民青名大班のブログ

企画、活動の紹介や学生生活お役立ち情報を発信します。
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つばきの候補の演説会の模様です。

演説はこちらから・・・

有志メンバーからのメッセージはこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=YbqEvaY9abA

椿野さんは民衆本位の徳のある政治とその実現のための現実的手段を違えないという意味で、とても冷静で理性的です。他方、二人のお子さんのパパであり、誇らず率先して家事・育児をこなす、そして困った人のために地道に汗をかいてきた、優しく温かみがある方です。嫌な顔一つせず、真夜中まで人生相談に乗って頂いたことも。班会で作って頂いたカレーやシチューがおいしかった。人一倍勉強家で、椿野さんからお借りした本の斜線やメモを読み解いていくと、新しい発見があることもしばしば。背が高いので、高いところのもを取ってもらったり、よく集合の目印にもなってもらいました(笑)班会でのアドバイスも、指導というような高圧的なものとは程遠く、誰も気付かなかったことを、遠慮がちにさりげなくおっしゃるそんな方です。議会に行ってしまって、頻繁に顔を合わせなくなるのはとても寂しいですが、椿野さんを必要とされているはずの大勢の方のために、街中でアンケートを採り、一人ひとりと語らった時のように、声なき声を丁寧に拾い上げ、絶望しか見えない現実からかすかな希望を紡ぐ、そんな政治の実現のため、一度彼に、皆さんの大切な一票を託して頂ければ幸いです。

椿野さんは、とても優しくて親切な方です。私が参加できなかった班会後の夕食に合流するときに、わざわざ車で迎えに来てくださったり、私が人間関係でトラブルを抱えたときには平日の昼間にもかかわらず、相談に乗ってくださいました。そして、お子さんへの接し方がとても上手な方です。些細なことでも、お子さんの成長につなげようと工夫をする、そんな椿野さんが名古屋市政に関与すれば、些細なことから暮らしをよりよくする工夫をしてくださるのではないかと期待しています。がんばれ椿野!


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名古屋市中区補選につばきの史さんが立候補致しました。

民青名大班の相談役としていつもお世話になっている、つばきの候補を、名大班の有志で応援することにしました。

有志とは・・・
民青では共産党綱領や科学的社会主義を学ぶことになっていますが、思想・信条の自由は当然保障されるものです。
したがって、班としてつばきの候補の応援を班員に義務付けるようなことはありません。
名大班の中でつばきの候補を応援したい人が自主的に集まり、班の定期的な会議や連絡手段を用いて、blogを使用する是非を議論し、了承を得たうえでこのblogの記事を書くことにしました。

まずは出発式の模様です。

つばきの候補の演説は・・・
https://youtu.be/LPdyDQpl2LQ


応援演説の模様




選挙カーと応援に駆けつけた衆議議員本村さん。



参院候補のすやまさ候補とつばきの候補、本村議員で必勝祈願。及び付近の選挙ポスター掲示板。




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さて、昨日から始まった昭和区平和美術展。
初日は生憎の台風接近でしたが、それでも130人前後の来場だったとか。
今日は中日新聞でも取り上げられていましたが、明日は朝日新聞も取り上げるみたいです。


会場の風景を3枚ほど。










では今回のコラムを。今日でこのコラムは最後です。

第三に、戦後秩序を無条件に最高だと考える必要はない。
日本がいつまで国連に敵国条項を残しておくつもりだと問うことは、国連分担金から見ても、公共的価値から見ても許容される。
ただし、その際に問われるのは、日本が戦後処理をきちんと果たすという姿勢である。
だからと言って、戦勝国にいつまでも特権を与える必要はない。
フランスは今でこそか辛うじて戦勝国を装っているが、第二次世界大戦中は明らかに枢軸国の片棒を担いでいる。
その国が戦勝国として、拒否権が発動できる地位にあることは本来おかしい。
また、フランスは元々持っていた植民地の独立をすんなり認めなかったし、そこで植民地が払った犠牲について、今でも十分に反省があるとは言い難い。
こうした戦勝国が誤魔化してきた戦勝国神話を解体し、敗戦国も自身の責任を十分に受け止め、そのうえで国連に染みついた、ルソーが言う、各国の「集団意思」を削ぎ落し、一刻も早く世界の「一般意思」を目指すことこそ、「真」のヤルタ・ポツダム体制の打倒に他ならない。
国連の体制で引き継ぐべき価値は引き継げばよい。
今話題になっている9条は国連憲章の国内法化であり、カントの『永遠平和のために』を体現したような規定である。
9条が時代遅れに感じるのは、世界が9条に追い付いていないからであって、9条が遅れているからではない。
寧ろ、9条の下で、日本にしかできない、泥氏の著作に紹介されるような、フィリピンでの紛争和解のような役割を日本はもっと果たす必要がある。
戦後の思考を支配してきた、アメリカに対する配慮の結果、日本がイニシアティブを取れる機会をみすみす逃すのは日本のみならず、世界の損失でもある。
日本が脱却すべきは、この極度のアメリカ依存症であり、これこそヤルタ・ポツダム体制の正体である。

今の政権は、集団的自衛権をこの憲法下で「違憲」にも関わらず、「合法化」し、安全保障法制と称するアメリカの軍事支援に着手しようとしている
その際、集団的自衛権ががなぜ国連憲章に規定されてきたのかであるとか、日本国憲法で憲法解釈が許される範囲はどこであるのかとか、現実のどの状況が集団的自衛権を要請するのかとか、緻密な議論を欠いてきた。
強いて言うなら、木村先生が述べるように集団的自衛権は本来公共的価値のために発動されるものであって、「自衛権」という私的利害の文脈で論じられるものではないし、私自身は集団的自衛権の現実的な形態のほとんどが大国の私的利害の発動でしかなかったと考えている。
また、軍事に関する規定がない(つまり、軍事を想定してない)憲法の下で、集団的自衛権という「武力行使」を論ずることのおかしさ、また現実には法制上あるいは技術上有り得ないフィクションの「脅威」で軍事を語る危うさ、等々。
こんな法制・軍事音痴の政権で、集団的自衛権の内実が決められていくことに、日本人はもっと危機感を持った方がよい。
今はまだ共産党を筆頭に、多くの政党が集団的自衛権の行使に反対しているし、内閣法制局や公明党も体たらくではあったが、個別的自衛権を集団的自衛権と「言い換える」ところでまだ踏みとどまっている。
しかし、国旗国歌法が当初、「強制」させないと内閣で答弁されていたにも関わらず、実際には文科省や教育委員会通達によって「強制」されていったように、集団的自衛権が今の内閣が答弁する通りに運用される保障はないということをよくよく想起すべきである。
信頼に足るのは条文のみだが、その条文での「歯止め」の中身は、個別的自衛権の行使で集団的自衛権と言い換え可能なものを集団的自衛権と呼び、個別的自衛権を超える集団的自衛権の行使を辛うじて容認しないというところに止めるぐらいの効力である。
かつて非戦闘地域と言いながら、人道支援と言いながら、この愛知の小牧からイラク戦争時に航空自衛隊が、支援物資はほとんどない状態で、アメリカ兵を運んでいた。
事実上アメリカの戦争の後方支援をして、つまり戦えないはずの日本が海外で既に「違憲」(名古屋高裁判決)のまま戦争に従事していたという事実がある。
当時は秘密保護法が無かったため、最初は黒塗りでほとんど情報がない中、情報公開請求を続けることで徐々に実態を明らかにすることができたが、今後は秘密保護法の結果、秘密そのものがあるかどうか分からないので、どこまで明らかにできるかは定かではない。
秘密保護法が制定される前でも、国家公務員や自衛隊から国家機密を漏らすことにはそれなりに刑罰が当然あったのだが、今度は「黒塗り文書」を知ろうとすることが罪になりかねない。
日本の情報公開について、公文書がすべてクリアに公開されるというイメージを持っている人が相当多いことに気付いたが、そういう「お花畑な日本」というイメージで、秘密保護法を支持していたのなら、今すぐ日本の情報公開度の実態を調べてみるとよい。
私は自衛隊には、今後も専守防衛に徹してほしいし、災害派遣などの分野で活躍して欲しい。
少なくとも、過去任務中に血を流すことのなかった自衛隊(任務後の自殺者はかなり多いが)が血を流し、不要な殺戮をさせることを私は望まない。
安全保障をその場の空気や気分で決めてはいけない。
きちんと、関連法令を見ているか、ソフトパワーも活用した軍事的合理性をどの程度満たしているか、今すぐ自身で確かめて欲しい。
そのために泥氏と木村・大澤先生の本を勧めたのである。
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明日より日曜まで名古屋市博物館ギャラリーで昭和区平和美術展が行われます。
メンバーの中に、「9条にノーベル平和賞を」の展示を作成したものがおります。
中身も外見もお楽しみ頂けると思いますので、お近くの方はぜひお立ち寄りくださいませ。


