アカルイミライ
東京の桜はうすく緑色も混じり、これもまた目にも愉しい風景です。
ご無沙汰しております。
OAUマネ 若松です。
突然ですが、
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、OAUの所属しておりますtactics recordsでは、震災後、様々な支援活動をしてまいりました。
3/16~31
BRAHMAN×VIRGOチャリティーTシャツ受付(前回)
3/17~19
tactics recordsおよび水戸の仲間たちによる北茨城・いわき・高萩への
支援物資の募集と運搬(飲料水は岩手県宮古市へ)
3/21
BRAHMAN
愛知県江南CLUB Rad.onでのLIVEにてチャリティーTシャツ販売
3/22~23
風評被害にあった茨城県産ほうれん草のお裾分け
3/26
BRAHMAN
名古屋Tiny7でのLIVEにてチャリティーTシャツ販売
3/27
BRAHMAN
被災地水戸LIGHT HOUSEでのLIVEおよびチャリティーTシャツ販売
3/29~4/2
避難所に直接物資を届けている札幌のハードコアバンドSLANG KO氏に託すための子供たちへのおやつの募集
4/3
自粛報道をうけ、花見を開催
(被災地笠間市の磯蔵酒造の協力で酒を用意し募金制で飲酒)
4/4~5
上記で募集したおやつのBRAHMANメンバーによる岩手県宮古市への運搬
4/6~31
BRAHMAN×VIRGOチャリティーTシャツ受付(賛同の意思が多く再販中)
4/8
BRAHMAN
新木場STUDIO COASTでのLIVEにてチャリティーTシャツ販売
4/10
BRAHMAN
被災地盛岡Club Change WAVEでのLIVEおよびチャリティーTシャツ販売
そしてBRAHMANでは
4/17 仙台PARK SQUARE
4/29 福島OUTLINE
5/1 いわきclub SONIC
の被災地ライブを予定しています。
この間、MARTINやKAKUEIも個人や他に参加しているバンドで支援活動をしておりました。
次回開催の告知のないNew Acoustic Camp(NOFRAMES、tactics records主催)も、前回開催の仲間の支援活動に協力し活動を行いました。(福島県月舘町と宮城県気仙沼への支援物資を集め運搬する活動を2度実施)
そしてなかなか手を付けられなかったこのブログですが、あの日から1ヵ月が経ち、僕がこれまでの活動のなかで、見て聞いてきたこと、思ったことをちょっとだけ書いてみようと思います。
支援活動の
はじまりは、
TOSHI-LOWがまた無理言って、、、
僕にとっては本当にそんな感じから支援活動が始まりました。
ちゃんと募金してるし、偽善と思われそうだし、なんか不安だな、、、って・・・
しかしすぐに、浦安で被災した義母が、自宅に避難することになり、
東京から近い街でも復旧が進まない、この震災の深刻さを身を持って感じました。
そして叩きつけられた、緊迫した被災地の現状。
自治体が機能せず、燃料が無く、届けられない支援物資、取りに行くことさえできない支援物資
これは、誰かに任せていては遅い・・・
命を繋げる為に
自分たちで決め
とにかく行動しないと、、、
遅い。
いつの間にか、皆がそんな考えになっていました。
そして上記の活動が始まります。
また震災からすぐに、バンドと交流がある被災地の仲間から、震災の体験や現状を対面して聞くことが出来ました。
被害の大きかった海沿いの町は、
父親は海へ漁に出て、母親は海沿いの水産加工場に勤める家族が多い。
子供たちの通う学校は高台に位置し、震災のあった金曜日は登校していました。
そんな日常だった、
3月11日 午後2時46分
津波は海に面した町をためらいも無く、わずか数分でのみ込んでしまいました。
登校していた子供たちの多くは、学校が高台の為、助かったそうです。
しかし、津波は自分の親を流してしまいました。
数時間後に家族の団欒が待っていたはずの、いつもの家がなくなりました。
そして、取り残された多くの子供たちが、避難所に集まって生活を送っていることを知りました。
いま発表されている孤児の数も、これから孤児として法的に認定がされ、もっともっと増えていくのだと思います。
また壊滅的な港町は、復興するまでに30年は掛かるかもしれないという話でした。
その何も無くなった町は
沿岸の地形が変わり
自分の住んでいた場所は海に沈み、土地さえ失った方々もいて
元々経済もうまくまわっていなかった港町では
再びそこに町をつくることさえ、戸惑いの声があると聞きました。
さらに、襲ってくる津波から逃げる様子
以前ライブをした建物も損壊したこと
いつも笑ってて
こころから優しく
BRAHMANが大好きだった僕らの仲間が
津波にさらわれ
いまも見つからないこと
最後まで人が良く、仕事で訪れたお店の方の、津波の心配はないよって、その言葉を信じて、、、
僕はひとつひとつを聞くだけで、掛ける言葉が見つけられませんでした。
被災地で震災を経験し生活されている方との対話は、どうしようもなく胸を圧迫し、
自分たちはこの先、これから訪れる復興の時代を担う世代の人間として、
そう生きていく事になったんだと
自分たちが創り
