの目で見ていると、小川はふと気が付いた。



「そういえば、顔が反射していない。もしテープで鼻を引っ張り上げているとしたら、照明に反射してキラキラするはずだ」


本人がわざわざ自分の鼻をテープで引っ張り上げるだろうか。

いや引っ張らない。


ということは、ステージ上で「チャンピオン」を歌っている谷村新司疑惑のある人物は、清水アキラさんではない可能性が極めて高い。

状況証拠ではあるが、間違いない、あの男は黒だ。谷村新司だ。



疑惑が晴れたときにはコンサートは前半が終わり、休憩時間となった。



事件は休憩時間が終わる頃に訪れた。

後半はいよいよシークレットなスペシャルゲストが来るぞ、いったい誰なんだろうと心を躍らせていると、客席がざわつきだし、拍手がわき起った。

客席の入口から、なんと天皇陛下と皇后陛下の両陛下が現れた。


小川の席からも肉眼ではっきり見える距離だ。小川はずっこけそうになった。




「いやスペシャル過ぎでしょ!」




もちろん声に出しては叫べない。それができたらたいしたものだ。

これはスペシャルどこの話ではない。もうロイヤルだ。




え、もしかして両陛下も一曲歌うとか? え、まさかデュエット?」



マジかよと小川はドキドキしながら後半のコンサートを鑑賞した。



結局、森山良子さんが言っていたシークレットなスペシャルゲストは由紀さおりさんで、両陛下がステージまで下りてお歌を披露されるようなことはなかった。



由紀さおりさんはめちゃくちゃ歌がうまくて、しかもパワフルでぶったまげた。

両陛下も楽しまれていたようだった。



昨日はマッチさんで、今日は素晴らしいコンサートを鑑賞できたうえに両陛下にもお目にかかれ、とってもスペシャルでロイヤルな2dayだった。

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その日、小川はスタジオの共有スペースで打ち合わせをしていた。

これからニッポン放送「魔法のラジオ」という番組の収録だった。

4月にスタートし、毎週日曜朝5:06から放送されており、地域によっては若干放送時間が違う。


番組HP


10分番組だが、民俗学に基づいて旧暦を紐解きながらお送りしており、これがまた面白い。

朝早いがぜひ聴いてほしいと小川は思っている。



最終的なすり合わせをしていると、何やら他の番組のスタッフたちがざわつきだした。大物や売れっ子が来るときによくこうなる。

今日は誰がおいでなすったのかなと、チラリと見やったところ、小川はぶったまげた。ポーカーフェイスを演じることができず、素直に感情を表に出してしまった。現れたのがなんと近藤真彦さんだったのだ。




仕事の場で人気者を見かけたことをSNSにあげたりしないのが小川の流儀だったが、今回は書かずにはいられなかった。

小川は数日前、ネットで近藤真彦さんの書物を立て続けに購入していた。

1冊は「いま俺、やるっきゃない」、もう1冊は「青春タイトルマッチ」だ。

アイドルバリバリだった昔に刊行されたもので、古本でないと手に入らない。

その流れがあってのこれだったので、これはもう何かあるとしか思えなかった。あまりにもマッチづいている。小川の人生の中で、こんなにもマッチがかったことはない。



気づくと小川は、マッチさんが出る番組とはまったく関係ない部外者であるにもかかわらず、その上てめえの番組の打ち合わせ中であるにもかかわらず、すくっと立ちあがって「おはようございます!」とあいさつしていた。

マッチさんはさわやかに会釈してくれた。

よし!

何の手ごたえかまったくもって不明だが、小川は心の中でガッツポーズを炸裂させた。



その後もチラチラと見てしまうと、マッチさんはスタッフの方たちと気さくに打ち合わせをし、中身を詰めていた。



邪魔をしてはならないので、小川は念を送った。

「カラオケに行くと毎回何曲か歌ってます!」

「ためいきロ・カ・ビ・リーは毎回必ず歌います!」

「この間はマッチさんの本を2冊買いました!」

「『もう一杯ぶん話そうか』は持っていたので、いま家にはマッチさんの本が3冊もあります!」

「『いま俺、やるっきゃない』は人にあげたり借りパクされたりして、もう何冊買ったかわかりません!」

「でも全部中古で買ってるのでマッチさんには一銭も入りません! すいません!」







(“真彦十八歳”とあるように、マッチさんが18歳のときに出されたエッセイ)







(うちにあるマッチ三部作)



