→ウドの話 11.05.14
以前に、かつて京野菜の1つである京みょうが栽培されていた
京都市伏見区の桃山町新町という地域を紹介しましたが、
その桃山町新町は同じく京野菜の1つである京うどの生産地でもあります。
京うどは桃山うどとも呼ばれます。
→京みょうが発祥の地を巡る 11.04.14
京都でのウドの栽培は、亀岡市でも行われています。
亀岡のうどが促成栽培され、
2~3月に藁でつくったむしろの中で軟白栽培され出荷されるのに対し、
桃山では春になってから露地で栽培され、
4月下旬~5月上旬にかけて出荷されます。
富有柿のように平べったい形ではなく、
干し柿用の鶴の子柿みたいな卵形に近いけれども、
鶴の子よりかは大きい久保柿。
桃山のウド畑は、
丘陵地の傾斜に広がる樹齢100年を越すとも言われる久保柿の木の下にあり、
その下地を利用して行われていました。
夏は木陰で涼しくウドの休眠を助け、
冬は落ち葉で太陽がよく当たって土が温められるのだそうです。
丘陵地の坂の上より / 11.03.28 撮影
現在は開発され宅地化された丘陵地一帯ですが、
明治期は、丘陵地一帯が柿の木の林となっていて、
その下にはウドの花が咲く風景が見られたそうです。
哲学者の和辻哲郎は、
大正7(1918)年5月に著書の「大和古寺巡礼」で、
京都から奈良へ来る汽車は、随分きたなくガタガタゆれて不愉快なものだが、
沿線の景色はそれを償うて余りがある。
桃山から宇治あたりの、竹藪や茶畑や柿の木の多い、あのゆるやかな斜面は、
いかにも平和ないい気分を持っている。
柿の木はもう若葉につつまれて、ギクギクしたあの骨組みを見せてはいなかったが、
麦畑の中に大きく枝を広げて並び立っている具合はなかなか他では見られない。
と述べています。
現在の沿線の景色は、その時代に比べて随分と変わってしまいましたが、
よくよく眺めてみると所々に昔の名残が感じられます。
YouTube:11.11.13 JR奈良線 六地蔵~桃山間車窓 (山側)
0:16~0:47
北西側の車窓の向こう側に見える丘陵地帯の住宅地は、
かつては柿の木の林となっていてウド畑になっていました。
0:56~1:12
北側車窓は山になりますが、その合間に農地が現れます。
この辺りが現在もわずかながらウド畑が残る桃山町新町で、
0:11で現れる柿の木は、かつて広がっていた久保柿の林の名残と思われます。
現在の奈良線の主力車両103系電車(京都駅にて)/ 11.06.21 撮影
しかし、変わらないものもあるようで、
『京都から奈良へ来る汽車は、随分きたなくガタガタゆれて不愉快なもの』
とありますが、
汽車から電車に変わった現在もその点は変わらないようです。
現在の奈良線の主力車両である103系電車は国鉄時代からのもので、
走行中はガタガタゆれますし、
冬場は窓や扉の隙間から冷気が侵入し、暖房効果を阻害します。
ちなみに夏場の乗務員室はとても暑いらしく、
労働環境としても不愉快なものらしいです。
京うどの品種には
江戸町早生、與左右衛門、節赤、庄兵衛白、桑名屋、舞子、半左
と呼ばれるものがあります。
京うどは、親株を3月に植えつけ、1年間畑で株の養成を行います。
翌年の3月下旬、地下部が枯れたその株に盛り土をし、軟白栽培を行います。
植えつけた株は、5年くらいその場所で栽培が続けられます。
これは、江戸時代から続けられる伝統的な栽培法で、
品種もこれに向くような品種が選ばれ改良されてきました。
現在では合理的に作業を行う為、
軟白させることと、盛り土が雨で崩れないようにするため、
トタン板で囲って稲わらを乗せる方法が行われています。
■参照および引用した資料
・「歳時記 京の伝統野菜と旬野菜」
髙嶋四郎・編著 トンボ出版
・「京都の伝統野菜」
田中大三・文 宮本進/湯浅哲夫・写真 誠文堂新光社
・「現代にいきづく 京の伝統野菜」
菊池昌治・著 誠文堂新光社