さて、戦後70年経って、日本ではあの戦争を「自衛戦争」と見る向きが強くなっている。
あの戦争で中国・韓国からやいのやいの言われる筋合いはないという論調は強くなっていそうだ。
特に慰安婦は捏造だいう声が喧しい。
アメリカの決議に反対して意見広告まで出している始末。
しかし、私はこのような日本の態度こそ、ヤルタ・ポツダム体制の産物であることをここで簡単に述べたいと思う。

第一に、日本が正々堂々と褒められることをしてきたのかということだ。
論点は常に、「欧米」よりマシだったかどうか、あるいは素晴らしいかったという点に集約されている。
しかし、「欧米」を比較の準拠点にする限り、図らずも日本があまり「素晴らしい」国でなかったことを暴露してしまう。
私は欧米がアジアを植民地化した落とし前はきっちりつけるべきだと考えている。
欧米が軍事力に物を言わせて、世界を分割した結果が、今日の紛争が絶えない世界を作り出している。
今日のパレスチナ・チベット問題の淵源は英米にもあるし、アフリカ分割の結果、キリスト教化したアフリカでの同性愛差別が「伝統」とされ、民族浄化も絶えない。
こんな世界に誰がしたと問えば、確かに欧米が悪い。
しかし、では日本は「大東亜共栄圏」だの、「八紘一宇」だのというスローガン通りに、アジア「解放」を目指していたのか。
確かに、思想家や貧乏所帯である軍人の一部にはそうした思想や実践があったのかもしれない。
しかし、その「一部」を、政府や軍の「中枢」の思想と錯覚させることは間違っている。
フィリピンは日本が「解放」しなくても、恐らくアメリカが(名ばかりであっても)「解放」したであろうし、「親日的」だと目されていたビルマがなぜ日本軍を「裏切った」のか、(実際には、ビルマの独立活動家と一部の軍人の美談にすぎない)、あるいは仮に「善政」が敷かれていたとしても、その意図は褒められるものだったのかどうか(つまり、インドネシアは兵站などの軍事的合理性に基づく判断で、当地のことを考えていたのか)などを、突き詰めて考えてみた時、日本の加害性は免責できない。
ある政策の是非を語るには、その意図、その実際の効果をどの地域・どの階層・どの時点から眺めるのかを厳密に測定しなくてはならない。
そうした時、日本はあの戦争の間中、ずっとどの国に対しても、どの階層に対しても善いことをしていたのだとする荒唐無稽さが分かるだろう。
「欧米」は確かに褒められたものではない。しかし、だから「日本」が褒められるかと言われれば、どちらが「マシ」かなどという、悪さの程度を比較するという低レベルな競争にならざるを得ない。
東京裁判は確かに戦勝国の裁きとして、相当偏っているという指摘はその通りだと思うが、だから「日本」が悪くなかったというのは論理の飛躍で、要するに日本自身があの戦争の責任を自ら裁くことができない言い訳にしかならない。
事実は、欧米も日本も悪かったである。その程度の悪さに差をつける必要はない。

