茨木・千提寺 隠れキリシタンと「ザビエル像」の発見 | 落人の夜話

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私の住む北摂地域にも、なんと隠れキリシタンの里があった…
そんな話を知りました。

高槻市や茨木市の周辺は戦国期、キリシタン大名として有名な高山右近が治めていた地域。
布教に熱心な高山右近の影響で、領内には20を超える教会が建てられていたと言われる土地柄ですから、なるほどなぁ…と軽く感心しながら何となく情報を集めていた私の目に飛びこんだのが、この画像↓


そう。
学校の教科書で必ず出てくるといってもいい、『フランシスコ・ザビエル像』(重文)。
おそらく戦国期に狩野派の絵師が描いたといわれるこの画像、現在は神戸市立博物館に保管されていますが、発見されたのはずいぶん時代が下って大正時代。
茨木市の千提寺という地域にある民家(東家)の梁にくくりつけられていた「あけずの櫃」に収められて代々厳重に封印されていたのを、この地の寺の住職・藤波大超氏によって世に出されたそうです。

「あけずの櫃」…
なんて謎めいた、好奇心に突き刺さる言葉でしょう。
ちなみにこの櫃、藤波氏が東家の戸主の承諾を得て開けようとしたところ、当時存命していた戸主の祖母(東イマさん)が強く反対したそうです。

―開けてくれるな、開けたら祟りがある。お縄にかかるかもしれない…

幕末生まれのイマさんには、まだ禁教時代の意識が強く残っていたのかも知れません。
ともかくもイマさんをなだめて開けさせてもらったところ、出てきたのが多数のキリシタン関係遺物。その中に、上記の画像も含まれていました。

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休日の朝、予定外の早起きをしてしまったのを幸い、千提寺の集落まで車をとばしてみました。

 

「あけずの櫃」が発見された東家の向かいにある、茨木市立キリシタン遺物史料館を訪問してみました。
右がそこに展示されている「あけずの櫃」。梁にくくりつけられていただけあって、細長いものだったのですね。

市立とはいえ運営は住民にゆだねられているようで、私が訪れたときも「隠れキリシタン」の子孫にあたる方が当番されていました。展示物もさることながら、この方に伺える話がとても興味深い。
また、希望すれば見せてくれる紹介DVDには「最後の隠れキリシタン」となった3人の老婆にまつわる話も収録されていて、これは必見です。

DVDには「最後の隠れキリシタン」こと東イマさん・中谷イトさん・中谷ミワさん3人によるオラショ(隠れキリシタンが唱える呪文化した祈祷文)の再現もありますが、これはきわめて貴重な映像でしょう。
なぜなら現在、この地域ではキリスト教を信仰する住民がいないとのことで、よって教会もなく、この地域で密かに伝えられたキリスト教信仰はすでに消滅しているからです。

禁教が解かれたのに教えが滅びる、というのはなんとも奇妙な気もするのですが、考えてみればさほど不自然な話ではないかも知れません。

隠れキリシタン信仰とは、禁教令によって日本に取り残され、世を忍ぶことになった信者たちによってずいぶん土俗化(=日本化)された信仰形態ですから、当然ヨーロッパの“正統”なキリスト教から見れば異なる形式がたくさんあります。
本来キリスト教は異なる形式(=異端)にたいへん厳しい態度で臨む宗教ですから、明治以後に再び入ってきた“正統”なキリスト教はこれを“正しい教え”にたち戻そうとします。それに服する隠れキリシタンもいたでしょう。

しかし、日本人は「つくり変へる力」(by芥川龍之介)をもつ民族でもあります。世間には本質をひた隠しにしつつ、長い時間のなかで日本化された信仰形態のなかにこそ心の安住を求めていた人々もいたでしょう。それらの人々にとっては、“正しい教え”の名のもとに、代々伝えられた儀式や習俗を次々と否定されることに困惑、いや、もっと言えばたいへんな苦痛を感じたであろうことは想像に難くありません。
そういえば長崎や天草においても、“正統”の教会に属することを拒み、独自の信仰形態を継続した元・隠れキリシタンたちがいた事実も、この想像を補足する材料になるでしょう。
“正統”に戻ることを良しとしなかった隠れキリシタンたちが目指したものは、もはや救いや布教などではなく、おのれの代を最後として先祖の道に殉じる覚悟だったような気がしてなりません。

上記の東イマさんの孫にあたる、東ユタさんの話。
東イマさんは、

―踏み絵をやらされたとき、絵を踏むのはもったいないもんだから、(絵の手前で)わざとコケて這って進んだ。それでも許してもらえた…

と言っていたそうです。
また、他の方の話では、

―明治までは、この地域で葬式があると高槻から検使の役人が来た。キリシタン的なものがないかどうか確認するために。でも、村のみんなでご馳走食べさせたりして接待して、役人もさほど厳しく調べずに帰ってゆくことがほとんどだった。役人も何となくわかってはいたのではないか…

これらの話から思うのは、実は役人たちはこの地域が「隠れキリシタンの里」であることを内心把握していたのではないか、という疑念です。
役人たちにとっても、日ごろの生活状況をよく知る住民に関しては、「禁教」の建前は大事にしつつも、出来るかぎり法の適用をゆるやかにしていたのかも知れません。
これを日本的な「なぁなぁの関係」と見ることもできるでしょうし、日本的な「寛容さ」ととらえることもできるでしょう。ただ、これらはいずれもまったくキリスト教的ではない、というところに、やはりキリスト教と隠れキリシタンの距離感をみる思いがします。

史料館を出て、集落を散歩してみました。

 

左は「クルス山」。隠れキリシタンの墓碑が発見された場所です。
ぐるりと視線を右にまわすと、なんだか大規模な工事が進んでいます。
ここは新名神高速道の予定地になっていて、あのクルス山ももうすぐ高速道路の下になってしまうのだそうです…


江戸から大正にいたるまで、約300年間。
私たちの祖父母が生きた時代まで、この地に確かに存在していた「隠れキリシタン信仰」はもう失われてしまいましたが、そのような民俗文化があったことは、長く語り伝えられるべきもののように思えてなりません。

はっ!
そういえば、このすぐ近くにある佐保栗栖山(さほクルスやま)砦も、キリシタン関連の場所なのでは…と思いついて行ってみましたが、すごい藪に阻まれてやめました(-"-;A
今度はちゃんと準備して…


訪れたところ
【キリシタン遺物史料館】茨木市大字千提寺262
【佐保栗栖山砦】茨木市大字佐保