芥川賞と宮本輝・『錦繍』/久々の赤坂距離走 | ダイアローグ・ドキュメント

芥川賞と宮本輝・『錦繍』/久々の赤坂距離走


■最高に寒い日だったが……


2月12日(今日は誰かの誕生日だったかな?)、 前の日に終日降り続いた雪は朝方に一旦上がったものの、気温は0度ちょっとしかないくらいの寒さの中、気力を奮い起こして家を出る。
久々に赤坂東宮コースで行われたSWAC・A練習に参加。

いつもの恵比須顔で受付をするOコーチに迎えられると、「今日は寒いですね」と言うものの、彼自身は手袋もしていない。
走り始める前から、再び雪が降り始めた。
先週は三浦トレランの試走、来週土曜日は本番なので、無理せず㌔5:00グループで15~20kの間を走るつもりでスタート。Tコーチの先導は久しぶりだが、相変わらず軽い走りが頼もしく、先頭で併走させてもらうことにする。
三浦試走の筋肉疲労も概ね抜けて、最初のうちこそ足が軽かったが、1周・3.3㌔の中に2度繰り返す赤坂名物のアップダウンのため、3周・10kを超えた辺りから早くも脚が疲れ始めた。
結局少し余裕を残して5周・16.5㌔で終了。
まあ、今日のところは、これくらいがちょうどいい按配だろう。
その他メンバーも、この時期様々なレースにスケジュールがはさまれて、5周程度でパラパラと終了する姿が目立った。



■芥川賞受賞作を読んでみたが……


アジアカップ特集が組まれている今週号の『Number』を買ったときに、たまたま目について『文芸春秋』も一緒に購入してしまう。今月号には、先日報道されたばかりの芥川賞受賞2作が掲載されているからだ。
単行本で買うより遥かに割安なので、貧乏根性で時々買ってしまうのだった。

26歳の新人女性・朝吹真理子の『きことわ』、43歳の苦労人作家・西村賢太の『苦役列車』が受賞作なのだが、まずは選考委員の「選評」を読む。
『きことわ』の方は、10人いる委員のうち、石原慎太郎を除いてほとんど好評で、中には高樹のぶ子のように絶賛しているものもある。

「ほお、そんなにいいのか」と思いつつ『きことわ』から読んだのだが、結論としてぜんぜん面白くなかった。
苦痛とまでは言わないが終始文章に集中できず、文芸春秋で僅か50ページ程の物語を読むのに、足掛け3日も掛かった。

選者が言うには、文章が非常に優れていることに加えて、重層的な時間の行き来を描く技術が卓越しているのだそうだ。
たしかに、文章がある程度うまいのは自分にも分かる。それでも、面白くないことには変わりがない。


一種の「幼なじみ」である、貴子と永遠子という8歳離れた2女性が主人公だ。
舞台は、葉山を中心とした三浦半島。
葉山にある貴子の家の別荘を舞台にして、幼い日二人は出会い打ち解けた日々を共にする。
事情があってその後は離れ離れになったのだが、あるきっかけで、25年後、同じその別荘で再会する。
そのごく短い時間が、2人の記憶や想いが織り交ぜられて切り取られているところがいいらしいのだが、自分にはその良さが分からなかった。


たしかに、人生のごく小さな一場面を切り取るという手法の小説は昔から多くある。
例えば、梶井基次郎の『檸檬』なんかもそうだ。
自分には、残念ながらこの『檸檬』の良さも、正直に言うとよく分からなかった。
そうした作品を評価する批評家が言わんとする理屈は分かるのだが、作品自体は、やはりあまり面白くないのだ。


鎌倉、逗子、葉山、城ヶ島……、この小説に登場する場所は、どれも三浦半島のいわば「都合のよい場所」ばかりのような気もする。それらは、いずれもバカンスの舞台ではあっても、生活の場所としてのイメージは薄い。
それに対して、三浦半島には、半ば米軍に占領された横須賀もあれば、先週トレラン練習 をしたような地域もある。
それどころか、その大半は、住宅地と工場と農地と荒野と高速道路が混在する、何とも雑然としたエリアだ。
農地はあっても、里山がない。
少ない平野部に工場やそのための道路を目一杯作っているので、狭い土地にそんな余裕が残されていないからだ。したがって、住宅地と山の間に僅かに残された空間は、使い道がなく荒れて雑草が茂り原野となっている。

このような現実の目で三浦半島を知っている者が『きことわ』を読めば、少女時代の自分達だけの記憶に終始するストーリーに、いくら文章が多少優れているからと言って、身を任せることはできないのではないか。