もう15年ほど前のことだ。

小川は「ためいきロ・カ・ビ・リー」が好きすぎて、芸人時代にこの曲でネタを作った。

組を抜けたいチンピラが、愛する女を連れて逃避行するという任侠ミュージカルで、名曲「ためいきロ・カ・ビ・リー」に乗せてストーリーが繰り広げられていく。

歌詞とまったく関係ない内容だった。


小川に足を洗ってほしい女と、報復を恐れる小川。

苦悩の末、小川は女を選ぶ。

ヤクザに追われて命からがら逃げまわったり、愛する女が小川を守って身代わりに刺されてしまったりと色々展開していくなか、とにかくサビにさしかかるとストーリーの途中でも小川が熱唱するというもので、なかなか評判が良かったし小川もやっていて楽しかった。



このネタをマッチさんに観ていただきたかった。

マッチさんは小川の原点でもあった。

小川は初心に戻った気がし、決意を新たにした。

日々、精進だ。それしかない。

マッチさんの言葉を借りると、こんな心境だ。



康弘三十九歳

いま俺、やるっきゃない




なんだこの切なさをまとう響きは。

なんだろう、いささかの哀しみを帯びている。

原因は“三十九歳”な気がする。



しかし、マッチさんの本の表紙にのっとるとこうなる。

『いま俺、やるっきゃない』を言ってもOKな年齢があるのだろう。

個人的には27歳くらいまでかな、と小川は思う。

この言葉を使うには、小川はとっくに定年を過ぎていた。

だが、小川の偽らざる気持ちを見事に表しているのもまた確かだった。




こうしてレジェンド級のお方にお会いした日の翌日、これまたとんでもないお方と遭遇することをこのとき小川はまだ知らない。

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6月が終わると、多くの日本人とほぼ同じタイミングで小川は7月を迎えた。時の流れは小川にも分け隔てなく平等に訪れた。

上半期ラストの月である6月、小川は富士山に登ってきた。

エレキコミックやついさんの、海抜0メートルから富士山に登るツアーにお誘いいただいて参加してきたのだった。






(参加者の皆さんと。背後に見えるのが富士山の頂上。)


お客さんも皆さんいい人で、楽しく過ごさせていただいた。

女性のお客さんにいたっては、行きのバスの車内で開催された『小川の嫁探しランウェイ』で物色されたにも関わらず、その後も温かく接していただいた。



男性のお客さんとも道中談笑したり、大浴場では湯につかりながら語らったりと、裸の付き合いをさせていただいた。

奥さんや彼女と一緒に参加された方も、嫁探しランウェイで小川に大切なパートナーをそういう目で見られたことがまるで嘘のように和やかに接してくださった。



夕飯はバーベキューで、美味しい食材を堪能し、富士市のスタッフさんの中に小川のいとこと同じ職場だった人がいて世間の狭さに驚いたりと、にぎやかで愉快な初日を過ごせた。



あとは部屋でのんびりおしゃべりでもして、眠くなったら寝ちゃえば最高だ。

だが小川はそうはいかなかった。



ありがたいことに小川はこの時期、一年の収入をほんの数週間で売り上げようとしているかのごとく仕事が立て込んでおり、連日昼も夜もなく、旅先でも仕事をしないといけない状況だった。

同室だったやついさん、おくまん、旅行会社の山ちゃんが寝静まったなか、ひとりパソコンと向き合った。カタカタとキーボードで主に日本語を、ごくたまに英語を打ったりなどしていると、



「ん? くせえな」



おならのにおいが漂ってきた。誰かが屁をこいたのだ。

すかしっ屁であるため、誰がこいたかはわからない。


まあ寝っ屁は誰にでもある。小川も寝ていたらこいていたかもしれない。

気にせず気持ちを切り替えてまたパソコンに向かった。

すると、ほどなくしてまた屁のにおいが漂ってきた。



「また誰か屁しやがったな」



暗闇に目が慣れたのとパソコンの明かりでうっすらと顔が見える。

3人ともいかにも屁をこきそうな顔をしており、さっぱりわからない。

屈託のない顔で寝てやがる。音なき屁に小川はお手上げとなった。



眠いし翌朝も早い。そのうえ二日目はいよいよ富士山に登る。早く仕上げて少しでも多く睡眠を取らねば倒れてしまう。小川は屁のことは水に流し、ギアを上げた。その時だった。



