現実に立ち向かう力を/川上未映子『ヘブン』 | ダイアローグ・ドキュメント

現実に立ち向かう力を/川上未映子『ヘブン』


2011年の始まりにあたり、昨年読んだ川上未映子の『ヘブン』という小説に触れておきたい。


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読み終えて、いや読んでいる間中、まさに重量級のインパクトを受けた。
簡潔な、洗練された文体で、読む側にどんどん迫ってくる。


作者芥川賞受賞翌年の長編小説作品だ。
『ヘブン』というタイトルは絵画の名前からきているのだが、うわさではシャガールの『誕生日』という作品のことらしい。


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 ※米、MOMA美術館蔵


※以下、いわゆる「ネタばれ」があります。


主人公の少年・「僕」は中学生で、学校で苛烈ないじめを受けている。
あるとき、同じくいじめを受けているクラスメイトの少女・「コジマ」から手紙をもらい、そこから2人の交流がはじまっていく…。
簡単に言うと、いじめを題材にした小説だ。


「僕」がいじめられている端的な理由は、生まれつきの斜視だから、というように見える。
彼は、いじめグループから「ロンパリ」と呼ばれている。
一方、コジマの方の理由は、彼女が「汚い」から。
髪も梳かさず、風呂にも入らない。服も靴もは汚れっぱなし。しかも、体臭がにおう。
まるで、いじめてくれと言わんばかりだ。
だが、その「汚さ」には根拠があった。彼女は意図してそうしていたのだ。
それは、小さな工場を営み、やはり日常的に身なりが綺麗とは言えなかった大好きな父親のことを忘れないためだった。
なぜなら、父母は離婚し、今は父親はそばにいないから。


「いじめる側」の主要人物は、秀才で坊ちゃんの「二ノ宮」、そのグループの「百瀬」。
この二人は、人物としては同じようなスペックでありながら、その役回りは決定的に違う。
表面上のリーダーは二ノ宮だが、それを背後で操っているのは百瀬であるように見える。
百瀬は表立っては何も行わず、また行う動機さえも持たないようだが、いつもグループの背後にいて、二ノ宮さえも百瀬を頼っている。いや、それだけではなく、百瀬に自分を認めてもらえるかどうかの不安を二ノ宮は抱えてるようでさえある。


この作品の衝撃は、だれもが1度や2度はいじめられた経験があるから、あるいは仮に無くても、いじめる側いじめられる側の相克を目の当たりにし、そのどちらかの当事者になることにおののいた記憶から来るのだろうか?
いや、そういうことではないような気がする。では、それはなぜなのか?……。


強引に粗筋を括ってしまうと、この小説は、大きく4つのパートから成り立っている。
 ※実際には、9章立て。


■パート1:「僕」とコジマの親交の深まり、見ることのなかった「ヘブン」


手紙のやりとりが繰り返され、しばらく経った夏休みのはじめ、「僕」とコジマは一緒に電車に乗って美術館へ出かける。
コジマがそこへ誘ったのだった。「ヘブンにいく」のだと言って。
休日の美術館は混んでいて、しばらく見ているとコジマは疲れた様子になって、外へ出て休む。
結局「ヘブン」を見ないまま、二人は美術館を後にする。
「ヘブン」とは何だったのか、という疑問が読者に残される。


■パート2:暴力事件とその後の2人の変化


ある日体育館で凶暴ないじめを受けた後の、僕とコジマの会話シーン。
コジマの言葉を通じて、いじめの真実が掘り下げられる。
「いじめられている側の自分達は、実はそれを(勇気を持って)受け入れている」
「いじめる側こそ、本当は自分達を怖がっている」
「自分達は弱いが、この弱さは意味のある弱さだ」
「まわりでいじめを傍観しているクラスメイト達は、実はいじめに加担している」
「(今日も暴力的ないじめをいらすら受け続けた)君(の姿勢)は正しい方法で、ちゃんと意味があることだ」

そのコジマの語り口の勢いに、読者は、このコジマが語る「真実」が、この作品のテーマではないかと、一瞬錯覚する。

ところが、この暴力事件をきっかけにして、「僕」は次第にうつ状態に陥っていく。
何ごとにもやる気が起こらず、夜は眠れず、自分の行動を意識的にコントロールできないようになる。
コジマは変わらず手紙やメモを頻繁にくれるが、それにすら、返事を書かなくなってしまう。


■パート3:百瀬との「対決」


そんなある日、病院で百瀬に出会い、何を思ったか自分から話しかけてしまう。
だが、百瀬とはいわば筋金入りのニヒリストで、到底「僕」が太刀打ちできるような相手ではなかった。
「なぜいじめるのか」、「暴力をやめろ」、「放っておいてくれ」、「君達にそんな権利はないはずだ」と「僕」は百瀬に迫る。

