私信(SMAPでなくなること/SMAPがなくなること)
こんばんは。
みなさんに手紙を書くのはこれがはじめてです。
いや、このブログのいくつかの記事は、すでにみなさんへの手紙のようなものだったかもしれません。
でも、こうやって面と向かってみなさんに向かって何かを書くのは、はじめてです。
とか言いながら宛名がないのは失礼ですかね。
まあでも読めばわかると思いますが。
みなさんが解散すると聞きました。
まだ解散していないので気が早いかもしれませんが、とりあえず。
ここまで、本当に、本当にありがとうございます。
みなさんに出会えたことを、心から幸せに思います。
というか実際のところ、これ以外にお伝えしたいことはないのですが、せっかくなので、もう少し続けさせてください。
解散すると聞いてからまだたったの数日ですが、いろいろなことを考えました。
いまとにかく痛感しているのは、
「SMAPがSMAPでいるということは、要するにどういうことだったのか」
という、そもそものところでした。
自分は『SMAP×SMAP』のメンバー対談企画における、中居さんと香取さんの下記のやり取りがいまでも心に残っています。
「どっち考える? 自分がやりたいことをやって、それを観てもらうライブと、自分はこれちょっと違うかも、と思っても、お客さんが求めてるならそれをやろう、っていうライブ」
「(即答)お客さんだね。すべて、見に来てくれる人だね。だって…そのためにやってる感じだから」
何も見ずに書けるほど暗記してしまったこのやり取り。
アイドルという仕事の業の深さを垣間見た気がして、ここからみなさんの仕事を真剣に追うようになりました。
しかし、俺はみなさんのことをなにもわかっていなかった。
そして、自分自身のことも、やはりなにもわかっていなかったのだと、今回思い知らされました。
人間は、見たいものを見ようとし、見たくないものを見ようとしない生きものです。
きれいな花は花瓶に飾り、汚いゴミはゴミ箱へ捨てる。
それは当然のことかもしれません。
アイドルという人気商売を生業としてきたみなさんは、先述の香取さんの言葉通り、わたしを含むファンのために、あらゆる表現を研ぎ澄ませてきてくれたことと思います。
それが、みなさんのなかで
「わたしたちが見たいものを見せること“だけ”に徹する」
という行為と、どれだけ同質なものであったかは、俺にはわかりません。
しかしいま、解散というカードが切られてから、大勢の人から「こんなSMAPが見たい(=こんなSMAPは見たくない)」という欲望が、皮肉にも過去最大級かというほど、とめどなく溢れつづけています。(それは言うまでもなく、俺の中にも起こっていることです)
メンバー内で不仲が原因で分裂したSMAP
事務所内で孤立し、その不和が原因で分裂したSMAP
何年も前から崩壊していたSMAP
自らグループの看板を下ろしたがっていたSMAP
事務所の策略にはめられ解散を余儀なくされたSMAP
マスコミも牛耳られ本当の声を届けられないでいるSMAP
本人の意志とは関係ないのに解散させられる可哀想なSMAP
メンバー間もファンとの間も固い信頼で結ばれているSMAP
これらはすべて、みなさんへの「思い」であることには変わりありません。
みんなそれぞれの中に、それぞれが見たいSMAPがいるのです。
それぞれのSMAPを、“自分の中に”見ているのです。
俺は、SMAPとは、シンプルにみなさん5人(6人)の集合体のことを指すことばだと思っていました。
しかし、それは違いました。
ひとりひとりの心の中にいる「自分が見たいSMAP像」を重ねることで、はじめてSMAPは完成するのだと、いまさら気づきました。
そして言うまでもなくその一端を他でもない俺も担っていたのだということを、よりによってこんなタイミングで気づかされたのでした。
みなさんがSMAPでいつづけてきたということが、どんなに過酷なものだったのか。
自分には想像すらつきません。
みなさんは、ある楽曲でこんなふうに歌っていましたね。
<あなたのために出来る事は 僕が僕であり続ける事>
この歌詞に倣ってというわけではないですが、解散の知らせを知って以来、自分はとにかく心がしっくりくるところを探しています。
これは社会的にとか、道義的にとか、そういうことではなくて、俺個人の心にしっくりくることってなんだろう、つまりはこの件を受けたうえで“俺が俺であること”ってなんなんだろう、ということを、考えてみているのです。
まずはほとんど反射的に、この状況の原因と言われているものたちを憎んでみましたが、これはすぐになんか違うと思ったのと、どうにも疲れてしまい、長続きしませんでした。
つぎにとにかく悲しい気持ちに浸ってみましたが、これもうまくハマりませんでした。
かたちあるものはいつか終わるんだ、と達観してもみましたが、これも背伸びしすぎだったみたいでダメでした。
僕が僕であり続ける事。とても難しいです。
自分のことが、この世界中でいちばんわからないのに。
