瞑想猫のブログ(主の遺言を地に落さないために)

2007.5.4 天宙新文明開闢 大阪大会当日(お母様と三男・顯進様 )

瞑想猫(にゃんこ先生改め)のブログ-2007.9.23.1

2007.9.23 UPFがアベルUNとして本格出発した式典(父母様と顯進様)

 

BGM 2005年ショパンコンクール本選の模様

 

私がこの道に伝道されたのは、1984年12月7日。私は20歳の時でした。今日で39周年になります。東京都大田区で出会いました。霊の親は、当時25歳だった、M.Sさんです。夏目雅子、中山美穂に似た眩しい方でした。

ビデオセンターでの学習も総序、創造原理から始まって、トントン拍子で進んでいきました。

その裏で、私の父のお兄さんの長男の方(K.Mさん、私の実家から200mしか離れていない親戚)が大変な状況になってゆきます。私(長男)が伝道されて、4日後目頃に体調を崩し、意識も次第に無くなってゆき、ついに21日後の12月28日に原因不明の病により、亡くなられてしまったのです。29歳の若さでした。

今になって想えば、私が神のみ旨の道に導かれ、真理の光を浴びたことの蕩減、『供え物』として天に召されたと確信しています。その当時は、何も解らず、悲しみに沈みました。後日、『なんでそこまで酷いことをするんだ!そこまでしなくていいんじゃないか!』と、あまりにも重い蕩減に天を呪いました。供え物になった方の霊界は高いというビデオセンタースタッフの声が唯一の救いでした。

このような出来事により、この神様のみ旨は、天・先祖が切実に願う道『本物の道』であると次第に確信してゆきました。そして、霊界の実相はどういうものなのかということを関心をもってビデオ学習・文先生の御言などを通して学んでゆきました。

神様と人間は親子の関係、従って、神様が永存される方ならば、子である私たちも永生するように創造されているはずです。

 

文鮮明先生の永生に関する御言

霊界に行けば良心が霊界での体のようになりその体に対する良心の立場に神様が現れるのです自分の良心は神様の体になるのです。皆さんが神秘的な世界に入って、「神様、どこにいらっしゃいますか」と言えば、自分の中から「ここだ、ここだ」と言うのです。人々はそのような体験を多くします。それで、人間はすなわち天だという話が出てくるのです。(250-156 天聖経 p915)

 

人間の生と霊魂の世界

二 死に対する正しい理解 6.祝福によって永生の道が開かれる 
① 最も重要なことは永生問題

神様は人をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対唯一の価値をもつことができる愛の対象者として造ったというのです。これは驚くべき事実です。神様の前では宇宙を与えても取り替えることができない高貴な価値、愛の相対圏を備えて男性を造り女性を造ったという驚くべき事実、それは素敵でしょう。             
 私たち人間は、神様が造られた創造的な傑作品として神様に似て生まれたというのです。神様が永遠であられるので、私たちも永遠な性稟をもたなければならないために、私たちの心は老いないというのです。それゆえに、人は永生しなければならない、永生してこそ、その傑作品の存在的価値をもつことができるというのです。

 人々は誰彼を問わず最高を願っています。人間が最高の位置に行くようになれば、神様は私のものであり、また私は神様のものなのです。

そして、そのようになれば私は神様の息子になって、神様御自身にもなるので、宇宙は誰のものになるのですか。神様が最も愛して、最も貴く思う物があるならば、それを一日、あるいは十年や百年ぐらい共に過ごしたのちにほうり投げるようにつくったのでしょうか。永遠に共にいるようにつくられたのです。人も同じです。人は永生しなければならないのです。なぜでしょうか。絶対者、神様が絶対的な愛を中心として喜ぶことができる対象であるためです。             
 神様が永生なさる絶対者ならば、その方が愛することのできる対象も永生しなければなりません。それで、人々は古くから永生することを願うのです。これをはっきり知らなければなりません。それゆえに、絶対者である神様は永生する価値をもった愛する息子、娘を求めざるを得ないというのです。