「ブーッ」



小川をあざ笑うかのように誰かが屁をこいた。キーボードを打つ小川の指が止まる。心の中で巻き舌で問うた。



「誰だマジで! バカにしてんのか!」



みんなちょうどいい距離にいるため、音というヒントがあったのに誰の仕業かわからない。

布団をめくって尻のニオイをかげばすぐ判明するだろうが、そんなことする気も起らないし、している場合でもない。


他人の屁は、そのニオイ以上に臭く感じるものだ。

バーベキューで肉をいっぱい食べているから、そもそも臭い。

だが、ここで小川は自分の過ちに気づいた。




「誰も悪くない。いや、全部俺が悪い」



いま小川が寝ていないのも、てめえの都合でこうなっているだけだ。

お前が旅行に仕事を持ち込んでるだけだ。

周りからしたら知らねえよそんなもん、なのだ。



小川は反省の意味を込め、屁のニオイが漂う部屋の空気を鼻から思い切り吸い込んだ。





(左から山ちゃん、おくまん、やついさん、小川)


くっせーしねみーしでしんどかったが、悪条件のなか何とか間に合わせることができ、つかの間の睡眠をとった。

肩の荷が下りたからだろうか、ほどなくして訪れた朝はとても気持ち良かった。



二日目、ツアーの一行は富士の山道へと足を踏み入れた。

この旅がどれだけ楽しかったかはエレ片のPodcastを聴くとおわかりいただける。




エレ片Podcast




6月が幕を閉じ、小川はあの繁忙期にどのくらい売り上げたかそろばんを弾いた。



「ふふふ、一年分くらいいったかな。どれどれ、えーと……」



計算が終わると、小川は呆然となった。

稼げた額は、1か月暮らせるかどうか程だった。


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名曲か否かを問われたら、小川はその曲を元気いっぱい「名曲です!」と答えるだろう。太田裕美さんの『木綿のハンカチーフ』といえば、誰の心にも名曲として刻まれている、日本が誇るスタンダードナンバーだ。

歌詞は、カップルであろう若い男女の往復書簡で進んでいく。青年が恋人を故郷に残し、一人都会へと旅立つ場面からこの曲は始まる。






 

(青年はおそらく新幹線で東京へ向かったと思われる)



一番では、都会で君への贈り物を探すよと言う青年に、彼女は「なんにもいらないから都会の絵の具に染まらないで帰ってきてほしい」という旨を伝える。



二番では、逢えなくなって半年が過ぎ、都会で流行っている指輪を贈ろうとする青年に、彼女は「たとえ星のダイヤであろうと海に眠る真珠であろうと、あなたのキスよりきらめくものはない」と答えた。



三番では、社会に揉まれ、たくましくなった凛々しいスーツ姿の僕を見てくれと、写真を送ろうとする青年に、彼女は「草に寝転ぶあなたが好きだった。木枯らしのビル街、からだに気をつけてね」と恋人の体調を気遣った。



小川は、なんて素敵な女性なのだろうと思った。こんないい子はそうそういない。この歌に出てくる青年は幸せ者だ。



しかし、最後の四番で二人に異変が起こる。

青年が「君を忘れて変わっていく僕を許してくれ。毎日愉快に過ごしている。僕は帰れない」と別れを切り出したのだ。



小川は、てめえそりゃあねえだろと思った。もういっぺん言ってみろ、と。


もうこのバカ男に君からガツンと言ってやってくれよ、ガツンと。



ところが、彼女は「最後のわがままに、涙拭く木綿のハンカチーフをください」とねだるだけだった。



「どんだけいい子なんだよ!」



彼女はどこまでも健気だった。本当にあいつのことが好きだったんだなと感じた。

小川は胸を打たれた。世の中にこんないい子いるんだな、と。3番まで聴いた時点でかなりいい子だとは思っていたけど、ここまでいい子だったとは思わなかった。



こんないい子にここまで悲しい思いをさせるなんて、この男をぶん殴ってやりたい。この歌に登場して、身勝手なこいつを説教してやりたい。そういう流れの5番を作ってほしいくらいだった。





月日は流れ、小川も都会の荒波に揉まれた。人の汚い面、ずるい面を目の当たりにし、心も薄汚れていったのだろう。ある日、ふと気づいた。



「あーーーーー! なんてこったーーーーー!」



小川は長年思いもしなかったことに気づいてしまった。



「そっか、この子、あいつとキスしてんだ……」



小川は今更ながら、二人がAまでいっていることに気づいた。



「なんだよ!キスしてんじゃねえかよ!」



なんで気づかなかったんだろう。歌詞にちゃんと書いてあるではないか。


小川は大きなショックを受けた。過去の話だし、小川だってキスぐらいでガタガタ言いたくはない。なのに、なかなか現実を受け入れることができなかった。



キスくらいいいじゃないかと言い聞かせるが、あの子のあまりのいい子ぶりにそういうことをする女性じゃないと認識してしまい、イメージと現実とのギャップに苦しんだ。

何かの間違いかもしれないと思い、ちゃんと歌詞を確認した。

ふむふむ。あなたのキスほど云々、とある。

どう考えてもクロだった。

しかも、星のダイヤや海に眠る真珠よりもきらめくはずはないわと言わしめている。



「これは一度や二度じゃねえぞ。なんなら彼女のほうから何度もおねだりしているに違いない」



考えたらわかる話だ。年頃の男女なのだ。好奇心も旺盛な時期だ。

歌詞では半年逢えていないとなっているが、さすがにどこかのタイミングで男は里帰りしているはずだ。もしくは彼女のほうが都会に遊びに行って会っている可能性もある。想いを募るだけ募らせた状態で再会しようものならそりゃあ、だ。