自分たちが変える時代になったんだと
否応なしに、そう実感しました。
それから震災のお話の中で、自粛の広がりをとても懸念されていました。
案の定、意味のわからない自粛ムードは瞬く間に広がりました。
まぁ、お金を使うってことに限って言えば、買い占めは広がったけど・・・
自粛
加えて、風評被害
想像できる被災地の経済の疲弊
まだ自分の脚で立てる町まで倒れてしまいます。
そして
BRAHMANは被災地へ
現在、3/21に水戸LIGHT HOUSE、4/10には盛岡Club Change WAVEでのライブを終えました。
ライブハウスでは、被災地の方々から励ましの言葉をいただき、逆に元気をもらいに行っているような・・・
前を向いて歩み始めている顔が集まっていたように感じます。
盛岡のライブ後、メンバーはしっかり盛岡で食事をし東京に戻ったのですが、
僕とスタッフ3名は、盛岡から宮古へと向いました。
4/4にBRAHMANメンバーがお菓子の運搬で訪れた街です。
翌日の4月11日
東京から持ってきた支援物資を届ける道の途中では、復興の進まない被災地の現状が次々と目に飛び込んできました。
そして、あの瞬間からまもなく1ヵ月が経とうとした頃
僕たちは大槌町のある橋を通過していました。
すると橋の上には
自衛隊のみなさんが整列されていました。
この背中が物語るように、自衛隊のみなさんの献身な活動には、地元の方々が深い感謝の言葉を口にされていたのがとても印象に残っています。
時計は午後2時44分
すぐに車を停め、僕らも静かに目を閉じました。
4月11日 午後2時46分
壊滅した町にサイレンだけが響きます
まだ復旧も
ほとんど手付かずの街で
あの日から1ヵ月をむかえたことを
僕らの世代に起こった
想像を絶した光景が目の前にあったことを
僕たちは、一生忘れません
そして、子供たちへと、次の世代へも続くであろう復興の力へと、この経験を糧として未来へと繋ぎ、胸を張って伝えられるようになりたいと思います。
そして、いま出来ることを一生懸命全うし、復興に繋げたいと思います。
では3/27に行われた被災地茨城県水戸LIGHT HOUSEでのBRAHMANのライブより
TOSHI-LOWの言葉を借り、今日のブログの最後とさせてください。
何が正しいことか
何が間違ってっかとか
そんなこと
どうでもいいんだよ
俺が今、正しいと思ってんのは
人間として気高く生きる道を
選択するってことだ
ただそれだけ
写真:tactics records official Twitterより
Twitter http://twitter.com/#!/tacticsrecords
Twitpic http://twitpic.com/photos/tacticsrecords
ご無沙汰しております。
OAUマネ 若松です。
突然ですが、
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、OAUの所属しておりますtactics recordsでは、震災後、様々な支援活動をしてまいりました。
3/16~31
BRAHMAN×VIRGOチャリティーTシャツ受付(前回)
3/17~19
tactics recordsおよび水戸の仲間たちによる北茨城・いわき・高萩への
支援物資の募集と運搬(飲料水は岩手県宮古市へ)
3/21
BRAHMAN
愛知県江南CLUB Rad.onでのLIVEにてチャリティーTシャツ販売
3/22~23
風評被害にあった茨城県産ほうれん草のお裾分け
3/26
BRAHMAN
名古屋Tiny7でのLIVEにてチャリティーTシャツ販売
3/27
BRAHMAN
被災地水戸LIGHT HOUSEでのLIVEおよびチャリティーTシャツ販売
3/29~4/2
避難所に直接物資を届けている札幌のハードコアバンドSLANG KO氏に託すための子供たちへのおやつの募集
4/3
自粛報道をうけ、花見を開催
(被災地笠間市の磯蔵酒造の協力で酒を用意し募金制で飲酒)
4/4~5
上記で募集したおやつのBRAHMANメンバーによる岩手県宮古市への運搬
4/6~31
BRAHMAN×VIRGOチャリティーTシャツ受付(賛同の意思が多く再販中)
4/8
BRAHMAN
新木場STUDIO COASTでのLIVEにてチャリティーTシャツ販売
4/10
BRAHMAN
被災地盛岡Club Change WAVEでのLIVEおよびチャリティーTシャツ販売
そしてBRAHMANでは
4/17 仙台PARK SQUARE
4/29 福島OUTLINE
5/1 いわきclub SONIC
の被災地ライブを予定しています。
この間、MARTINやKAKUEIも個人や他に参加しているバンドで支援活動をしておりました。
次回開催の告知のないNew Acoustic Camp(NOFRAMES、tactics records主催)も、前回開催の仲間の支援活動に協力し活動を行いました。(福島県月舘町と宮城県気仙沼への支援物資を集め運搬する活動を2度実施)
そしてなかなか手を付けられなかったこのブログですが、あの日から1ヵ月が経ち、僕がこれまでの活動のなかで、見て聞いてきたこと、思ったことをちょっとだけ書いてみようと思います。