 

 人は愛で生まれ、愛で大きくなり、愛で生きて、愛で死にます。ところが、そのままなくなるのではないのです。神様、主体であられるその方が永遠、不変、唯一なので、その前に対象的愛の位置に立つようになる時は永生するのです。永生という理論がここから生じるのです。生命から始まるのではないのです。             

 神様が愛のゆえに人間を造ったとするならば、永遠であられる神様、絶対的な神様、永生する神様であるために、愛に一致した人間自体は永生を備えている、ということは自然的な論理です。それゆえに永生しようとするなら、その真の愛圏内に生きなければなりません。

 「私たちは、永遠であり得る! 永生を願う!」。永生を願う時に変わらないのは何ですか。愛です! このようになるのです。ほかのものはみな変わります。環境的に変わるのです。それでは、愛はなぜ変わらないのでしょうか。愛は、すべての生命力の中心であるがゆえに変わらないのです。愛がなぜ変わらないのでしょうか。愛は理想的な要件の中心の位置を占めるからです。中心は、その周囲がすべてなくなる前には、なくならないというのです。愛は宇宙の中心になっているために愛と一つになることによって、その愛は神様を中心とした愛と一致しているために、神様がいらっしゃる限り残っているというのです。

 

自分の体と心の完成とは、真の愛に属することにより根本的に可能になっています。無限の根本、原因から過程、それから理想の結実を結ぶのは愛しかありません。真の愛しかないのです。真の愛によって、真の愛を中心として神様も永存しています神様が永存するのは何を中心として永存しますか。永生は愛によって連結されるのです。それで、永生の環境をなすには愛の環境を中心として生活しなければならないのです。愛の実体圏をもつには、愛を中心として実体的な体恤をしなければならないのです。             

 「どのように永生するか」と尋ねれば、皆さんはどのように答えますか。
愛によってのみ救いを受けるのです。
神様の創造原則の本質的原則から見るときに、真の人だけが神様の愛の同伴者であるので、真の愛をもてば永遠に生きるようになっていますその愛の圏内に入っていれば、霊界や地上で生きるときに、自分がどこに行って生きるべきか、すべて見ながら生きるのです。

 

人間の生と霊魂の世界
2-二 天国と地獄 1.天国は愛の理想の世界

 天国は、愛の世界であり、中心者である神様のためにある世界、神様のために生きる世界です。

 天国とは、どのような所ですか。神様の愛が中心になっている所です。神様の愛を中心とした環境圏を設定した所が天国です。それでは、その圏に行ってとどまる人は、どんな人でなければならないのでしょうか。神様の愛の本質と和合できる人にならなければなりません。そのような人以外には行くことはできません。

 

 天国とはどのような世界かといえば、神様の愛の世界です。愛の空気を吸う世界です。そこには生命がぎっしり詰まっています。どこに行っても生命が躍動しない所がありません。そして、すべて血縁的な因縁によって結ばれています。神様の一つの血筋であるがゆえに、神様が悲しむそのような何かがあれば、全霊界が一つの細胞のように、一つの体のように悲しみを感じるのです。また、神様が喜べばすべてが喜ぶのです。そのような世界です。それで、神様の愛が膨大な大天国を動かしているのです。


 天国という所は、心情を通さずには行くことができない所です。天国は全体を主管できる本然の国であり、本性の国だというのです。その国は、いかなる事情をもってしても所有できません。深くしみ入る心情の因縁を備えてこそ所有できる国です。それゆえに、キリスト教は究極的に事情を通す教会ではなく、心情を通す教会です。事情の因縁を越えて心情を謳うことのできる基盤を築くのに、地に対して摂理なさる天の目的があるというのです。

 