「これもう完全にCまでいってんな!」



小川は、今まで健気で一途で貞淑な女性だと思っていたこのヒロインが急にけがらわしく思えてきた。

「ふざけんじゃねえよ!なんなんだよ!」

今頃、あばずれたあの子は誰かの腕の中で眠っているのだろう。それでいて、別の男の夢を見ているに違いない。

危うく騙されるところだったぜと、都会で大事な何かを失くした小川がつぶやいた。


それぐらい小川はこの歌が好きで、よく口ずさんではカラオケでも歌ったものだ。これからもそれは変わらない。

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小川はゴールデンウィーク中、実家があるアメリカ合衆国カリフォルニア州モーガンヒル市の姉妹都市の喫茶店で、床屋をテーマにした物語の原稿チェックをしていた。

主人公が子供の頃に床屋デビューした店舗の主人と対峙するシーンに触発を受け、3年も前にてめえで書いておきながら今更ながら「あ、自分の初めての床屋に行ってみたい」と高ぶってしまった。


実家から車で20分ほど走らせれば、以前住んでいた隣の青梅市の住居近くまで行くことができる。その床屋はそこから程近い。そんな状況が小川にひらめきを与えたのかもしれない。


電話で存在&営業確認をし、緊張しながら向かった。ヘアーサロンクボタに着くと、小川はなぜか一旦通り過ぎた。






「どうしよう、緊張するなあ」


話が弾まなかったらどうしよう。どのタイミングで素性を明かそうか。素性を明かさないパターンでいこうか。でもそれは何のためにだ?

あんまりウロウロするのはやばい。小川は思い切って入口の扉を開けた。



「いらっしゃい」


白髪のダンディーな男性が出迎えてくれた。久保田さんのおじさんだ。


うおー、当時のおじさんの30年後って感じがする!


小川の記憶では鼻下に立派なひげを蓄えていたのだが、ツルッツルだった。入口の正面に小部屋があり、そこでファミコンをやらせてもらっていたのだが、それっぽい部屋があった。目に飛び込むものいちいちに、心ひそかに感嘆した。


小川はそんな気持ちを微塵も出さず、素知らぬ顔で一通りの接客を受けた。

ゴールデンウィークを絡めた世間話などしていると、おじさんが、



「散歩の途中か何かなの?」


と聞いてきた。


「ここに来たのがですか?」
「そう」


小川くらいの年端の客は珍しいそうだ。小川は、今だなと思った。


「実は……」



かくかくしかじかと、初めての床屋に行ってみたくなって訪問したことを伝えた。そこから自分の名前を明かし、お子さんと今井小で同級生だったことを伝えた。ちなみに保育園は今寺保育園であることを伝えると、「うちのもそうだよ」と、保育園も一緒だったことが判明した。小川の記憶でもそんな気がしていたが、小学校からだった線も捨てきれなかった。



(お遊戯会終演後っぽい。なんかよくわかんない役を射止めた小川(写真前列左端)。この中に久保田さんのお子さんがいるはず。)



「そっか、あの小川さんのとこのか」

「そうなんですよ。おじさん昔ヒゲ生やしてませんでしたっけ?」

「生やしてた」

「やっぱり! あと、あっちの部屋でファミコンやらせてもらったことも覚えてます」

「おー」

などなど、盛り上がった。(と、小川は思っている。)
久保田さんとこの同級生は、現在、店の裏に住んでいて、今は子供と映画を観に立川へ行っているという。会えず残念だ。せっかくだったので会いたかった。小川は、ふと聞いてしまった。


「同窓会とかやってそうですか?」



おじさんのハサミが止まった。

同窓会とかやってそうですか―――



呼ばれていたらこんな聞き方をしない。呼ばれていない人間の物言いだ。


おじさんは窓の外を見つめ、「ちょっとわかんないなあ」と答えた。小川は、ああこれやってんなと思った。

小川を思いやってとぼけたのか、本当にわからないのか、どちらのようにも見える。小川はそれ以上聞かなかった。
保育園時代と小学校のときの、一番懐かしい人たちは今どうしているのか? 達者でやってくれているといいな。