第二に、戦争について論ずる場合、国のカテゴリーと、実際の人間のカテゴリーを混同して議論が行われていること。
私はソ連にも中国にも北朝鮮にも韓国にも、利害関係は無いし、彼らが国レベルで責められるべき点で責められることに対して弁護するつもりはない。
ソ連が東欧諸国にまき散らした害悪にせよ、中国の異民族の抑圧にせよ、朝鮮半島の非民主的な政権にせよ、いずれも問題だと言われれば問題だと答えるし、当地の権力者が戦争の問題を統治の不満のはけ口に利用していると問われれば、そういう側面はあるだろうと冷静に答えるだろう。
しかし、それは当地の問題を指摘するだけのことで、だから日本はあの戦争で悪くなかったという証拠には一切ならない
そもそも、私は国家賠償は条約で解決済みと考えているから、そこに国は登場しない。(勿論、国家賠償の方法としてODAなどの間接的な方法が取られたことについて看過するものではない。)
賠償されるべきはあの戦争に、当時の法律でも違法であった被害者個人、それぞれにである。
慰安婦は当時の法律に違反していないから・・・という俗説が幅を利かせているが、そういう方は泥氏の著作を読んでみるとよい。
恐らく当時も買春は「原則」として非合法であって、例外的に営業許可されていた文脈、そしてその買春契約と慰安婦契約の相違点について意識して、慰安婦問題を考えた人間はそう多くないはずだ。
更に、日本の裁判所に訴えた慰安婦被害者の事実認定、つまり慰安婦があったかなかったか論争について、日本の裁判所がこの事実認定を否定した例は今のところ無い。
日本の裁判所が慰安婦裁判の賠償請求を却下したのは、慰安婦問題の事実の有無とは無関係である。
そのうえで、更に述べるならば、仮に慰安婦の事実があったとしても、国家賠償が済んでいるのに、慰安婦の被害者の方々が個人賠償を請求するのはおかしいという疑問を抱えているとしたら、その批判が日本国民の戦争被害に対して、ブーメランのように跳ね返ってくることを肝に銘じた方がよい。
つまり、どういうことかというと、元々国家賠償は済んでいるが、個人賠償請求はできるという論理を生み出したのは、日本政府であるのだ。
この論理はソ連抑留者がいるにも関わらず、その問題を解決済みとしてソ連と国交回復した際に遡る。
もちろん、国策として戦争を遂行した責任は日本政府にもある。だから、日本政府はそれで被害に遭った国民にきちんと賠償する義務がある。そこはいわゆる護憲派の多くの方々が主張している。
だが、私はそれでは全く不十分だと考えており、いわゆる護憲派の一部に、全部日本が悪かった論で、日本の被害を片付けてしまうのは良くないと私は考えている。
それこそ、護憲派の一部にも、戦勝国に日本は負けたのだから日本の被害について戦勝国にあれこれ言う資格がないなどと言う戦後国際秩序を鵜呑みにする方々がいるのは非常に残念で、私は寧ろ、ソ連抑留やアメリカの日本の大都市を狙った無差別空爆、原子爆弾についてアメリカやソ連の戦争責任を厳しく問うべきだと考えている。
だから、私が慰安婦問題を否定する意見広告に名前を連ねる方々に問いたいのは、なぜ戦時国際法違反であるソ連抑留やアメリカの空襲・原爆には寛大な態度を取るのだろうかという問いである。
私は日本国民として、あの戦争で、多くの市民が(たとえ「無辜」ではないとしても)あれだけ苦しい思いをして死ななくてはならず、戦争が終わった後、軍人・民間人がなぜ強制労働させられなくてはならなかったのか、戦勝国に問わなくてはならないと本気で思っている。
そんなことを言ったら、アメリカを刺激するというような奴は、はっきり言って、愛国者を名乗る資格はない。
日本の加害を止めるために、それ以上の加害をして止めたのだというのは、出来の悪い「神話」であって、何の正当性もない。
もちろん、その主張が説得性を持つには、日本の加害責任についても、「無辜」の市民を含めて、相当厳しく追及しなくてはならない。
そのうえで、俺も自分の不正には厳しく対処した、今度はお前の番だ!と厳しく追及するのが、平和な世界秩序という、世界の公共的価値に通じるだろう。
日本がアメリカの戦時国際法違反を手ぬるく追及したことがその後の朝鮮戦争以降のアメリカの戦時国際法違反、特に市民の犠牲に少なからず影響を与えているはずだ。
事は日本人が我慢すればよいというだけでは済まない。
だから、アメリカの新聞に意見広告を出すとすれば、アメリカの議会で演説をするなら、空襲や原子爆弾の補償はいつ行われるのかを問題にすべきなのだ。
一方、謝罪すべき相手、つまり被害者個人に向けては、気の済むまで「謝ればよい」。その傷つきが癒えるまで応答に応えるのは、高橋先生なら義務だと言うだろう。
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憲法記念日、私は高橋哲哉の講演会に出掛けた。(護憲派の集会である。)

私は高橋先生のアクチュアルな思想史に共感しつつも、どこかで「歴史」が足りないと感じてしまい、『靖国問題』よりも小島毅氏の『靖国史観』に惹かれてしまうのだが・・・。

今回、サインを貰うため、今まで敬遠して購入しなかった『犠牲のシステム福島・沖縄』を買ってみたのだが、早く購入しなかったことを後悔した。

書店には沢山の「フクシマ」本が並んで、食傷気味というか、それまで「福島」を顧みたことがない人々が気安く「福島」を消費することに嫌悪感すら抱いていたのだが、本を読んで彼が福島出身者として心を痛めた部分と、東京在住者として自身を責めたことが伝わってくる文章で、いわゆる「お説教」の文章ではない。強いて言うなら、それぞれが問われる責任に言及している。

何よりそういう複雑な感情が籠った本にも関わらず、彼は福島の問題の現れ方の多様性にも目配りをするし、福島の問題を「原発立地自治体」の問題として、より普遍的な文脈を志向するし、更に「植民地主義」というキーワードを使って、沖縄との近接性も冷静に論じていく。

天譴論の部分は、『靖国問題』の時と同様、前近代の文脈から論じて欲しいな・・・という期待はありつつも、「哲学」の専門家にそこまで求めるのは酷かな・・・と。

ところが、今回の講演では、安倍首相が尊敬する人物である吉田松陰に目を向けて、松陰が如何に近代日本史と不可分であるかをお話して頂いたので、高橋先生が前近代に遡ってくれて、それも近世思想史の専門家以上に鋭い切れ味を発揮してくれたのには脱帽した。

さて、今回のテーマはそんな憲法や戦後処理に関わる問題である。

最近、泥和憲『安倍首相から「日本」を取り戻せ』や木村草太・大澤真幸『憲法の条件』の本を読んでいた。
どちらもそれなりに考えさせられる本で、是非一読を勧めたい。

今回、ヤルタ・ポツダム体制の「真」の打倒という刺激的で、誤解も受けそうなタイトルを付けてみた。

しかし、私は時代錯誤な感覚でヤルタ・ポツダム打倒と叫び、よもや憲法破棄などとという戯言を言おうとしているのではない。

しかし、単に「日本国憲法は素晴らしい」ものだと言ってみても、現実の日本社会はあまり「素晴らしい」とは言えず、憲法不信が広がるのも無理のない状況だと思う。

内田樹氏が述べる憲法の空語を埋める作業、つまり実際に口だけでなく、主権者として、憲法を現実化させていく試みが必要なのだ。

護憲派の集まりに言っても、「少数者保護のためにどうしたらよいですか?」などという馬鹿げた質問が出る時代である。

私が以前ある講演で話していた弁護士なら、「少数者保護庁でも作って安心しますか?」という怒号が即座に聞こえてきそうだ。

「少数者」の疎外・不利益・差別・・・に向き合うということは、抽象的な「少数者」に向き合うのではなく、具体的な「少数者」の悩み・苦しみ、時には喜びに寄り添うことでもある。

如何に憲法がご立派な産物であっても、それだけで善政を期待するのは間違っている。

憲法という単なる記号の羅列に実感を込め、魂を吹き込むのは主権者自身なのだ。

正直、人間の統治の産物である「法」よりも、神との契約の法であるところの聖書やイスラムの「法」の方が、本来は神が統治するのであるから、信頼が置けそうな気もするが、真に神に仕えるような者が非常に少なく、宗教が人知に染まって堕落してしまっている以上、今しばらくは人間の「法」に頼らざるを得ないのではないかという気がしなくもない。

さて、今や日本国憲法は、改憲手続きを踏まないクーデタ、解釈改憲を経て、まさに違憲の政治が始まった。

高橋先生が講演で紹介していたように、違憲の権利の合法化こそ、ナチスの全権委任法であった。

ナチスは全権委任法を成立させることで当時世界で最も民主的と言われていたワイマール憲法を無効化し、全権委任法を盾に、違憲の政治を「合法的」に進めていった。

まさに、法は法なりの政治がここに始まったのだ。

隠しても仕方がないので、はっきり言ってしまうが、現在の日本はまさしく、日本国憲法の危機に晒されている。

もっとも、賢く、謙虚な独裁者であれば、あるいは徳治も期待できるのかもしれないが、一国の独立国である日本の総理大臣が、史上初めてアメリカの上院下院で嬉々として演説しているさまを見せつけられるに至って、日本はついにアメリカを宗主国と仰ぐようになったのかという気分になる。

