声に出された言葉と心の中の言葉と地の文によって語られた言葉、すべての言葉に真偽の差や序列はない。すべての言葉はそれゆえに信用に値しないのではなく、そのつど本当のこととして語られている。

 俗っぽくわかりやすく言えば、Kは過去を持たない。Kの過去はカフカが書く言葉によって少しずつ増えてゆく。j考古学で、都市なり人物なりが新資料の発見や発掘によって少しずつ解明されてゆくのと似たようなことがKについても起こっている。しかしそれは言葉、ひたすら言葉を重ねることによってのみ、人物や空間を造形していく小説において、本質的なことであり、ものすごくあたり前のことだと言えるのではないか。

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 こういうときに「作者」という、作品を書く存在(機能)を考えた方がずいぶん説明しやすいのだが、作者は作品が進行していったらいずれこういう形でシュワルツァーを再登場させようという計算があって、冒頭の宿屋の場面でシュワルツァーを出したわけではない。「いままで何を書いてきたのかな?」と作品のすでに書かれた部分を反芻することで、「あ、そうだ。シュワルツァーがいた。」と思って、第十四章でシュワルツァーを登場させたのだ。

 第一章で登場させた人物について、作者の中にまったく何も意図がなかったなんてそんな過激なことは考えにくいけれど、そうは言ってもそれぞれの人物について考えがたっぷりあったわけでもない。引用した(C)と【q】のような見事な対応を発見すると読者は、作者の「構想」のようなものに驚くことになるわけだけれど、構想なしに、すでに書いた部分を反芻する方が対応は見事なものになる。

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