そんなことを思っていると、髪を切り終わって顔剃りのタイミングに移り、おじさんは次のお客さんのカットに移動してしまった。

そこで現れたのがおばさんだった。顔剃りはおばさんが担当のようだ。


「おばさんも面影ありますね~!」

「そう?」



おばさんはそう言うと、当時とは比べ物にならないほど茂った小川の顔を丁寧に剃ってくれた。「私はこの顔、面影どころか見覚えないなあ」そんなことを思わせながら剃らせてしまったかもしれない。

顔剃りが終わるとドライヤーで髪を乾かし、セットしてくれた。顔剃りの最中は危ないが、今ならしゃべれる。

小川とおばさんは昔話や近況などに花を咲かせ、おしゃべりを楽しんだ。(と、小川は思っている。)





「また来ますね!」


そう伝え、小川は会計を済ませた。30年ぶりに払う料金は、すっかり大人になっていた。


帰り際、おばさんが「これ持ってって」と小川を引き留めた。渡してくれたのは、なぜかBOXティッシュだった。とりあえず小川は嬉しそうにお礼を言っておいた。




















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小川はゴールデンウィークの後半、アメリカはカリフォルニア州にあるモーガンヒル市の姉妹都市にバカンスで訪れていた。その町は時差がほとんどなく、人は東京都西多摩郡瑞穂町と呼んだ。そこには小川の実家があった。




小川の仕事は、打ち合わせや会議などをのぞけばどこでもできる。ネット環境が整っていてパソコンさえあればこっちのもんだった。バカンスとは名ばかりで、日中から夜遅くまでずっと喫茶店で仕事をしていた。寝に実家へ帰っていたようなもんだった。



このときに抱えていた仕事のひとつに、床屋をテーマに書いた物語の原稿チェックがあった。主人公が幼い頃に通った、自身初の床屋に関するくだりを読み返していたときだった。

小川はふと思い立った。




「そうだ、せっかく実家に帰って来てるんだし、初めての床屋に行ってみよう」



小川の初めての床屋は、瑞穂町に住む前に暮らしていた隣の青梅市にあった。たしか保育園の年長か小学校に入りたてくらいの頃に、小川は頭髪的親離れを果たした。小学校の同級生のお父さんがやっている理容室だった。




(初めて床屋で髪を切った記念の一枚)



だが時はゴールデンウィークだ。人によっては10連休という、夢のような金字塔を打ち立てている者も少なくない。




「さすがに休みかな」



そもそも、もう店をたたんでしまっているかもしれない。なんせ39歳の子を持つ親だ。年齢もおそらく60代から70代だろう。立ちっぱなしの大変な仕事をまだやっているだろうか。



まずは確認だ。小川はネットで「久保田理容室 青梅」で検索した。ホームページは存在しなかったが、組合か何かの一覧の中に引っかかった。そこは「ヘアーサロンクボタ」だった。住所を見るとおそらくここだ。小川はずっと店名を間違えて記憶していたことに気づいた。


次は電話で直接確認だ。だが、いざアクションを起こそうとすると戸惑いが生じ、そわそわしてきた。




「やっぱやめようかな。緊張するし。それに2週間くらい前に髪切ったばっかなんだよな」



しかしだ。せっかくだ。思い切ってかけてみた。プルルと、電話を発信したときおなじみの音が流れる。


「はい」


年配の男性の声が聞こえてきた。うわっ、出た! やべえどうしよう……ん? 名乗らないぞ?


「あ、もしもし、久保田理容室さんでしょうか?」


あっ、いっけね、ヘアーサロンクボタだった!


「……」


あれ? 違うとこにかけちゃったか。小川は間違い電話をしてしまったかもしれないことへの動揺で、店名の間違いが完全に抜けた。


「すいません、久保田理容室さんじゃなk

「そうです」


食い気味で答えが返ってきた。『か』と打とうとしてkのあとにaを打つ前に返答があった、そんなニュアンスとテンポだ。

久保田さんは、本当はヘアーサロンクボタなのに、久保田理容室なのかと聞かれ、そうですと言ってくれた。確かにほぼ同じ意味ではある。ヘアーサロンクボタを和訳したら久保田理容室だ。


「今日やってます?」

「やってますよ」

「あ、じゃあ、伺うかもしれません」

「はい」

「失礼しまーす」

「はーい」


小川は電話を切った。うおー、やっていたよー。営業している状態が日常である感じだった。現役バリバリっぽかった。




小川はデビューを飾った床屋へ30年ぶりに向かった。最後に切ったのは、青梅市を引っ越す9歳以来だ。







(青梅市から瑞穂町に引っ越し、この学校へ転校。母校を通り過ぎながらヘアーサロンクボタへ向かう車中から撮影)