さらに、衝撃的なことを言おう。

今回の日米会談で、日米安保の「ガイドライン」なるものの合意がなり、尖閣防衛にアメリカが尽力してくれると国内では大騒ぎだが、そんな期待も空しく、アメリカはこの合意を中国にわざわざ説明したうえで合意していたという情報もある。

そんなアメリカのために日本は血を流そうというのだから、植民地根性もここに極まり!と感慨深い。「嗚呼」とはこんな時の嘆息だろうか。

今回の日米会談を見ていて、私は冊封体制という言葉を思い出した。

皇帝に貢物を送って、臣下の礼を取ると、皇帝から更に多くの良い品々がその国に送られ、その国の存在が安堵されるというようなシステムである。

日本は何度も中国の朝貢体制から逃れてきた。そして一時期は自分こそがアジアの覇者であるとして、まさに「中華」たらんとした。

そして敗戦後は・・・。

要するに日本は朝貢先を中国から、アメリカに変えただけなのである。
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今日は昭和の日ですね。

元号という慣習はついに日本だけになってしまいましたが、東アジアの中では王権と結びつきが深い制度の一つです。

王の在位に応じて、一つの元号というのは実は長い歴史の中で比較的新しい習慣(中国では明代、日本では明治から)なのですが、ともかく王権が時間を支配することの「象徴」です。

私個人は西暦が唯一正しい時間の数え方だとは思いませんから、元号自体が形式的に残ることは文化保存の意味でとても大事なことだと思いますが、実生活でいつも元号を使わなくてはならないということになると、現代人は多かれ少なかれ西欧化の影響を受けていますから、かなり不便ですね。

特に、誰とは言いませんが、王権ではない世俗の支配者から、「元号法」に規定がないにも関わらず、いつも元号を使わなくてはならないよと強制されるのは、皇室に対する尊崇の念を、自発的に有する者にとって非常に不愉快です。

さて、今日は半田滋さんというジャーナリストの集団的自衛権に関する講演会に出かけました。

半田さんはある新聞社の論説委員で、防衛関係の取材を、きちんと防衛に関する知識を踏まえた上で、かつ9条を生かす立場から発言される方です。

すべての護憲派とは言いませんが、確かに護憲派には必ずしも世界情勢や軍事に通じていない方がちらほらいらっしゃるので、改憲派から「一国主義者」・「平和ボケ」・「理想主義者」などとこけおろされた時に、たじろいで有効な反撃ができないことも多いのですが、半田さんのような存在は、寧ろ改憲派の方がよほど「平和ボケ」していて、現実を無視して、理念で武装し、机上の空論で、安全保障を弄んでいることを、世界情勢や軍事に対する豊富な見識から、分かりやすく解説してくださるので、私は「護憲派よ、もっと世界情勢と軍事を学べ!」と、常々周囲に話しています。

さて、今日のコラム、このまま軍事の話をしてもよいのですが、昭和の日に因んで、護憲の立場から(人様は知りませんが)私自身が敬愛する皇室をどのように擁護できるか、考えてみたいと思います。

数多ある改憲論の中で、もっとも「復古的論調」と言われるのが、占領憲法である日本国憲法を「破棄」して、新憲法を制定しようという動きです。

彼らが準拠するのは、あの輝かしい大日本帝国憲法なのですが、あの憲法に依拠しようとすればするほど、皇室制度は危うくなると私は思っています。

「万世一系の天皇」が事実であろうと、擬制(フィクション)であろうと、確かに一つの聖なる王権と俗なる王権が統一した形で、長期に渡って維持されてきたことは、歴史的に大きな価値があると考えます。

しかし、ここで顧みなくてはならないのは、天皇親政が実際に続いていたのはどのくらいの期間なのか、ということなのです。

私は古代のある時期まで、中世の一時期、近代の一時期ぐらいしか思い浮かびません。

天皇が俗なる王権で有り得た時期は限定的で、まさに聖なる王権の「シンボル」であった時期の方が圧倒的に長いのです。

しかも、その「シンボル」が行っていた祭祀は現在の江戸後期に復興し始めた神道儀礼だけではなく、仏事儀礼も含んでおり、かなり幅広いものでした。

ところで、いわゆる明治憲法は、君主権の規定とその制約の論理という二重構造から成り立っており、いつもその間で揺れ動く規定でした。

それ故に、第二次世界大戦の戦争責任の語りの中では、天皇の戦争責任をめぐって、天皇と臣下の間で血みどろの争いが起きてしまいました。

昭和天皇がどのようにあの戦争と関わっていたのかには諸説ありますが、最も昭和天皇に有利な説を採る立場であっても、法制上の責任まで免責できないでしょう。

なぜなら、形式的にであっても、明治憲法下で、主権者は天皇だからです。

実際、当時は皇室制度を擁護する立場から、昭和天皇の退位論が出たほど。

実際の昭和天皇のポジショニングをめぐっては、楢崎豊彦氏の興味深い著書に委ねるとして、彼の所説では昭和天皇がライバルを恐れて戦争を主体的に遂行する姿、そして昭和天皇の政治的行為が戦後処理や日ソ国交回復の際に、戦後の日本国憲法下でも「密教」として続いている姿が実証的に暴露され、驚くことこの上ありません。

ここで私の立場を述べておけば、実は皇室制度は残ってほしいと思っている立場です。(だから、コミンテルン用語であるところの、天皇制という言葉を敢えて使わず、所功氏の用語に倣っています。また、私の自宅のカレンダーは皇室の写真カレンダーで、今月は皇太子ご一家がソファーでくつろがれている写真です。)

とは言え、私は現在の改憲論に与して、天皇を国家元首にとか、天皇にもっと大きな行為をさせようとか、皇室典範を憲法と同じ地位に置こうとか、そういう論調には全く賛同しません。

私は現行憲法の中で、天皇が第1章であることに着目しようと思います。

国民主権」の国家であるのに、まず真っ先に天皇が出てくるのは、現行憲法でも皇室制度に並々ならぬ関心があった証だからです。

私は日本国憲法の第1条が最もこの憲法の中でよくできていると確信します。
第一条  天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

なぜか。

第一に、歴史的経緯から、天皇は聖なる王権の「シンボル」であった以上、天皇は「象徴」であるというこの説明は、異形児としての「世俗の王権」を、「本来」の「伝統」とする「擬制」を打ち破り、真の日本の伝統に即しているからです。

第二に、江戸時代における東アジアの聖君論の系譜を辿れば、日本が万世一系であるのは、君主としての仁徳が、異民族王朝清より、あるいは明の継承者たる小中華朝鮮よりも遥かに高いと説明されているが、その所以こそ易姓革命が基本的に日本では起こらなかったことによるからです。

易姓革命が起こらなかったということは天意に背かなかった、つまり天意は民意をくみ取っていることになっているので、皇室を民意が支えているというのが儒教的な君主肯定論であり、この条文はその思想に照らしても、見劣りしません。

中には民意などは現代の選挙で図るものではないという向きもあるかもしれませんが、明治期にイギリスに留学した儒学者の中には、当地の議会制度を見て、聖人の国がここにあると思ったという逸話もあります。

