毛皮のマリー 2009 4月11日マチネ
作/寺山修司
演出・美術・主演/美輪明宏
出演/吉村卓也 麿赤兒 若松武史 菊池隆則 日野利彦 マメ山田 江上真悟 倉持一裕 他
ル テアトル銀座
寺山修司が美輪さんのために書き下ろしたこの作品、
本は知っていたけれど実際の舞台を見るのは初めてでした
美輪さんが主演されているときに見ておかないと意味が薄れてしまうと思うので
今回でラストとの噂を聞き(前回もそうだったようですが)
チケットをあわてて確保
いつかは見なければと思いつつ、
でもきっと見たら、いろいろ批判をしてしまいそうで怖かった
作品のテーマそのものは大好きだけれど、戯曲を読むかぎり、あまりに踏み込んでいない感じが……。というか踏み込み方が好みではなく、純文学風エンターテインメントという位置づけそのものも・・・むむむという感じで。
寺山修司を読むことで、他の作家たちの偉大さを確認するという皮肉めいたやり方でしかこの人の作品と接していないので……
だけど無視できないのは、きっとテーマ選びの秀逸さなのかなぁと。
テーマが秀逸なだけに、その視点のよさはすばらしいのに、
展開と落としどころがあまりにもありふれたところに毎回いくから、
いつも歯がゆい思いをして、その思いが接するたびに溢れてしまう作家です。
この人の作品に触れると、なぜかマイナスのアプローチではありますが、
自分の感覚が敏感になるので、(同じことが太宰とかにも言えるけれど)
何か心に変化をつけたいときに、嫌いなのに接してしまうという
かなり偏屈なつきあい方をしてしまいます
ひょっとしたらアンチジャイアンツとかの心理に近いのかも? (本当は好きなのか??(;^_^A)
でも本はあまり読まないけれど寺山修司は好きという人がわりと周りにも多く
(たぶんアングラなおしゃれ感が受けているんだと思う)
そういうおいしい立ち位置に立っている作家×近年の美輪さんブームということで、
この作品はどんな客層なのだろうかと、そんなところも非常に気になっていました。
で、前置きが長くなりましたが行ってきました
客層は本当に驚くほどバッラバラ。
上品なマダム系の集団やら20代30代カップルが多く見られましたが
中でも目立っていたのはちょっと下北系な若者グループ。
ここの層がおそらくアングラとしての寺山修司&流行の美輪さんの組み合わせに響く層なんだろうなぁと。
テーマがテーマだけに、そのわかりやすいダーク感、アングラ感が受けているのかも。
物語は美貌の女装娼夫・マリーが、欣也という少年を養子に迎え、自分の屋敷に幽閉し、意のままに操るという構図。
そして欣也が18才になったとき、外の世界をまったく知らなかったカレの元に美少女・紋白(舞台では美少女という設定ではなかった。なぜだ??)が現れ、彼女をきっかけにカレは外界への鍵を手に入れ、マリーを捨てる。が……!!
