彭麗媛と習近平(続) | Observing China

彭麗媛と習近平(続)

彭麗媛団長率いる人民解放軍総政治部歌舞団が8日、来日した。10日都内で会見したが、彭団長がその場には現れなかったようだ。彭麗媛のいない「木蘭詩篇」なんて、トウガラシを入れないマーボードーフみたいなもの。ということで、今回はネットで見つけた習・彭夫妻の昔の記事を紹介したい。特に習近平が注目される前の文章なので、ディテールに意外な発見もあった。

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記事は1998年刊の雑誌「中国文芸家」に書かれた「彭麗媛と彼女の夫」(筆者・裴佳)。当時、習は福建省党委員会副書記。記事はその10年前、アモイ市副市長だった習と彭の出会いのころから書き起こしている。

「2人の結婚は『玉の輿』と思われがちだったが、実は24歳の彭麗媛は習近平と同等の(幹部行政?)級別の持ち主であり、かつ中国音楽院の特待生でもあった。だが知り合ったときは互いに互いが何者かはよく知らなかった」

習はアモイ市副市長なので、おそらく局長級副職という行政級別だったろう。彭麗媛もすでにこのとき、直轄市以外の大きな市の副市長もしくは、中央官庁の副局長レベルという高い地位にあったということだ。

「彭麗媛の実家は山東省鄆城にあり、父親は知識水準が高く、創作活動もしていた県の文化館長だった。母親は劇団の主要メンバー。彭は小さいころから父母に連れ立って文芸作品の鑑賞に出かけ、芸術に親しんできた」

「彼女の祖父母はともに農村にいたので、毎年学校が冬期休暇になると、彼女は農村の祖父母の家に赴き、農民の生活というものを実体験した。そこで彼女は『黒うどん』『黒饅頭』『黒漬物』といった食事を食べ、親戚の子供たちと畑を耕した。習近平もかつて8年間下放で農村にいたが、そのとき彼は肉というものを口にしたこともなかった。生産大隊に豚肉が回ってきたとき、彼は『肉、肉とはこんなによい香りがするものなのか』と、感嘆したのだという」

彭麗媛は1962年生まれだから、文革開始時に4歳、終了時に14歳だったはず。父親は打倒されていたという話だから、その間は祖父母の家にかくまわれていたのかもしれない。

「結婚して十年来、習近平は彭麗媛に家事をやれと要求したことはない」

おそらく、家事はアーイーさん(笑)がやるのだろう(そりゃそうだ。美空ひばりにトイレ掃除させるようなもんだ)。

■□98年当時に流れた不仲のうわさ□■

「しかし近年、彭麗媛と習近平の間に感情のもつれがあるとうわさされている。本当のところはどうなのか?」

と、記事は突然「女性セブン」みたいな展開を見せ始める。「香港の『文匯報』の記者が彭麗媛に向かってこの件を追及した」(以下一問一答)。

Q:家庭はどうですか?
A:(笑)家庭は円満よ!
Q:うわさ<みたいなこと>はある?
A:ないわ。
Q:あなたの家庭に変化はありませんか?(と、この記者は依然しつこくあきらめない)←職業的美徳だと思うが…
A:(断固たる様子で)そういうのは嘘八百よ!

比較的仲のいい夫婦と思われていたが、98年当時には不仲の噂もあったということらしい。習は福建省の後も浙江省、上海と07年に政治局常務委員に昇格するまで地方勤務が続く。これだけ遠距離生活が続けばさもありなん、という気がするが、実際のところはどうだったのか。

東方早報によれば、10日朝の会見に彭が出なかったのは「北京の天候不順で飛行機が遅れたため」とか。北京は9日夜から10日にかけてまた雪が降った

最初は会見時間が「9日夜」とも伝えられていたから、おそらく彭団長の来日に間に合わせようとして間に合わなかった、ということなのだろう。

雲隠れならぬ「雪隠れ」なのかもしれないが。