そして天皇が、世俗の王権としての振る舞いを規制され、儀礼的行為の責任はすべて内閣・議会が取ってくれるこの体制にあっては、天皇が「法的責任」を問われることは原理的に有り得ません。

また、国事行為や皇室典範が憲法と同じ地位の法律になったとしたら、それこそ現在の皇室の少子化というような喫緊の課題が生じた場合、それを憲法は本来硬性的な性格を持つものですから、速やかに処理することができなくなります。

もし、その際に、法律を超えて、「人治」が始まってしまったとしたら、その責任を誰が取ることになるのか、その行方如何では皇室制度は益々危うくなるでしょう。

さて、そのうえでよく「不敬」として話題になるのが、国会開会式問題。赤旗記事より。
 第百五十九通常国会の開会式が十九日、参議院本会議場でおこなわれ、天皇が出席して発言しました。日本共産党国会議員団は、憲法と国民主権の原則を守る立場から欠席しました。
 現行の開会式は、戦前の帝国議会の儀式を引き継ぐもので、憲法の「国事行為」から逸脱するものです。日本共産党は、開会式を憲法が定める国民主権の原則にふさわしいものに改めるよう主張しています。

その根拠は恐らく日本国憲法の下記項目、
第七条  天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一  憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二  国会を召集すること。
三  衆議院を解散すること。
四  国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五  国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六  大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七  栄典を授与すること。
八  批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九  外国の大使及び公使を接受すること。
十  儀式を行ふこと。

要するに、「二  国会を召集すること。」が「国会開会式への臨席」に当たるかどうかという法解釈の問題になりますが、「十 儀式を行ふこと。」と合わせて国事行為に当たるという説と、国事行為ではなく「準国事行為」、国事行為でも私的行為でもない「公的行為」に当たるという諸説があります。

厳格に条文を読めば、共産党が述べるように、「二 国会を召集すること。」に「国会開会式への臨席」は含まれないという解釈になりそうですから、共産党がここで述べていることはそれなりに筋が通っています。

ただし、共産党の不破議長は「天皇、皇后両陛下出席の晩さん会に同席」されたこともあります。

この晩餐会はマルグレーテ・デンマーク女王が主催するため、「外国賓客の接受」に当たるもので、「九
外国の大使及び公使を接受すること。」には厳格には含まれません。

「国会開会式への臨席」は認められず、「外国賓客の接受」を認めるというのは国事行為を厳格に解釈するという視点だけだと矛盾していますが、恐らく「戦前の帝国議会の儀式を引き継ぐ」・「国民主権の原則にふさわしいものに改める」というところが、この判断を分けたものと思われます。

したがって、もし改憲が必要だとするなら、この国事行為を定める第7条の内容のみということになるでしょう。この7条には時代によって変化する行為があって、その加除が必要だという説明は成り立ちそうです。

ただし、国事行為を憲法の外に出すことは慎むべきです。法律で国事行為を決定してしまうと、ころころ国事行為の内容が変わって、最終的に国事行為の制約があってもなくても同じくらいに、天皇が行為し、その結果天皇が再び責任を取らなければならない事態が生じかねません。

では最後に、「皇室」を尊んでいるはずの自民党がこの条文をどのように変えているかを見てみましょう。
第一条 天皇は日本国の元首
→天皇に再び「政治的責任」が問われる可能性があります。
第二条 天皇はこの憲法に定める国事に関する行為を行い
→「のみ」という限定が削除されており、天皇の国事行為に関する限定が外れることで、天皇の国事行為制限があってもなくても変わらない状態になることで、再び天皇が責任を問われなくてはならない事態が生じかねません。
第6条の2
天皇は、国民のために、左の国事に関する行為を行う
→内閣と助言と承認が無くなれば、つまり大日本国憲法でもあった「輔弼」が無くなれば、天皇は国事行為を「自己責任」で行わなくてはならなくなります。確かに続く4項で内閣の「進言」項目はありますが、木戸幸一のように、「承認」はしていなかったと言って、内閣が責任逃れをすることはありそうです。
第六条の5
天皇は国または地方公共体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的な行為を行う
→この行為は国事行為に含まれていません。ということはこの行為で何かがあった場合、誰が責任を取るのか不明確であり、事実上行為主体である天皇の責任が問われかねません。

皇室は光も影も含めて、日本の歴史と共にあります。

現行憲法ほど、歴史的な皇室制度を踏まえた皇室規定は他にありません。

皇室が末永く続くためには皇室が実質的な責任を負わないような制度で無くてはなりません。

そのために、皇室の国事行為や公的行為が制約されるのは、寧ろ皇室維持にとっての必要条件なのです。

今は共産党ですら、その綱領で
党は、一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである

という時代です。

民主共和制を最善とする限り、皇室廃止を目標としていると言われても仕方がないとは思いますが、あくまでも「存廃」を問題にしているという点を好意的に捉えるとするなら、実際北一輝のような国家社会主義者もいた訳ですから、皇室が漠然と残る形での、社会主義・共産主義というのも、ひょっとするとあるのかもしれません。

少なくとも「君側の奸」が恣意的に皇室を利用できないようにするというのが、皇室を末永く続けるための「顕教」であるということを述べて、この文章を終えたいと思います。
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今日でコラムは終わりです。

さて、本題に戻りましょう。

今回の文章の問いは新自由主義はサービスの質を上げるかどうかという疑問でした。

結論から言えば、NOです。

しかし、現実はもっと複雑で、原理的にはNOだが、逆説的にYESとなることがあり得るというものです。

官から民へ、そして競争で低価格・品質向上が高まるというイメージについて官から民へのフィクションをこれまで大雑把に辿ってきた訳ですが、今度は競争が質を高めるという神話を解体してみたいと思います。

みなさんはファミレスに行かれたことはありますか?

私はあまりファミレスが好きではないので、近くで安い飲食店やファミレス価格でおいしい食事が出来るチェーン店ではないところを極力探しています。

もちろん、時間がないときにはファミレスも使いますが、できるだけ避けています。

その理由は端的にサービスが悪いからです。そしてこのサービスの改善は今後も図られる余地がないものと思っています。

なぜか?

例えばファミレスに入ってからの接客、きっとマニュアル研修があるはずなので、気持ち悪いぐらい丁寧ですが、悪く言えばお客さんごとに接客を変える姿勢は皆無なので、いわゆる常連さんに対しても画一的な接客をします。

しかし、個人が経営する飲食店に行けば一目瞭然ですが、客に合わせた接客をするのが普通であり、我々はその客に応じた接客に店主との距離を測る楽しみがあります

しかし、マニュアルに即した機械的な接客は一見丁寧なようでいて、慇懃無礼なのです。

かと言ってこの不満を私がファミレスのアンケートに書いたとしても、恐らく受け流されて終わりでしょう。

なぜなら、客に応じた接客態度を細かく定めるよりも、一律に過度に丁寧な接客研修を行う方がコストが安く済むからです

客に応じた接客は、その客がどんな客かを判断した上で、時にマニュアルにはない臨機応変な対応を迫られ、いつも成功するとは限らないリスクが付きまといます。

だから、大手がそんな手間をかけるはずがないのです。

次にファミレスで注文をするためにメニューを開くところを想像してみてください。写真では安くておいしそうなメニューがありふれています。ここで、注文のボタンを押します。

ところが、待てど暮らせど、店員が来ない。

特に混雑時には猶更です。

どのファミレスでも大体遭遇しますから、恐らく混雑時に対応する店員の数が以前より減っており、店員が超人的な働きを常にせねばならない状況に置かれていることが容易に想像できます。

そんなときに、向こうでもこっちでもせわしなく動いている店員の姿を目に留めて、はよこい!などと怒鳴ることができるでしょうか?