つづく






















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5月に入って最初の月曜日だった。夕方、小川は仕事を切り上げて帰宅すると、礼服に着替え、黒いネクタイを締めて荷物を黒いカバンに入れ替えた。



一息つく間もなく家をあとにし、足早に駅へと向かった。新宿で京王新線に乗り換え、幡ヶ谷で下車した。昔、隣の笹塚に10年以上住んでいたので、この街もわりとなじみが深い。久しぶりに降り立った幡ヶ谷の街は、幾分か変化していた。


小川はこの街にある斎場へと歩みを進めた。前田家のお通夜が執り行われるエリアへ向かうと、小川は仰天した。



「とんでもない数の人が前健さんとのお別れに来てるなあ」



受付を済ませ、お焼香の列に並ぶため最後尾を目指した。なかなかたどり着けない。前健さんの人柄が偲ばれてならなかった。



小川は若手芸人だった頃、よくライブで前健さんと一緒になった。小川の相方だった川島くんは前健さんのストライクゾーンだったようでよく可愛がってくれた。


いつだったか、お笑いのライブハウスとして活気づき始めたシアターDという劇場が入っているビルのエレベーターに小川、川島くん、前健さんの3人で乗ったときだった。扉が閉まった瞬間に前健さんは川島くんをあっという間にコーナーへ追い詰めるとそのまま川島くんの胸を揉みしだきだした。




「うぅ……」



川島くんは苦渋の表情を見せ、歯を食いしばって先輩からの凌辱に耐えていた。ボクシングをやっていた川島くんなら、前健さんの一人や二人、軽くぶっ飛ばせるはずだ。それでも無抵抗を貫き、体を献上していた。お笑いの世界は厳しいんだなと、小川は二人を眺めながら思った。次は自分の番かもしれない、と小川は体をこわばらせたが、前健さんは小川のことは全然タイプではなく、そういうのはなかった。



その日のさらに12年ほど前、小川が大学を卒業して一年目だったろうか、小川と川島くんのコンビ「耳なり」が所属していた事務所、トゥインクル・コーポレーションが主催した演劇のような舞台が下北沢であった。


芸人がネタを披露する場面があり、トゥインクルの芸人のほかケイダッシュステージからもゲストで何組か来てくれた記憶がある。たしか二日間行われ、一日目のゲストがはなわくんで、二日目のゲストが前健さんだった気がする。


前健さんと耳なりの出演回が同じ日で、出番終わりで前健さんが「お茶しようよ」と誘ってくれた。

前健さんに付いていくとドトールへ入っていった。当時の下北沢にはまだ駅前にドトールがあった。

前健さんは飲み物と一緒にミルクレープを注文した。


このミルクレープ、大好きなんだあ」


そう言っておいしそうに、ちょっとかわいく食べていたのを小川は今でも覚えている。フォークで一口サイズにすくい千切り、口の中へ運んで唇を閉じ、フォークをゆっくり口の外へと滑らす。女性のような味わい方をしていた。

飲み物は何を飲んでいたか覚えていない。おそらく、ミルクティーとかカフェラテとかその辺だろう。川島くんも来たかは覚えていない。が、前健さんの川島くんへの眼差しを考えるとおそらく誘われているはずで、一緒にいたと思う。

何を話したかもまったく覚えていないが、ただ、なんか知んないけど1617年も前のこのミルクレープ大好き発言とおいしそうに食べている姿を小川は覚えていた。



前健さんがブレイクしてからは一緒になる機会が減り、小川と川島くんがコンビを解散するとほとんど会わなくなった。なのでそれほど多くの時間を過ごしたわけではなかったが、前健さんの早すぎる訃報はかなりショックだった。



小川よりも長い時間をともにし、一緒に戦ってきた仲間の方たちの悲しみはいかばかりだろう。



ここ最近は電源席が豊富にあるサンマルクカフェやコメダ珈琲に行くことが多かった小川だが、この日はドトールを選んだ。

レジでミルクレープを注文した。





ドトールのミルクレープを食べるのは久しぶりだ。




「ああ、うめえなあ」



優しかった先輩を思い出しながら、その人が愛した味を噛みしめた。飲み物は、自分が飲みたいものを飲んでいる。



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今日、小川はヒゲを剃った。うん、指触りはなめらかでツルツルして気持ちいい。剃りたてのこの時が、小川が一番美しい状態だ。だが小川が綺麗でいられる時間は短い。生きている以上、ヒゲもまた育っていく。数時間後にはざらつき始め、刻一刻と小汚さへと向かっていく。




