異花-インド・ブータン旅行記⑦「サドゥーの生き様」- | 翔べ!ぶるぶるまくら天国!ー覚醒編ー

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 徒まくら処-洞蘭-のゆかいなゆかいなまいにちです。



貧者に施しをする力を有していながらその義務を放棄し

不施(ほどこさず)の生き方をするのであれば

それは逆刃の刀を持って戦に出掛けて行くようなもので

甲斐がなく道に背いた地上人生であると

インドから帰り著しく思うようになっていったのだった。

さて先述のとおり聖地リシュケシュはサドゥー(修行者)の暮らす町。

修行者といっても一概ではなく

苦行をする者、物乞いする者、ぼけーとしている者

いつもガンジャ(大麻)をやってる者

そして何だか胡散臭い者。

リシュケシュ3日目の朝、まだ日の昇らないガンジスの辺を

さわさわ歩いていたらばまだ若いサドゥーが近づいてきた。

「一緒に写真撮ってもいいかい?」

携帯持ってるんですかい。

一応サドゥーの身分にクラスチェンジするためには

師のもとで修行をし認められなければならないの正規なようだが

あからさまそんな過程を経てるようには見えなく

いわゆるなんちゃってサドゥーらしき者も多い。

そういう者たちは外観からしてまだ俗っ気が残っている。

彼らと話してみると前は医者であったとか何だとか

煩わしい家庭や社会から逃れるためにサドゥーになる例もあるという。

まあそれっぽい格好をしてサドゥーだと名乗れば

サドゥーなのだ、それがインド。

そんな風のごとき捕らわれなき流浪(るろうに)の生き方は

なぜか幼少のころからずっと憧れを抱くものがあって。

るろうにでなくとも山奥で自給自足の隠遁生活なども夢であった。

しかしインドから帰り少し変わってしまったようである。

まったく純粋に自分のためだけの厭世生活であるのならば

それは人間本来の使命に反する様に思えてきたのだ。

たとえば世に貢献できる人間となるために一時隠棲の身に置き

そのための修行をせんとするなれば理にかなった動機もあろう。

児童労働に強いられている子どもたちのために

サドゥー同士で物乞いをしたお金を集めて

学校を作ったり全うに生活できる場を提供してあげたり

厭世者でも何か世のため人のために生きることができよう。

 

つまり肝心な部分は隠遁してもしなくても変わらないということ。

その「慈悲」という名の飛天御剣流奥義を繰り出せるか否か。

そうすれば逆刃の刀も業障の雲を貫く光陰のごとく

強敵を打ち破るべき名刀へと生まれ変わろう。

さてそんなサドゥーやホームレスなどから学べる生き方もある。

それは家や財や職がなくても人間生きてゆけるということである。

近頃は就職難ごときを理由に自ら命を絶つ

哀れで仕方がない学生達が急増中であるらしい。

もしあなたの周りに自殺志願者がいましたら言ってやって下さい。

「どうせ死ぬならその前にインドに行っとけ」と

そして「帰ってきてから死ねぃ」と。

そんなどうらんも帰国後に財と職とを失い

「ジャパニーズサドゥー」になろうとしているところだ。

切実に笑えない(笑)







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