中にはそういうお客さんも見ますが、とてもそんなことが言えないくらい、働いているひとは動き回っています。

いざ、料理を注文しました。待たずに料理が来る、これはメリットでしょう。

しかし、不味い。

こんな値段で、こんなに不味いものを食わせるのかというファミレスは厳然と存在します。

しかも量も少ない。

これなら、自炊すればこんなものも作れるし、近所のお店ならこんなものが食えるのに・・・との考えが頭を巡ります。

極め付けは、食べ終わってすぐに食器を片付けに来られる店員さんです。食べ終わったならはよ出てってと暗黙に言われている気分になります。

でも、店側からしたら本当に出てって欲しいのです。

つまり、ファミレスほどの定価では回転率を上げなくては儲けが出ないということなのでしょう。

実際、時間制限、食事以外の目的での入店お断りというお店は多くなっている印象を受けます。

挙句の果てに、店員さんは次々と接客に追われるため、掃除をする時間が取れないのか、店は汚い。

店が汚いことを問題視した経営側が何を考えるかというと、お客様のマナー向上作戦で、お店を掃除する手間を省こうというものです。

雇用関係にない客まで店員として働かせようという魂胆です。

さて、お店を出る際に、店の求人広告が目に入ります。

こんなハードな仕事え大半がパートやアルバイト、しかも最低賃金ぐらいの給与で回そうとする。

みなさんが働く側なら、どうせ一時的にしか働かないお店に対して、良心的に尽くすでしょうか。

もちろん、そういういい人も多いでしょうが、大半は叱られない程度に手を抜いて仕事をするでしょう。

人件費を極限まで削ることで、もはや、基本的なサービスですらままならないお店がごろごろしていて、この辺りではノロウイルス発生時にもっとも食中毒が多いという成果まで収める始末です。

こういう劣悪なコストカット経営が行き着くとどうなるのか。

結論は、経営コストが削減され、商品価格が下がるだけ・・・というものです。

ところが、その商品価格カットも限界に来ており、ついに商品価格カットを諦めて、飲食店が軒並み値上げに踏み切ったことで、実は新自由主義的競争の果実は、全く消費者には還元されていないということが奇しくも明らかになってしまっているのがここ最近の状況です。

経営のコストカットはなぜ必要か。

言うまでもなく、企業の私的利害の追求、つまり企業の儲けを上げることです。

その利益は従業員ではなく、まず株主に還元されるというのが今の経済の仕組みです。

実際、企業が従業員の賃上げに踏み切ったのは、国の後押しを受けてでした。(その国の賃上げは様々な働く人々の圧力によるものでもあります。)

それでも、賃上げをなかなかしないので、国は必死で賃上げ圧力を高めましたが、そのしわ寄せは消費者に向かい、企業の経営努力は目に見える形では為されていません。

せいぜいもっと価格が上昇したところ、このくらいに抑えたということを誇るぐらいの経営能力しかないのが日本企業の経営者の実像です。

社会主義・共産主義というと、すぐに思い浮かべるのは隣国中国、北朝鮮、かつてのソ連でしょうか。

確かに彼らは社会主義化・共産主義化に失敗しました。

それは元々豊かな国ではないところから無理に社会主義を成立させ周りの資本主義の国々も圧迫政策で応じたということが原因です。

私はどの国もモデルケースにはならないと思っています。

つまり、日本のようにかなり物があふれた国から社会主義を目指そうなんてことを、誰もやった経験がないからです。

もし、中国や北朝鮮、ソ連の失敗例に学ぶ点があるとすれば、あるどこかの条件で当てはまったものを狂信して、いつでもどこにでも当てはまるというような過剰な自信を持たず、常に自国の置かれた状況を見て、政策を考えるということでしょう。

その意味で、私は社会主義・共産主義という名前が悪いなら、みんなのことはみんなでできるだけ納得しながら進めて、みんながそこそこ食っていって、そこそこ自己実現できるようにする社会を目指すと言い換えてもよいと思います。

これこそ本当の意味での、「みんなの党」でしょう。

今必要なのは、新自由主義という一部の既得権益を持つ人々が社会に持つ影響力を削ぎ、その既得権益を更に広げようとする人々がいるなら、その野望を挫き、その既得権益を手放してもよいという良心的な人々、あるいはその既得権益を持つ人々に苦しめられている人々とつながって、官と民とがどのように棲み分けをしてやっていくのがよいのか、官と民とがどのように協働する方法があるのか、そして競争で何をどこまで達成できるのかを分析し、競争以外の戦略で、つまりゲーム理論における囚人のジレンマのように、自己利害を追求しない方が全員の利害を最大化できる方法がないか模索する時期に差し掛かっているということです。

この方向性の模索こそ、新しい社会主義であり、新しい共産主義への第一歩と言えるのではないでしょうか。

もちろん、既得権益を手放したくない人が一定数いるなら、ある程度自覚的に、こういう方向を模索するんだという意気込みが必要です。

しかし、朱子学の考えでは、みな同じ理を共有しているはずであり、その理の発現の際に、気が理を曇らせているからこそ、既得権益を手放したくないという蒙昧に陥っているだけなのです。

だからこそ、既得権益を手放す方向を主流な動きにし、みながそこそこ豊かに暮らせる基盤を整備することが、本来の「改革なくして成長なし」ということであり、そうした時代の流れが到来した時点で、みなが自由に発言でき、不十分ながらも金持ち議会を選挙で選べるのですから、多くの先人が現代日本より過酷な状況で手にせざるを得なかった武器を手にしなくても、既に革命へのフェース(段階)は切り開かれたと言えるでしょう。

最後にもう一度結論を繰り返します。


新自由主義は原理的にサービスを向上させません。

即刻辞めることが、日本の幸福につながるでしょう。

富裕層にとってもぎすぎすした社会でストレスを貯めて短命で亡くなるよりも、使わないお金を貯めることに満足しないで、使わないお金を他に回すことで、長生きと充実した生活が手に入るのです。

もちろん、現に貧しい人にとっては、そこそこ食っていける社会になるという意味で、今よりもはるかに知的で活性化した社会がすぐそこに待っています

この道を選ぶのはあなた自身であり、この道を掴むのは、あなたの決意です。
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昨日は奨学金(ローン)とブラックバイト問題で著名な中京大学准教授大内裕和先生をお迎えしての講演会でした。これは県全体での企画です。またまた先生のご厚意で、聞き逃した方でも録音データを視聴して頂けます。お気軽に民青名大班までお尋ねください。