ひげを剃るのが面倒くさくて、ついつい伸ばしてしまう。小汚ねえツラをぶらさげて街を歩き、人と会い、時に真面目な話をする。ところがどんなに真摯に生きようと、小汚いヒゲというのは社会不適合者を演出し、日本の足を引っ張っている輩が図々しくも表通りをぶらついているという印象を与え、無駄メシ食ってぐうたら過ごし屁でもこいて寝てんだろと思わせる。普通に過ごしているだけで、低い評価を受けてしまう。あと何をやっても爽やかじゃない。



そりゃあたまには剃る。自分なりに精一杯きれいに剃る。多少の清潔感は出るが、黒々としたその部分が青々となるだけだ。最低でも焼け石に水、最高でも焼け石に水。と言ったところだ。


生やしてもクソ、剃ってもクソだ。ロクなもんじゃない。カビが生えていると揶揄する輩さえいる。



(遊びに来てくれた愛猫家芸人・山本偉地位くんが撮影)




(こちらも山本くんがとらえた一枚)


この2枚の写真も、本来ならもっと微笑ましいはずだ。なのになぜか? 写真としての点数が低い。可愛い子猫の写真であるにも関わらず汚らしい。明らかに減点対象となるものが写っている。それは小川だ。やはり小川の口の周りに生い茂るヒゲが足を引っ張っている。



ヒゲを剃る時間も決して短くはない。小川の場合、10分は見ないといけなく、生涯でヒゲ剃りに割かれる時間は膨大だ。

カミソリやシェービングジェルにかかる費用も、塵も積もればでバカにならない。

面倒くさく、重い腰をあげる必要があるヒゲ剃りは、かなりのストレスを伴う。

すすぎに使う水も限りある資源だ。


ヒゲ脱毛の費用は安くないが、長い目でみたとき、いったいどちらが経済的損失が大きいだろう。

もしかしたらエステに行かないほうが損かもしれない。



だが小川は踏ん切りをつけられなかった。ヒゲが薄くなったら俺が俺でなくなるんじゃないか。これは俺のアイデンティティでもある。あと、手の甲がかゆい時にアゴに生えている無精ひげでかくと気持ちいいし楽なんだよな。



小川は決断できないでいた。


そうこうしているうちに、ヒゲがさっきよりちょっとだけ成長を遂げた


ヒゲを植物と考える見方もあるが、光合成が行われて酸素を作り出せばまだしも、観葉植物としての機能もないどころか周囲を不愉快な気分にいざなうわけで、世の中にとって微塵も役立たない。


遺伝子的に見ると、父から譲り受けた多くの支持者を抱える地盤とも言えるかもしれないが、これだったら手放したい。


小川は今、美への欲求の高まりを感じている。

いざ、ビューティー!

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一年前の44日、小川は待ち合わせの場所で顔に緊張の色を浮かべながら立っていた。小川の顔は緊張の色を浮かべていようが何しようが犬に似ている。犬種でいえばパグ、フレンチブルドッグの系統だ。まるで正体が犬であることがバレないか肝を冷やしているかのようだった。


小川は犬みたいな顔のくせに、これから2匹の猫の里親のご縁をもらうことになっていた。



保健所に収容された子猫をボランティアさんが引き取り、里親を募集していたのを小川が見つけたのがきっかけだ。性別はオスとメスで、母親は違う。オスは生後一週間で、メスは生後2週間だった。

ボランティアさんの家に着き、猫が保護されている部屋へと通された。初めて見る生まれて間もない子猫のあまりの小ささに、小川は面食らった。自力ではとてもじゃないが生きていけない状態を見て、ブルいにブルッた。


(ボランティアさんに抱かれる小町(写真左・メス・生後2週間)と原点(写真右・オス・生後1週間)

「自力で生きろ? バカ言ってんじゃねえ!」と怒っているかのよう。)


部屋を常に暖かい状態にし、ミルクを16回、4時間おきにあげなければならない。排泄も自分ではできないため、お世話しないといけない。生まれたばかりの子猫は体が弱く、病気になりやすいという。乳飲み猫の成長するスピードは人間の16倍だと聞かされた。例えば、ちょっと様子がおかしいなと感じてひと晩様子を見て次の日病院へ連れて行こうとする。これが命取りになる。

1日様子をみることは、この猫たちにとっては16日間放ったらかされたと同じだ。この2匹が生きるも死ぬも小川次第となる。




「俺はとんでもないことをしようとしているのかもしれない……」


帰りの電車、小川は何度も子猫が眠る猫用キャリーバッグの中をのぞいては、

「マジか……」

と緊張した。



「引き取ってきちゃったよ……もうあとには引けねえよう……」



暴風雨レベルの臆病風に吹かれた小川だったが、腹をくくった。
目の前にいるのは運よく生きる道を歩めた奇跡の命だ。
そんな猫たちと縁することができたんだお前は。この2匹に猫をまっとうしてほしい。幸せな一生を送ってほしい。そのお手伝いをお前がさせてもらうんだ。立ち上がれ、犬みたいな顔した者よ!
ここまできて何を迷っているのだ、目ェ離れし者よ! ひげ濃き男よ! 