というのが主なあらすじ。
マリーと欣也の関係とは? なぜマリーは欣也を幽閉しているのか。欣也が外界に出ようとした目覚めのきっかけとその意味とはなんなのか。
マリーの欣也への思いは愛なのか、憎しみなのか……。
こういう概要を書くと、私自身、かなり好みのお話です
なんですが……
かなり観念的なお話なので、これを視覚的に舞台として見せるのはかなり難しいですね。
これは戯曲ではなく、小説としてじっくり読ませるテーマなんだなあと、
舞台を見て改めて感じてしまいました。想定内ではあったけれど……。
舞台でよかったことは、いろんなものを超越した美輪さんの存在感
まあこれだけでもお金を払って見る価値はあるとは思いました。
原作というか、寺山修司脚本そのものにいろいろ言いたいことがそもそもたーーーくさんあるのですが、それはとりあえずおいといて、
この舞台化での問題点や元凶(あくまでも私個人のですが)ははっきりしていました。
まずは普遍的なテーマを扱っているのに(普遍的なテーマであるということが、まずこの主題においてとても重要なことであるにもかかわらず)
時代性のある演出方法を選んだこと。
せっかく時代性の垣根を越えている美輪さん主演で、
その他の共演者も不思議な世界観の住人で普遍性を感じさせていたのに……。
その問題の箇所は美少女が登場するシーン。
ここでのテーマソングは、なんとモーニング娘。の曲。
あえて目的を持って時代性を強調する手法もあるとは思いますが
(代表的な例でいうと、吉田修一作品のほとんど。スターバックスやそのときどきの流行歌のタイトルや芸能人名など、時代を感じさせる固有名詞をあえて連発することによって、その時代にしか出せない人間の哀しみを描いている)
この作品においてのこの演出で、“目的”はまったく感じられず、
しいていえば、客席をあたためるため、や
エンターテインメント性を持たせて
舞台にめりはりをつけようという意図しか汲み取ることができず、
非常にもやもやしてしまいました
この時点でせっかく維持できそうだった普遍性が失われ、
描こうとしているテーマそのものがぶれてしまった感が。
エンターテインメント性なら、“美輪明宏さん”という人物そのものがいるだけでいいわけで、
それ以上何もしなくても客はついてくるのにー、と!
そして最大の疑問が、なぜ美少女・紋白を
イロモノゲテモノキャラにしてしまっていたのか
この作品はキャスト全員男性であるということも売りであるようですので
男性が演じることはまったく問題ないのですが、
ビジュアルも、動作も、せりふも、その抑揚も、
すべてイロモノ芸人のようなものになっていて、この意図もまったく不明どころか、
“作品じたいをクラッシュさせてしまっているけれどいいの?”と、
見ていて不安になってしまうほどでした
この紋白によって、今まで外の世界を知らない少年・欣也が
外界に出るきっかけを与えるという重要な役割であるのもかかわらず、
紋白のキャラクターがぶれたせいで、この連れ出すシーンの説得力が皆無に。
ここはストレートに“美の誘惑”でなければならなかったはず
欣也の自我の目覚めを描くというのも、
この物語においてとても重要なテーマのひとつなのに、そこがまる無視状態。
なので、あくまでもこの物語は、マリーから見た世界だけになってしまったことが非常に残念。
物語そのもののスケールを小さくしてしまっていた印象を受けました
あえて物語のスケールを小さくしてマリーの心境をクローズアップさせることが目的なのかな?とか深読みしてみましたが、
それもすべて説明せりふだけに終始していたし……。
何かありそうな、深そうな寺山×美輪さんの組み合わせですが、
もっと娯楽として楽しまないといけない作品のように思いました。
ただ扱っているテーマや世界観が一見すると純文学ワールドで、
せりふまわしの固さなども含め、
そういったエンターテインメント作品として味わいにくいものであるし、
これは“なんだかすごいものを見たぞ!という雰囲気だけを楽しむ実は中身のない作品”なのかなぁと、ちょっといじわる目線にも。
性の歪みや美への執着、自意識の目覚めや愛する狂気……、
こういうかなり興味深く大好きなテーマだけに、本当にもやもや……。
寺山修司はこういう目の付け所はすごくいいんですよね。
だけどそれを深く考察して作品に残す能力が極めて低いというか。
同じテーマで成功している作家たちと比べると、その能力差は歴然。
ただし、それを“おもしろそう”と思わせる導入の部分の能力がピカイチなんですよね。
そのとっつきやすさが受けているんでしょうが、
なんだかちょっと悲しい現象でもあります
不満がいっぱいでしたが、美輪さんの有無をいわせぬ存在感と、
そこから作り出される空気感は、理屈抜きにさすが!と驚嘆させられました。
もう『美輪モノ』というジャンルですね
頭の中にいろいろな思いが駆け巡った観劇なので、ぐったり疲れが。
でも見ておいてよかったと思います。