特に奨学金の返済で困っている、奨学金を借りようか迷っている、奨学金をどんな風に借りたらいいか疑問がある、バイトがブラックバイトなのか相談したい、未払いの賃金をどうやったら払ってもらえるか知りたい、有給休暇の取り方を知りたい(法律で決まっていますので、必ず取れます)、バイトを辞めた違約金で悩んでいる、バイトのシフトの過酷さ自慢をしながら、本当は悩んでいるなどなど、そういう方にはおすすめの講演です。
では、昨日の続き。

では企業の話に戻りましょう。同じ私的領域でも企業の方は、一応それなりの設備も資材も持っています。特に大企業になればなるほど、安定した経営規模を持っているはずです。

ここで民間にできることは民間に、もっと自由競争をしてもっと低価格で質の高いサービスをなどという新自由主義のスローガン(標語)を思い出してみましょう。

まず競争条件において、企業の競争条件は、「企業の活発な活動を奨励する」という名目で随分優遇されています。

日本企業が儲かるならいいじゃないかと思うかもしれませんが、さてここで今「日本企業」と名乗っているうちの幾つの企業が国内を主要な「生産拠点」にしているのか確かめてみるとよいと思います。

そうすると、日本の社名を持っているが、実はグローバル(世界中)に展開しており、既に生産拠点が海外に移り、日本での仕事がこけても、別な国で商売をやっていけばよいという土壌が既に仕上がっていることに気づきます。

だから、豊田自動車ではなく、TOYOTAなのです。東芝ではなく、TOSHIBAなのです。本田技研工業ではなくHONDAなのです。

既に国益を代表していない私的企業に甘い競争条件を課して、本来はもっと高い水準で競争させた方が死に者狂いで競争して、もっと火事場の馬鹿力が出せる余地を捨て、大企業の社長さんと会食して企業献金を乞うているのが現在のほとんどの政党の姿です。(とりあえず、共産党は自前で資金を準備しているから除外できます。)

はっきり言えば、競争すべきは働く人々ではなく、死ぬ物狂いの経営努力を忘れ、今年は税金が払えたわなんて呑気なことを言っている経営者自身なのです。

もともとバブル経済で経営が立ち行かなくなった企業が大半だったのに、日本ではバブル期に経営を失敗した人々が、戦前政府とどうように責任を取らず、のうのうと経営を続けているのが現在の日本経済の失敗の最大の原因なのではないでしょうか。

だからこれ以上法人税率を下げて企業に媚びる必要はないのです。むしろ、法人税率を諸外国よりも下げつつある現在、それでも効率的な経営ができない企業は、いっそのこと潰してしまえばよいのです。(イギリスの社会主義者にはこういう主張をする一派があります。フェビアン協会です。)

それが本来の資本主義の論理です。

しかし、国内経済への影響がどうのこうのとまた国民の利益を持ち出し、とても効率的な経営ができていたとは思えない、銀行や日本航空に多額の税金を投入して救済し、その一方で振興企業のスカイマークなどには最初から税金投入の話が出ないというのが、今の資本主義日本の真のあり方に他なりません。

つまり、建前は自由競争ですが、大企業は政府におんぶにだっこ状態でようやく成り立っているのが残念なことに、日本経済の実態です。

この場合、日本政府はいい加減、大企業を甘やかさずに、経営者同士の競争を促すべきなのです。その際、低価格競争でお茶を濁すようなことをさせてはいけません。

はっきり言って、コストカットなどはさほど優秀な人でなくてもだれでも思い浮かぶのです。

だから、日本企業が、人件費に手を付けて何とか日本経済や企業経営を立て直そうとした時点で日本企業の経営者の質はたかがしれています。

日本でリストラにあった技術者が海外の企業に救われて日本企業のライバルになってしまったなんていう皮肉な話もあります。(お隣の国の家電メーカーなどです。)

だから、法人税・人件費もろもろ諸外国の大半と少なくとも同レベルに戻してそれを維持し、今こそ非価格競争で勝負する土壌を日本企業に付けさせなくてはなりません。

コストカットしか能のない企業にはいっそのこと日本経済から退場してもらうのが日本のためです。

もっとも、私は社長さんが実際に働いている人々を締め付けて競争を勝ち抜こうというあくどいやり方がこれでなくなるとは思っていません・強いて言えば、価格で勝負しないクレバーな経営者にとっては、ある程度の規制強化はあまり問題にならないでしょう。

働いている人を締め付けるような経営者を見たら、古典派経済学の祖アダムスミスは草場の影で泣いていると思います。

なぜなら彼にとってのマーケットは神の見えざる手の奇跡が起こる場所ではなく、共感という人間で最も大切な感性を磨く場だったのですから。

スミスの文脈でのなすに任せよは、国王の私的利害を実現するような特権商人を追っ払って、振興商人と同じレベルで勝負させろというものです。

そうであるなら、今の自称民主主義国家、実態は金持ち貴族政国家と大企業との結託をスミスが間近で目撃した時、恐らくスミスは大企業の特権を奪ったうえで、フェアな競争をさせるでしょう。

そのフェアな競争が成立していないのが現在の日本であるという状況認識をまず持って頂きたいと思います。

そのフェアな競争空間が成立しないところで競争を煽り立てるのは、実は自分が勝者になれる確信がある、既得権益を持った人々なのです。

だが、既得権益を持つことができる可能性にある社会のピラミッドのあるグループにいることと、実際に既得権益を持っていること、そして既得権益にしがみつこうとすることは全く別の話です。

運動レベルではよくごっちゃになって議論されてしまいますが、運動は最大公約数の単純な見解で無ければ、分裂してしまうため、ある程度雑な世界観でも、自然発生的に、アマチュアが多く集まるのだから、目くじらを立てて、専門家ぶるつもりはないのです。

もちろん、運動の外から運動を邪魔しないことと、運動の内部から運動のやり方についてその間違いを指摘するのも全く別な話で、運動の総論の大まかな方向性に同意することができても、細かいやり方では大いに反省せいというのはよくある話で、その観点こそ研究者という、運動に直接関与している人々から距離を置いて、且つシンパシーはありながらも、その熱狂に巻き込まれまいとするポジションからの観察です。(最近は研究者でも、そもそも運動にシンパシーがないのに、ウェーバーの「価値中立」などを持ち出して、自分の「価値中立」を主張する人々もいますが、ウェーバーはそういう態度こそ厳に戒めています。)

その前提を踏まえたうえで、多分既得権益を打破しようとする運動の力強さは、既得権益を現に持てる可能性のあるグループに向いてしまうことによって、例えば公務員はもらいすぎているだとか、実に雑なカテゴリーで運動を先鋭化させている気がします。

こういう運動が好きな人々は、実は新自由主義論者に多そうです。

実際、公務員の中でも、高卒程度で採用される用務員のような仕事はいわゆる背広を着て仕事をする公務員よりもほど遠い過酷な労働環境で、なおかつ低賃金の労働をしているでしょうし、一見文化的な職業に見える、司書なども、典型的な官製ワーキングプアなのです。

この辺りに敏感な人々は、恐らく「既得権益」という言葉を余り使わず、一見すると公務員バッシングのアンチとして、既得権益を保持しようとしている勢力という負のレッテルを貼られることになります。