なので、そのとっかかりとして、いま自分がぼんやり考えているのは、みなさんがいま俺の姿を見たとして、そのときどんな自分でありたいか、ということです。
いま俺は、みなさんのことを想像しています。
いまどんな気持ちでいるのだろう。いまどんなふうに俺のことを見るのだろう。
そのとき想い浮かべているのは、あくまで俺の中にある、俺が見たいSMAPの姿ですが。
勝手な想像をお許し下さい。
俺が思うSMAPは、きっといま、僕らにこんなことを言いたいんじゃないかと、勝手にそう思っています。
「みんな、ひとりしかいない自分を大切に、自分の人生を大切にして、生きていってください」
どうでしょう。意外と遠からずな気もしているのですが。
「またお前らは勝手なことばっか言うなあ」と呆れているでしょうか。
そもそも答え合わせはできないですけどね。
でも、いまに限らず、こんなようなことを、俺はみなさんからさまざまなかたちで受け取ってきた気がしているんです。俺の思うSMAPって、そういうことを心から思っている、そういう人たちなんです。
どうもこの手紙の終わりが見えてきません。
やっぱりまだ全然混乱してるし、やっぱり悲しいし、なんだかよくわからないままに、よくわからないものを書いてしまいました。こんな手紙をもらっても迷惑でしょうね。すみません。
これからの4ヵ月ちょっとのあいだに(あるいはその先もずっと)また書く気がしているので、とりあえず今回はこの辺で。
最後に。俺はSMAPが終わることはないと思っています。
思っているというか、終わりません。終わらないですよ。絶対に。
みなさんが「SMAPでなくなる」ことと、「SMAPがなくなる」ことは、断じて同義ではありません。これは生まれたてのガキでもわかる、めっちゃめちゃ簡単なことです(よね?)。
自分は『愛が止まるまでは』という曲を聴いたときに、SMAPにとっての終わりとは、一体どういうことなんだろう、という疑問を持ちました。
しかし、いま、はっきりと確信できます。
SMAPが解散しても、SMAPは終わらない。終わるはずがない。
そのことはみなさんがいちばんよくわかっているのではないでしょうか。
もしかしたら僕らのほうが、そのことに気づくのが遅いかもしれません。
また手紙を書きます。
お前になんか言われたくねーよと思われるであろうことを承知で言います。
こちらのことは、なにも心配いりません。
明日も、明後日も、どうかお元気で、どうかよい人生を。
そしてこれからも、どうぞよろしく。
みなさんに手紙を書くのはこれがはじめてです。
いや、このブログのいくつかの記事は、すでにみなさんへの手紙のようなものだったかもしれません。
でも、こうやって面と向かってみなさんに向かって何かを書くのは、はじめてです。
とか言いながら宛名がないのは失礼ですかね。
まあでも読めばわかると思いますが。
みなさんが解散すると聞きました。
まだ解散していないので気が早いかもしれませんが、とりあえず。
ここまで、本当に、本当にありがとうございます。
みなさんに出会えたことを、心から幸せに思います。
というか実際のところ、これ以外にお伝えしたいことはないのですが、せっかくなので、もう少し続けさせてください。
解散すると聞いてからまだたったの数日ですが、いろいろなことを考えました。
いまとにかく痛感しているのは、
「SMAPがSMAPでいるということは、要するにどういうことだったのか」
という、そもそものところでした。
自分は『SMAP×SMAP』のメンバー対談企画における、中居さんと香取さんの下記のやり取りがいまでも心に残っています。
「どっち考える? 自分がやりたいことをやって、それを観てもらうライブと、自分はこれちょっと違うかも、と思っても、お客さんが求めてるならそれをやろう、っていうライブ」
「(即答)お客さんだね。すべて、見に来てくれる人だね。だって…そのためにやってる感じだから」
何も見ずに書けるほど暗記してしまったこのやり取り。
アイドルという仕事の業の深さを垣間見た気がして、ここからみなさんの仕事を真剣に追うようになりました。
しかし、俺はみなさんのことをなにもわかっていなかった。
そして、自分自身のことも、やはりなにもわかっていなかったのだと、今回思い知らされました。
人間は、見たいものを見ようとし、見たくないものを見ようとしない生きものです。
きれいな花は花瓶に飾り、汚いゴミはゴミ箱へ捨てる。
それは当然のことかもしれません。
アイドルという人気商売を生業としてきたみなさんは、先述の香取さんの言葉通り、わたしを含むファンのために、あらゆる表現を研ぎ澄ませてきてくれたことと思います。
それが、みなさんのなかで
「わたしたちが見たいものを見せること“だけ”に徹する」
という行為と、どれだけ同質なものであったかは、俺にはわかりません。
