震災ボランティア記\宮城県亘理町での活動概況 | ダイアローグ・ドキュメント

震災ボランティア記\宮城県亘理町での活動概況


去る4月22日(金)~25日(月)まで、宮城県亘理町に震災支援ボランティアに行ってきた。


東日本大震災発生以来、高速、鉄道網が寸断される中、あまりの被害規模の大きさに、何とか自分も協力できないかと模索していた。
以前から縁のある社会福祉協議会のボランティアサイトの情報(ボラ市民WEBhttp://www.tvac.or.jp/ )をずっと見ていたところ、幸運にも中野区社会福祉協議会http://www.nakanoshakyo.com/ からのボランティア派遣隊に加わることができた。

亘理町は、仙台の南方に位置する、南北約10k、東西6-7kくらい。周囲を阿武隈川が取り囲むように流れる景観の美しい町。


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奇しくも、この時期桜が満開だった。
ボランティアセンターは海から離れた山際にあり、周辺には地震の爪痕はほとんど見られなかった。


【4/22:現地移動~テント村】

 -9名の派遣チームでマイクロバスに乗り、東北道を現地まで移動。渋滞なく、約6時間で到着。
 -ただし、福島県から宮城県にかけての高速道の路面は、地震の影響で全体が細かくうねっていて、そこで車がバウンドしつづけるような状態だった。
 -亘理町災害ボランティアセンターで受付を済ませ、隣接する小さなテント村に入る。


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  ※ボランティアセンターには、災害救援関係の設備・備品類が豊富に揃っていることに驚く。
   ゴム手袋、マスク、ゴーグル、長靴から、スコップ、一輪車、バール、それに救急箱に至るまで何でも借りることができた。


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 -近くに自衛隊が設営したお風呂(※通称・自衛隊風呂)があり、ボランティアも入れてもらえる。
  設備もサービスもよく、実に快適。


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 -食料も豊富で、ボランティア向けの炊き出しも行われていた。


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 -その日はそのまま簡単な夕食を摂って就寝。
  さすがにテントは寒く、寝袋の上にさらに毛布にくるまって眠った。足には厚手の靴下、手には軍手をはめて、何とか寒さをしのぐ。


【4/23:雨天、写真類の清掃・整理】

 -天候悪く危険のため、津波被害家屋の泥だし作業は中止となる。
 -朝8:00過ぎから、センター内で、マッチング(=仕事の割り当て)が行われる。
 -センタースタッフの若者がマイクを握り、実に慣れた手際で、依頼案件の割り振りを行っていく。
  東北弁の一見頼りなさげな話し方ながら、案件情報のインプット、会場全体への配慮、割り振りの手際があまりに見事なため、女性ボランティアの人気者だった。


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 -力仕事や水道・電気が不通となっているような場所は、「男性限定」。反対に物資の仕分け等の軽作業は「女性限定」とされているものもある。
  ボランティア側は、そうした募集内容を聞いて、自分に合ったものに手を挙げていく。
 -荒浜地区という、阿武隈川と海に囲まれた、もっとも被害の大きい場所にある荒浜小学校体育館で、自衛隊の捜索作業中に発見された写真・貴重品類の清掃・整理作業を行うことになる。


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  このあたりを中心に、亘理町では約300名の人々が亡くなっている。
 -写真のような状態で、箱にぶっしり詰められた写真貴重品類から、絡みついた泥・藁等を落とし、簡単にふき取って展示していく。
 -実にいろいろな写真がある。


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  家族写真、仲間との旅行写真、赤ちゃんの写真、写真館で撮った写真。
  中でも一番多いのが家族でのアルバムだ。結婚に始まり、子供が大きくなるまでの家族の歴史がつづられたものもある。
  ときおり目につく親子の写真を見て、この人たちは生きているのだろうかとの思いが過ることがあった。
 -昼食休憩時、近辺を散策してみた。
  阿武隈川はすぐ近くを流れ、堤防からは外洋もすぐそこに見えた。東北東から押し寄せた津波が、堤防の壁を突き破った場所に土嚢が積まれていた。
  そこから陸側を見下ろすと、津波が、電柱をなぎ倒し、家々を襲っていた様子がよくわかった。


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【4/24:晴天、公民館の泥だし作業】

 -朝目覚めると、前日行った慣れない作業のため、背中と両腕が若干凝っている。
  疲労抜きも兼ね、早朝の誰もいない町を、海まで往復約10kジョギングした。
  海の近くまで行くと、遠くに蔵王連山の真っ白な稜線が朝日に照らしだされていた。


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 -晴天の日曜日、朝センターに集合したボランティアは、優に300名を超えていた。
 -昨日の荒浜地区とは、鳥の海をはさんで南の反対側、長瀞地区に行くことになる。

  このあたりは、ハウスでのイチゴ栽培が盛んだったとのことだが、ハウスは津波で破壊され、そのパイプの残骸だけがわずかに残っていた。


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 -約15名で現場に着くと、地区のおじさんたちも同じくらいの人数で一緒に作業をすることになった。
 -地区の集会場の中に堆積した黒い泥を、スコップでかき集め一輪車に乗せ外に出す。
  外に出した泥はトラクターのショベルに乗せかえてさらに別の場所に運ぶ繰り返し。


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 -農家のおじさんたちは、体力もあり、実によく動く。
  ボランティア側も、慣れない作業とはいえ、負けじと作業に精を出した。
 -堆積した泥にはいろいろな層があり、粘土のようなねっとりしたものから、ヘドロのように黒くべちゃべちゃしたものまで。
  粘土タイプは重い上に、藁や細かいがれきが絡みついていて、中々スコップが入らない。
  べちゃべちゃタイプは、スコップで投げたときに跳ね返りがすごい。
 -大勢でやったので、意外にも早く、昼過ぎには作業は終了。
 -車に分乗してセンターに引き上げ、またまた自衛隊風呂へいき、汗を流す。
 -センターに戻ると、前日小学校での作業で一緒だった名古屋の3人グループと再会し、労をねぎらい合う。
  しばし歓談した後、その日名古屋に帰るとのことで、車で走り去っていった。


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【4/25:朝は晴天、民家での泥だし作業】


 -この日東京へ帰る予定のため、午前中での撤収が許される案件に行く。
 -南部吉田地区の民家での泥だしは、まず床板とはずし、床下にたまったヘドロを搬出し、そこへ消石灰をまいて消毒し、さらにその上に荒砂をかぶせる、の繰り返し。
 -男女各2名で行ったのだが、仙台市内から初めてボランティアに来たという女性2名グループの男子顔負けの馬力に驚く。
  聞けば、柔道とサッカーをやっているとのこと、道理で。
 -民家の床下からのヘドロの掻きだしは、床の梁が邪魔になって予想以上に体力を消耗する。
  おまけに、湿気、臭気、埃も凄まじい。
  男でも1時間も続ければ筋肉が凝ってくる作業を、女性たちが一緒になった多くの現場で進めている状況には、感心させられた。
 -ところが、作業がはかどり始めた昼前、天候が急変してにわか雨が降り始め、おまけに雷も鳴ってきたため、ボランティア作業全体の撤収が決まった。
  安全第一なのだ。
  もちろん、中断した作業は、翌日以降も別のボランティア要員に引き継がれる。
 -センターに戻ると、急いでテント内の荷物を整理し、名残を惜しむ間もなく亘理町を後にした。



東北道を約5時間バスに揺られ、首都高に入ってくる。見えてきた東京の夜景は、これが東京かと思うほど薄暗かった。


震災ボランティア記2