 天国に入っていける人とはどのような人ですか。まず神様の心に合う人にならなければなりません。どれくらい合わなければならないのでしょうか。神様が永遠な目的を中心として永遠な理想を描いていく方なら、永遠に心が合わなければなりません。十年ぐらい合わせて途中で合わなくなれば駄目です。永遠であられる神様に、永遠に心を合わせなければなりません。そのようにしようとすれば、どのようにしなければなりませんか。永遠にお互いに喜べる息子にならなければなりません。そのような息子になろうとするなら、悲しみの対象として現れてはなりません。

 

 人間を中心とした真の愛、それが絶対価値の花です。神様がなぜ生きているかといえば、真の愛ゆえに生まれ、真の愛ゆえに生きるのです。人もなぜ生まれ、なぜ生きているかといえば、真の愛ゆえに生まれ、真の愛ゆえに生きるというのです。そのような時は神様も不平なく、人も不平なく宇宙の花のように咲いて香りが漂うというのです。真の愛をセンターとして両側が一つになるのです。右側も左側も「万歳!」、両手を挙げて「万歳!」、真の人も「万歳!」、霊界も見下ろして「万歳!」、こちらもあの上も「万歳!」と言うのです。すべて一つになって香りが漂うのに酔って ……。

 

 天国に行く道は、兄弟を神様のように愛することから開かれます。皆さんは先生に従って行こうとするのですが、その心で兄弟を伴って一緒に行こうと努力しなければなりません。天国に最も高く、早く、良く導く者は、神様でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論を下すことができます。


 天国に行こうとするなら、罪を犯さず、神様の愛を直接受けることができ、救い主が必要ないという息子、娘の資格を獲得し得る過程を経なければなりません。そのように生きた人間が天国に行ってこそ、神様の理想天国が成されます。


 天国という概念は、サタンを克服した位置で、サタンが相対できる一切の要因を否定した位置で、否定するだけでなく清算した位置で成立できます。サタンの否定的条件が残っている歴史的な遺物や生活のすべての内容を否定して清算した土台の上で天国が肯定できるのであって、それを残しては天国の内容を提示できません。

 

 天国とは、どのような世界でしょうか。一人がうまくいくことは、全体を代表してうまくいくことです。また、一人が喜ぶことは全体の代わりに喜ぶことなので、一人が喜べば全体が喜ぶのであり、一人がうれしがれば全体が共に喜ぶ所が天国なのです。

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最後に

1999年3月に天使長が屈服したとしても、今の紛争渦巻く世界を見れば、カイン圏が完全に屈服されたと言うことはできません。

本当の天国人なら、神様の御心を実感しているだけに、地獄に人が残っていれば、その人を残して入るのは忍びないと思うはずです。本当の天国人は、全ての人を天国に連れて行って、一番最後に行こうと意識して実践する人でしょう。地獄の中で悶えている人が残っている中で、先に天国に行った者だけが神様と共に喜び憩いのときを心から満喫できるでしょうか?1匹の迷い出た子羊のために、他の99匹よりも一匹のために強い意識を持たれる神様の親心の意味は、即ち地獄にいる人々の解放ということでしょう。ですから、天国は全ての世界が天国に転換された瞬間に、初めて劇的に成されて完成するという図式!

 

天国が高貴なものであると主がおっしゃられたのは、全てを等しく平等に愛そうとされる高貴な神様が願われた本然の国だからこそという意味でしょう。地獄に人が残っているままの中途半端な天国は、高貴という言葉が似合わない。

神様は心情的地獄の中でも復帰原理を通して確信を持って法度を守られてこられたのですから、天国の価値はそれほどに高いことは間違いありません。カイン圏を愛して自然屈服に導くこと、これこそが地獄の人々を天国に連れていくことであり、地獄を解放する唯一の方法なのです。
中間霊界も、それで引き上げられてゆきます。したがって、天国建設の鍵は、基点となる天国人とされる人々(アベル側の人々)が、神様の愛と赦しの心といつも一体となった本物の天国人の群れであるかどうかに掛かっているという結論になります。

 

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