支援活動の
はじまりは、
TOSHI-LOWがまた無理言って、、、
僕にとっては本当にそんな感じから支援活動が始まりました。
ちゃんと募金してるし、偽善と思われそうだし、なんか不安だな、、、って・・・
しかしすぐに、浦安で被災した義母が、自宅に避難することになり、
東京から近い街でも復旧が進まない、この震災の深刻さを身を持って感じました。
そして叩きつけられた、緊迫した被災地の現状。
自治体が機能せず、燃料が無く、届けられない支援物資、取りに行くことさえできない支援物資
これは、誰かに任せていては遅い・・・
命を繋げる為に
自分たちで決め
とにかく行動しないと、、、
遅い。
いつの間にか、皆がそんな考えになっていました。
そして上記の活動が始まります。
また震災からすぐに、バンドと交流がある被災地の仲間から、震災の体験や現状を対面して聞くことが出来ました。
被害の大きかった海沿いの町は、
父親は海へ漁に出て、母親は海沿いの水産加工場に勤める家族が多い。
子供たちの通う学校は高台に位置し、震災のあった金曜日は登校していました。
そんな日常だった、
3月11日 午後2時46分
津波は海に面した町をためらいも無く、わずか数分でのみ込んでしまいました。
登校していた子供たちの多くは、学校が高台の為、助かったそうです。
しかし、津波は自分の親を流してしまいました。
数時間後に家族の団欒が待っていたはずの、いつもの家がなくなりました。
そして、取り残された多くの子供たちが、避難所に集まって生活を送っていることを知りました。
いま発表されている孤児の数も、これから孤児として法的に認定がされ、もっともっと増えていくのだと思います。
また壊滅的な港町は、復興するまでに30年は掛かるかもしれないという話でした。
その何も無くなった町は
沿岸の地形が変わり
自分の住んでいた場所は海に沈み、土地さえ失った方々もいて
元々経済もうまくまわっていなかった港町では
再びそこに町をつくることさえ、戸惑いの声があると聞きました。
さらに、襲ってくる津波から逃げる様子
以前ライブをした建物も損壊したこと
いつも笑ってて
こころから優しく
BRAHMANが大好きだった僕らの仲間が
津波にさらわれ
いまも見つからないこと
最後まで人が良く、仕事で訪れたお店の方の、津波の心配はないよって、その言葉を信じて、、、
僕はひとつひとつを聞くだけで、掛ける言葉が見つけられませんでした。
被災地で震災を経験し生活されている方との対話は、どうしようもなく胸を圧迫し、
自分たちはこの先、これから訪れる復興の時代を担う世代の人間として、
そう生きていく事になったんだと
自分たちが創り
自分たちが変える時代になったんだと
否応なしに、そう実感しました。
それから震災のお話の中で、自粛の広がりをとても懸念されていました。
案の定、意味のわからない自粛ムードは瞬く間に広がりました。
まぁ、お金を使うってことに限って言えば、買い占めは広がったけど・・・
自粛
加えて、風評被害
想像できる被災地の経済の疲弊
まだ自分の脚で立てる町まで倒れてしまいます。
そして
BRAHMANは被災地へ
現在、3/21に水戸LIGHT HOUSE、4/10には盛岡Club Change WAVEでのライブを終えました。
ライブハウスでは、被災地の方々から励ましの言葉をいただき、逆に元気をもらいに行っているような・・・
前を向いて歩み始めている顔が集まっていたように感じます。
盛岡のライブ後、メンバーはしっかり盛岡で食事をし東京に戻ったのですが、
僕とスタッフ3名は、盛岡から宮古へと向いました。
4/4にBRAHMANメンバーがお菓子の運搬で訪れた街です。
翌日の4月11日
東京から持ってきた支援物資を届ける道の途中では、復興の進まない被災地の現状が次々と目に飛び込んできました。
そして、あの瞬間からまもなく1ヵ月が経とうとした頃
僕たちは大槌町のある橋を通過していました。
すると橋の上には
自衛隊のみなさんが整列されていました。
この背中が物語るように、自衛隊のみなさんの献身な活動には、地元の方々が深い感謝の言葉を口にされていたのがとても印象に残っています。
時計は午後2時44分
すぐに車を停め、僕らも静かに目を閉じました。
4月11日 午後2時46分
壊滅した町にサイレンだけが響きます
まだ復旧も
ほとんど手付かずの街で
あの日から1ヵ月をむかえたことを
僕らの世代に起こった
想像を絶した光景が目の前にあったことを
僕たちは、一生忘れません
そして、子供たちへと、次の世代へも続くであろう復興の力へと、この経験を糧として未来へと繋ぎ、胸を張って伝えられるようになりたいと思います。
そして、いま出来ることを一生懸命全うし、復興に繋げたいと思います。
では3/27に行われた被災地茨城県水戸LIGHT HOUSEでのBRAHMANのライブより
TOSHI-LOWの言葉を借り、今日のブログの最後とさせてください。
何が正しいことか
何が間違ってっかとか
そんなこと
どうでもいいんだよ
俺が今、正しいと思ってんのは
人間として気高く生きる道を
選択するってことだ
ただそれだけ
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