その日から子猫との楽しき格闘が始まった。



覚悟はしていたが、4時間おきのミルクは戦いだった。お湯を沸かし、適温まで温めてミルクを作る。2匹分だ。それを飲ませ、飲んだミルクの量を記録し、トイレのお世話をする。具体的に何をするのかというと、ティッシュを股間にあてがって揺らすように擦って刺激してあげるのだ。そうするとじんわりと温かくなっていく。猫のおしっこがティッシュにしみわたっていく。トイレのお世話が終わると、体重を計って記録する。そうこうしていると30分くらい過ぎている。

哺乳瓶をきれいに洗って干し、ようやくひとだんらくがつく。



「次は4時間後だから、○○時だな」





あっという間に次がやってくる。4時間後といっても、ミルクの準備もあるうえに、終わったあとの片づけを入れたらあと3時間ちょいしかない。これを16回繰り返す。その間に仕事をし、仮眠を取る。食事をし、風呂に入る、などなど、人間としての日常が組み込まれる。




小川もずっと家に居られるわけではない。

一通りの世話をして打ち合わせに行き、終わって急いで一度帰宅。一通りの世話をやってまた出発して4時間以内に次の打ち合わせを済ませてまた帰宅する。休むまもなく一連の世話をしてまた家を出る。
頭と体は常にボーっとしていた。



約1か月、まともに寝ることがない日々を送ったが、幸せな時間だった。



ミルクを飲んでくれるだけで嬉しく、おしっこやうんちをするとこれまた嬉しかった。手についても汚いと思ったことなど一度もない。1年経った今、ようやく汚ねえなと感じるようになったほどだ。くっせえな、と客観的に嗅げるようになった。




猫との暮らしは小川の家に多くの来客をもたらした。花の都大東京、生まれて間もない乳飲み猫に触れられる機会などそうそうない。猫好きたちが家に遊びに来てくれた。




(猫好き芸人・しろたてるひささんと生後2週間くらいになった原点)


(22歳の頃からお世話になっている先輩・たなべ勝也さん。「ちっちぇー!」を連発)




1年が経ち、今、2匹はパッと見すくすくと育っている。元気に走り回っているから、ちゃんと元気なのだろう。2匹とも仲が良い。




(最近の2匹)



今もなおペロペロしたくなるほど可愛くて仕方のない猫たちだが、これだけはやめてほしいなと思うことが小川にはあった。


メスの小町が、小川の大事にしているものをかじることだ。

ひとつはパソコンのアダプターのコード部分。

危うく噛み千切られそうになったが早めに気づくことができ、ギリギリのところで防げた。

あと猫の自動トイレの本体とコンセントをつなくケーブル。こっちは帰宅するとすでに噛み千切られていて、本体が屍のように電源OFFになっていた。



オスの原点に至っては小川そのものをかじってくる。

甘噛みの域を超え、全力で食いちぎろうとしてくる。成長するにしたがって、あごの力も増していく。

噛んでくる部位がまたやっかいだった。

首筋、アキレス腱。


テレビで野生の動物のドキュメンタリーを見ていたとき、肉食動物が獲物に対して真っ先に噛みついていた部分だ。

そこを攻撃すれば相手の動きを止めることができ、逃げる力をも奪える。あとは自分のペースで食べるだけとなる。


これを飼い主にやってくる。十分にご飯は与えている。しかもわりといいやつをだ。しかし、原点の狩猟本能が彼を突き動かすのだろう。

猫科の動物に眠る恐ろしいまでの忠実な遺伝子に小川は驚いた。

下手したら、寝ている間に原点に噛み殺されている可能性がある。


不思議なもので猫と暮らす日々は、そんな小川の気持ちに変化をもたらせた。

これまでは「噛まれると痛いし嫌だな」だった。今は違う。

俺がもし原点に噛み殺されたりして死に見舞われたら、発見されるまで俺を食べて生き延びてほしい。どうぞ俺を食べてくれ。

そんな心境になった。



小川の最近の関心は、「俺、美味しいかな」「俺、栄養あるかな」だ。

あと「俺、日持ちいいかな」だ。





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