その場所が地元である石原慎太郎も、そうとは言っていないが、おそらくは似たような印象を持ったことと思う。



■宮本輝・『錦繍』を読む


宮本輝も芥川賞作家の一人だ。
70年代に若くして受賞したのだが、年齢は意外にも村上春樹と3つしか変わらず、今では芥川賞の選考委員も務める。


昔から好きな作家だ。
好きな理由は単純で、文章が綺麗で、描かれる情景や物語も洗練されていて美しいだからだ。
子供の頃読んだ、『泥の川』や『蛍川』は素晴らしかった。
どんな話だったかすでに詳しく憶えていないが、恋する二人が無数の蛍の光に包まれる『蛍川』のラストシーンは、今でも鮮明に憶えている。


『錦繍』(新潮文庫刊)は、1982年、作者35歳のときに書かれた小説だ。
読み損ねていたので、ふと思い立って読んでみたのだが、30年の時の経過を感じさせない素晴らしい内容だった。


ダイアローグ・ドキュメント

夫27歳、妻25歳という、若い日に離婚した夫婦が、その10年後に偶然再会し、それがきっかけでやりとりを始めた手紙だけで、小説全体が構成されている。
手紙は全部で10通ほど、小説の長さは文庫で250ページ以上。だから、ものすごく長い手紙で、しかもその文章が極めてうまい(作者が書いているから当然!)ので、それ自体少々不自然なのだが、そんなことは全く問題にならない。


離婚を巡る事情は、実に重い。
同じ大学の2年後輩の美しい女の子を、一目ぼれで見初めて結婚したのに、「夫」は結婚の1年目から不倫の泥沼にはまる。不倫相手は、中学の頃両親と死別して預けられることになった、北陸の寂れた漁師町で同級生だった美少女。ある日、この美少女と忘れがたい甘美な体験をする。その体験は、まるで三島由紀夫の『潮騒』の雰囲気を漂わせる淫靡なものだった。


この時の記憶は「夫」の意識の深層に刻み込まれ、結婚しても消えることはなかった。
その同級生と京都で再会し、不倫の泥沼に落ちていくことになる。
その最後は、いつも密会していた京都・嵐山の旅館の部屋で、真夜中に同級生から無理心中を仕掛けられて重傷を負うという凄絶なものだった。その箇所の描写がとても恐ろしいので、少しだけ引用しておこう。


それは、ある夜ふとしたきっかけから別れを切り出し、そのまま眠りについた後だった。


 ……私の中にふたつの心がありました。やはりあぶくみたいに湧いてくる嫉妬、それと安堵でした。これで何

 のトラブルもなく別れられるという身勝手な安心感が、私に妙におとなぶった鷹揚な態度を取らせていました。

 私たちはそのまま蒲団に入ると目を閉じました。しばらく寝付けませんでしたが、そのうち私は眠ってしまいま

 した。
  右胸のどこかに重い痛みと熱のようなものを感じて目をあけたとき、由加子(※同級生の女性)が私の横に

 坐り、切れ長の目をひきつらせているのが見えました。その次に由加子が私に覆いかぶさって来た瞬間、首

 に焼火箸を当てられたような激痛があって、私は無意識に由加子をはねのけると立ち上がりました。ぬるぬる

 したものが首筋や胸のまわりに流れ、蒲団の上に血が流れ落ちるのが見えました。私は由加子の顔をほん

 の少しの間、見つめていましたが、そのまま視界が暗くなり何も判らなくなって行きました。


この無理心中で、恋人は死に、妻とは互いに未練を残しながらも離婚することになった。

ここまでが、物語の概ね前段だ。
「夫」の方は、離婚後いわゆる表社会から真っ逆さまに転落していく。「妻」は再婚するが、幸せは得られない。このような手紙のやり取りを始めることになったのも、過去の夫のことをまだ愛していたからなのだった。


男女の情愛のもつれ、京都の夜……、こうした道具立ては、一歩間違うと渡辺淳一のエロ小説にもなりかねないのだが、たとえ同じ材料を使っても、出来上がった料理がまったく異なるのが宮本輝の作品だ。


奇しくも現在一緒に芥川賞の選考委員をしている作家・黒井千次が、最後に正確な解説を寄せている。
黒井の言葉を借りれば、この小説の素晴らしさは、男女の情愛を越えて、2人の男女が、長い手紙のやりとりを通じて、生と死の本質を悟り、その中で自分達ががんじがらめになっていた過去を断ち切り、さらにその先に未来へのたしかな希望の光を手に入れるところにある。


「妻」は、現在の夫と再度離婚し、障害を持ったわが子に人生を捧げる決意をする。「夫」は、なし崩しに同棲していた今の「女」とありふれた普通の人生を始める決心をする。
その世界認識の絶対的な転換の過程が、モーツアルトの音楽や臨死体験を織り交ぜながら鮮やかに描き出される。


都会の公園で、ランニングの途中に、思いがけずさわやかな風に吹かれたような、鮮烈な印象を残してくれる小説だった。