しかしいま、解散というカードが切られてから、大勢の人から「こんなSMAPが見たい(=こんなSMAPは見たくない)」という欲望が、皮肉にも過去最大級かというほど、とめどなく溢れつづけています。(それは言うまでもなく、俺の中にも起こっていることです)
メンバー内で不仲が原因で分裂したSMAP
事務所内で孤立し、その不和が原因で分裂したSMAP
何年も前から崩壊していたSMAP
自らグループの看板を下ろしたがっていたSMAP
事務所の策略にはめられ解散を余儀なくされたSMAP
マスコミも牛耳られ本当の声を届けられないでいるSMAP
本人の意志とは関係ないのに解散させられる可哀想なSMAP
メンバー間もファンとの間も固い信頼で結ばれているSMAP
これらはすべて、みなさんへの「思い」であることには変わりありません。
みんなそれぞれの中に、それぞれが見たいSMAPがいるのです。
それぞれのSMAPを、“自分の中に”見ているのです。
俺は、SMAPとは、シンプルにみなさん5人(6人)の集合体のことを指すことばだと思っていました。
しかし、それは違いました。
ひとりひとりの心の中にいる「自分が見たいSMAP像」を重ねることで、はじめてSMAPは完成するのだと、いまさら気づきました。
そして言うまでもなくその一端を他でもない俺も担っていたのだということを、よりによってこんなタイミングで気づかされたのでした。
みなさんがSMAPでいつづけてきたということが、どんなに過酷なものだったのか。
自分には想像すらつきません。
みなさんは、ある楽曲でこんなふうに歌っていましたね。
<あなたのために出来る事は 僕が僕であり続ける事>
この歌詞に倣ってというわけではないですが、解散の知らせを知って以来、自分はとにかく心がしっくりくるところを探しています。
これは社会的にとか、道義的にとか、そういうことではなくて、俺個人の心にしっくりくることってなんだろう、つまりはこの件を受けたうえで“俺が俺であること”ってなんなんだろう、ということを、考えてみているのです。
まずはほとんど反射的に、この状況の原因と言われているものたちを憎んでみましたが、これはすぐになんか違うと思ったのと、どうにも疲れてしまい、長続きしませんでした。
つぎにとにかく悲しい気持ちに浸ってみましたが、これもうまくハマりませんでした。
かたちあるものはいつか終わるんだ、と達観してもみましたが、これも背伸びしすぎだったみたいでダメでした。
僕が僕であり続ける事。とても難しいです。
自分のことが、この世界中でいちばんわからないのに。
なので、そのとっかかりとして、いま自分がぼんやり考えているのは、みなさんがいま俺の姿を見たとして、そのときどんな自分でありたいか、ということです。
いま俺は、みなさんのことを想像しています。
いまどんな気持ちでいるのだろう。いまどんなふうに俺のことを見るのだろう。
そのとき想い浮かべているのは、あくまで俺の中にある、俺が見たいSMAPの姿ですが。
勝手な想像をお許し下さい。
俺が思うSMAPは、きっといま、僕らにこんなことを言いたいんじゃないかと、勝手にそう思っています。
「みんな、ひとりしかいない自分を大切に、自分の人生を大切にして、生きていってください」
どうでしょう。意外と遠からずな気もしているのですが。
「またお前らは勝手なことばっか言うなあ」と呆れているでしょうか。
そもそも答え合わせはできないですけどね。
でも、いまに限らず、こんなようなことを、俺はみなさんからさまざまなかたちで受け取ってきた気がしているんです。俺の思うSMAPって、そういうことを心から思っている、そういう人たちなんです。
どうもこの手紙の終わりが見えてきません。
やっぱりまだ全然混乱してるし、やっぱり悲しいし、なんだかよくわからないままに、よくわからないものを書いてしまいました。こんな手紙をもらっても迷惑でしょうね。すみません。
これからの4ヵ月ちょっとのあいだに(あるいはその先もずっと)また書く気がしているので、とりあえず今回はこの辺で。
最後に。俺はSMAPが終わることはないと思っています。
思っているというか、終わりません。終わらないですよ。絶対に。
みなさんが「SMAPでなくなる」ことと、「SMAPがなくなる」ことは、断じて同義ではありません。これは生まれたてのガキでもわかる、めっちゃめちゃ簡単なことです(よね?)。
自分は『愛が止まるまでは』という曲を聴いたときに、SMAPにとっての終わりとは、一体どういうことなんだろう、という疑問を持ちました。
しかし、いま、はっきりと確信できます。
SMAPが解散しても、SMAPは終わらない。終わるはずがない。
そのことはみなさんがいちばんよくわかっているのではないでしょうか。
もしかしたら僕らのほうが、そのことに気づくのが遅いかもしれません。
また手紙を書きます。
お前になんか言われたくねーよと思われるであろうことを承知で言います。
こちらのことは、なにも心配いりません。
明日も、明後日も、どうかお元気で、どうかよい人生を。
そしてこれからも、どうぞよろしく。