つまり、お前たちは、労働者の味方気取りで、実はわが身がかわいいのだろうと。

そういう労組があることも否定はしませんが、やはり画一的なイメージである一つのグループを語るということからいい加減、目覚める時が来たようです。

つまり、本当に既得権益に預かれているのは、既得権益を持っていそうに見えるごく一部の人々であり、その中にも構造的に既得権益から逃れられない人もいれば、既得権益をますます増やすために、自らを既得権益の解放者に見立てて、「普通の人」の味方を装い、既得権益に預かるライバルを消していこう、あるいは自分の既得権益の邪魔をする人々の影響力を削ごうとする思惑で動く人々がいるのです。

まさに、彼らこそ、「新自由主義者」であり、普通の人を装って、もらいすぎを激しく攻撃するのですが、実際には自らが競争に勝てる条件を周到に満たしたうえで、いかにも自分が競争をのし上がってきたように見せかける、一種の世襲貴族層でしかないのです。
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先日は谷口富士夫先生の講演会にご来場頂きありがとうございます。
18時30分終了のところ、質疑応答が盛り上がり、19時まで延長して行いました。
当日は「事実と意見の区別」が大切という話から、その教訓が役立った事例として「教員追い込み部屋」裁判の話が取り上げられ、その後先生のご専門であるチベット仏教について、インドからチベットに仏教がどのように伝播したのかというお話を中心に、講演がされました。
講演は活動記録のために録音させて頂き、著作物なのでネットなどでの公開はもちろんできませんが、先生のご厚意で当日関心を持っていたが来場が叶わなかった方々で、もし関心がある方があれば録音の視聴自体は構わないというお許しを得ておりますので、民青名大班までお気軽にお尋ねください。

さて、ブログ活動を活発化させる第一弾として、コラムをお届けします。長いので数日に分割してお届けします。

新自由主義の論者はしばしば、民間に任せれば競争がもっと盛んになって、サービスが良くなるということを言います。

確かにもし公務員が、親方日の丸で公務員の利益、労働者の利益だけを考えてサービスを行っていると仮定したら、民間でサービスが改善される余地はあるかもしれません。

しかし、ここで慎重に言葉の意味を吟味しなくてはならないのは、「民間」という言葉です。

この言葉の意味を吟味するには、ちょっと回りくどいですが、政治における「公」と「私」の区分の話をしなくてはなりません。

もっともこの文章は論文ではないので、結論だけ申し上げます。

公=政府、私=企業・家庭、NPOなどはこの中間というのが大体主流の見解だと思います。

つまり、政府が実はお役人の利益しか考えないなんてことは往々にして起こりそうですが、かと言ってスローガン(標語)のように言われる「官から民」への流れを実現するということは、実は政府がやっていた仕事を家庭や企業に任せますという話なのです。

ところで、企業は原理的には企業の利益を追求する組織であり、そのままの原理を貫けば公的利益を実現できるはずはありません。

みなさんはここで、CSR(企業の社会的責任)などを思い浮かべ、メセナ(企業が芸術のパトロンになる)や民間研究助成金などを想起されるかもしれません。

しかし、そういった行為は企業広告を兼ねており、私的利益の延長でもあります。

また、仮に公的部分があったとしても、企業の仕組みから原理的に導かれない以上は、「外」からやってきた足枷に、社長さんが人徳が高くて積極的に従っているか、もしくは宣伝になると渋々やっているかの違いはあるにせよ、社会からの「規制」による仕組みです。

事実、企業が社会的責任を述べるより早く、大学は研究の社会的責任に言及しています。

ですから、企業は私的利益を優先する組織である以上、企業が公益を実現するとしても、その実現は結果的なもの、付随的なもの、つまり必然ではないということです。

もし、企業が私的利害である採算を度外視して公益を追求しようとしたら、企業は潰れてしまいます。

ですから、どんなに社会貢献に燃えた社長さんがいても、最終的に自分の会社を優先させて、その余力で社会貢献をしなくてはならないという今の経済の仕組みの外に出ることはできません。

話題を変えましょう。

私的領域には家も含まれるという話をしましたが、日本は伝統的に相互扶助を自発的にも強制的にもやってきた国柄(地域性)であることに違いありません。

いわゆる欧米の国家による社会保障には馴染みが薄く、日本で有力な社会保障の仕組みのほとんどは、国民が自分の働いたお金で強制的に保険をかけておくというシステムなので、基本的には働かなければメリットを得られない社会保障の仕組みばかりなのです。(生活保護が全予算の何パーセントを占めるのか見てみるとよいと思います。)

さて、ここに施設よりも住み慣れた家に住みたいというご老人がいらしたとします。

国は官から民への流れで動いていますから、家庭でできること、自分でできることは自分でという流れで、このご老人の希望は一見すると叶っているように見えます。

しかし、よく考えてみればわかることですが、もし官から民へという流れを貫くなら、財源や権限も国から手放さなくてはならないはずです。

ところが、このデフレ下で、介護が必要なご老人のお世話をして差し上げる資源も人材も国に潤沢にあるとは思えません。

確かに、みんなを施設に閉じ込めておくという介護システムは、姥捨て山のようなもので、職員の懸命な努力にも関わらず、むしろさらにご老人が病んでしまう場合もあれば、画一的に面倒を見ているような印象も受ける訳です。

ところが、仮に資源も人材も潤沢ない状態でご家庭に帰ってきた場合、家族もご老人もますます困窮し、衰弱してしまうケースは容易に予想できます。

だから、ここで確認しておかなくてはならないのは、在宅介護が盛んな国では、家族の面倒を見る時間がきちんと確保できる仕組みが法律で保障され、家族が面倒を見きれない部分を外から支える仕組みがある程度整備されている現実があったうえで、初めて在宅介護が成立しているという現実です。

確かに硬直的に細かい日常の端々まで国家が規制するとすれば、よく事情を知らないくせにという怒りが沸くのも当然です。

しかし、冷静に考えてみれば、ある理想の状態、この場合ご老人を何とか施設に送らず、地域や家庭で生活できるようにするを実現するには、既にその現実がある程度実現している事例を国内外から検討して、かつその方法を絶対視してその方法をダイレクトに日本に持ち込むのではなく、現在の日本の状況に合った仕組みを自分の頭で考えなくてはなりません。

とするなら、相変わらず国家は「福祉財源」と称して、税率を引き上げていますが、その引き上げ分だけ家計の買い控えが起こり、税収が期待通りに向上せず、さらに法人税を引き下げていくので、税収全体が大きく落ち込んでいき、社会保障に支払う費用を捻出できず、結局十分な権限・資源を提供できぬまま、あとの介護は家庭にお任せ!と投げられたのが、現在の状況ではないでしょうか。

この状況で当面考えることは、差し当たりの経過措置として施設の質を維持する、そのうえで家族だけに過剰な負担が及ばない在宅福祉の仕組みを整えるために、国が地域が安心して自分たちに合った福祉の仕組みを考えていけるように、その条件整備をするのが最優先課題であるはずです。

そういう意味で「官から民」によって単に政府が国民の租税にただ乗りしてサボることを助長するような仕組みを自分たちから進んで作ってはいけません。

(2)につづく。

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