奥羽本線全駅間歩き1(福島-米沢) その2・山道抜けて大平集落へ | 駅から駅まで・旅のあしあと

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鉄道路線全ての駅間を歩く全駅間歩きを10年以上続けています。
今は東海~北海道エリアを歩いていますが、目指すは全国全路線全区間踏破!
そんな壮大な目標、たぶん一生レベルでかかるので、長い目で見守っていただけるとうれしいです。
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その1からの続き

 

-庭坂(10:00発)-奥松川橋(10:35)富内集落(10:55)大平集落入口(12:01)-赤岩(12:27着)-

 

 

 

庭坂駅のホームです。

こちらもホームが半分以上リストラされていました。

 

駅舎と普通列車が発着するホームを結ぶ跨線橋は、

そのまま駅の北側まで結ばれ、近隣住民が自由通路のように使用していました。

山形新幹線開業以前は、この跨線橋は駅の北側まで繋がっていなかったようですが、

無人駅となった後に延長されたようです。

 

 

 

跨線橋から米沢方面を撮ってみました。

奥羽本線開業当時、庭坂駅は板谷峠越えの要衝で、

広い構内には峠を越えるための機関車が多数配置されていたそうです。

長く延びたホームからも往時の様子が偲ばれます。

 

列車はここから、連続33‰・最大38‰の山登りが待っています。

いわゆる「板谷峠越え」の始まりです。

 

 

 

駅間歩きへ向かう前に、板谷街道の庭坂宿に寄り道しました。

宿場の趣漂う街の中心部には枡形も配置されていました。

 

 

 

宿場街を抜け、駅間歩きを再開しました。

板谷街道は東の山に向かって続いていますが、こちらはしばし北へ向かいました。

 

遠くに庭坂の大カーブが写ってるんですけど、

これだとちょっとわかりにくいですね。

 

 

 

果樹園の中をさらに進みました。

 

 

 

松川が見えてきました。

線路はこの谷の奥へと続いています。

もちろん、次の駅もこの谷の奥にあります。

 

 

まもなく山道が始まります。

 

 

 

広域農道を左に折れ、果樹園の中に入りました。

平坦だった道は一転、扇状地を登る坂道に変わりました。

私道臭すら漂う道で、勝手に入って怒られないか正直冷や冷やでした。

 

しばらく進んだところで、農作業中の方から

「この道は行き止まりだぞ。左の道行けば先に進めるぞ。」と声をかけられました。

正直安心したとともに、この方は自分の意図が分かってるような気がしました。

庭坂駅から赤岩駅まで歩く人って、案外いるんですかねぇ。

 

 

 

しばらく登ったところで振り返ると、福島市街が一望できました。

 

 

 

庭坂側最後の集落、富内・高地集落にさしかかりました。

 

 

 

集落を抜けると、長い山道が始まりました。

 

 

 

山道を進むこと20分あまり。

振り返ると、こんな景色が広がっていました。

 

 

 

松川の対岸に線路が見えました。

 

 

 

曲がりくねった山道はなおも続きました。

車の行き来はほとんどありませんでしたが、忘れた頃に車は来るもので。

 

 

 

富内・高地集落を出てまるっと1時間。

歩いてきた山道が三叉路に突き当たりました。

交差点の中央には、赤岩駅への小さな道しるべが立っていました。

 

 

 

道しるべに従って進むと、民家が何軒か見えてきました。

しかし、家の前に車が止められている1軒の民家を除いて、

人が住んでいる気配はありませんでした。

 

ここが大平集落です。

今歩いている道は、集落のセンターストリートです。

 

 

2004年2月28日の朝日新聞(福島版)によると、

この大平集落は終戦の年に開かれた集落だそうです。

政府は、終戦直後から海外からの引揚者や疎開者などで集団帰農を希望する人に

開拓地を割り当て、土地や住居、訓練などの諸経費を補助しました。

2015年5月5日の朝日新聞(中通り・会津版)によると、

大平集落にも終戦直後に食糧増産のために72人の開拓団が入植したそうです。

開拓団は、集落周辺にうっそうと茂る山の木々を切り倒し、畑を開き、

やがて地面が牧草で覆われると、酪農を始めたそうです。

 

開拓が進む様子は空中写真にも残されており、

1947年米軍撮影の空中写真(国土地理院HP内)には、

開拓途上の大平集落の様子が写されています。

 

福島市史の資料編によると、

1963年当時、大平集落には45戸の民家が存在し、

2.5haの水田と70.2haの畑(牧草地含む)があったそうです。

集落内の農業形態は畑作と酪農の混合と記されており、先の記事を裏付けています。

酪農中心という農業形態は、ここに限らず、

福島市内の開拓集落全般に当てはまっていたそうです。

 

2015年の朝日新聞の記事によれば、

最大で60戸を越えた大平集落も、1970年頃から人口の流出がはじまり、

現在、集落には3世帯5人が残るのみとなってしまったそうです。

1971年度をもって政府の開拓政策が打ち切られたのも、

ひとつの転換点だったのかもしれません。

 

 

 

今では雑草が生えるばかりの空き地ですが、

かつては牧草が覆い繁り、牛が昼寝していたのかもしれません。

 

 

 

センターストリート沿いも廃屋が目立っていました。

 

 

 

集落の南端には、大笹生小学校大平分校の跡地がありました。

福島市史の資料編によると、1949年初頭に大平分校校舎の建設が行われたそうです。

建設時期から推測する限り、大平分校は1949年4月に開校したと考えられます。

 

大平集落の成長を見守り続けた大平分校でしたが、

1970年3月をもって閉校してしまったそうです。

 

しばらくは木造平屋建の校舎が残っていたようですが、

近年取り壊されてしまい、現在は校庭が残るのみとなっています。

跡地を示す碑すら見当たらなかったのが、ちょっと寂しい…。

 

 

 

大平集落を後にして、赤岩駅へ向かいました。

 

赤岩駅は、谷の中腹にあります。

大平分校の跡地を過ぎると、駅へ向かって急な下り坂が始まりました。

道路は未舗装。車も一応通れるようですが、道は荒れ気味です。

 

 

 

眼下に線路が見えてきました。

目指す赤岩駅まで、あと少しです。

 

 

その3へ続く

 

 

庭坂駅から赤岩駅までのGPSログです(1/60,000)。

庭坂から富内・高地集落(烏帽子ヶ岳の南南東)までのルートはいくつかありますが、

富内集落から赤岩駅までのルートは、事実上この1本に限られます。