だが、最後の一言がまずく、百瀬につけこまれる。
権利? 権利があるなしでいじめたり、いじめられたりするわけじゃないだろう、と。
君がいじめられたくないということと、周りがいじめることとは全然関係ない、まったく別のことと言い切られる。
さらに、斜視なんて別にいじめの理由じゃない。それどころか、別に君である必要すらない、たまたま君がいただけと。
完全に存在そのものを否定されてしまう。
その瞬間、「パート2」でコジマから与えられたかすかな希望の光が、脆くも崩れ去る。


■パート4:いじめグループとの「最終決戦」


しばらくして、久しぶりに「僕」とコジマは会って話をする。
そのころ、コジマは食事を摂らなくなって、だんだんと痩せてしまっていた。
彼女によれば、それも、「汚い」ことと同様、自分が自分であることの「しるし」(※=証)なのだという。
そこで「僕」は、斜視の手術が簡単にできること、その手術をしようと考えていることを、コジマに打ち明ける。
ところが、予想に反して、それにコジマは猛反発する。
斜視こそが、君が君であるしるしなのだ、と。それは君の一番大事な部分なのに、それが分からないのか、と。
さらには、自分だけ手術をして逃げるのか、いじめからも私(コジマ)からも、と激しく問い詰める。
その出来事を機に、二人の関係は一旦途絶えてしまう。

いじめは相変わらず続いていた。


しだいに、コジマの様子にも変調が見え始める。
ある日、コジマから公園で会おうという手紙がくる。
だが、行ってみると、そこには、コジマだけでなく、いじめグループの男女もいた。
だれにも知られないはずだった二人の関係は、とうの昔にいじめグループに掴まれていたのだ。
いじめグループは二人に対して、その場で性行為を行うように迫る。

「僕」は抵抗するが、殴られ服を剥ぎ取られ、結局何もできない。
次に、コジマの服も脱ぐように迫られたとき、思いがけないことが起こる。
にわかに降り始めた雷雨の中でコジマは自ら全裸になり、いじめグループに向かっていったのだった。
ただ、暴力で立ち向かうのではなく、怪しげな微笑を浮かべ、一人ひとりの頬をなでる。
恐怖に駆られたいじめグループは、二ノ宮と百瀬の二人だけを残し、公園を逃げ出していく。

コジマと百瀬の「対決」は、さながらニヒリズムと価値絶対主義との戦いだ。
その凄まじさは、原文に触れるしかない。

その「最終決戦」は、住民に目撃され、中断してしまう。
その日を最後に、コジマは「僕」の前からいなくなる。


以上4つのパートが、実に大雑把だが粗筋だ。
最終シーンは、「僕」は結局斜視の矯正手術を受け、新しい世界に眼を見開くことになっている。


■作者の創作姿勢に関する見解


平成21年度芸術選奨に選ばれた川上未映子は、その受賞式会場での挨拶で次のようなことを語っている。


 …(作品は)表現をする人によって、それを評価してくださる方によって全然受け取り方も違いますし、目標も

 環境も 理想もまったく違って、表現、芸術というのは、すでに存在的なあり方をしてしまうことから逃れられ

 ないんですけれ ども、私は芸術においては“絶対”というものがあると信じています。で、その絶対的なも

 のが、ほんの一瞬のことなのか、だれかと共有できるものなのか、それとも、見せられるものなのかというこ

 とが未だ分かりませんが、そのあるかないか分からないけれども、どうしても信じてしまっているので、その

 “絶対”を一人でも多くの人と共有できるように、そして、1回でも多く体験できるように、全身全霊で、腕も折れ

 ろとばかりに頑張っていきたいと思います。


「絶対というものがあると信じています」、何というきっぱりとした言明だろうか。
この言葉から、作中の「コジマ」とは、姿形こそ違え(※実際、川上未映子は女優もやっているくらい「美形」である)、作者の権化であったことが分かる。
その「敵」は、いうまでもなく「百瀬」だ。

川上は、哲学教授の永井均を師と仰いでいるらしい。女流文学者でありながら、わざわざ通信教育で大学の哲学過程を専攻して学んでいる。永井教授はニーチェの熱心な研究者で、その思想に独自の見解を持っている。以前、『これがニーチェだ!』という著作を読んで、そのニーチェ解釈の独創性と力強さに感銘を受けた覚えがある。



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川上の構想には、ニーチェ的なニヒリズム批判と善悪二元論の超克が思い描かれているのだろう。

さらに、同じ芸術選奨の会場でのインタビューで、若者へのメッセージを求められ、次のようにも語っている。


 皆生きている場所、環境によって、考え方とか違うんですけれども、その環境とかは何で変わるか分からな

 くて、その自分のできることとか、その才能とか呼ばれる部分ていうのも、どんどん自分の力だけじゃなくて

 他の大きな力と共に変わっていったりするので、つまりそれは長く生きてみないと分からないことばかりなん

 ですね。とにかく生きてみないと分からないですね。なので、悩みがある人も、今が楽しい人も、自分がすべ

 てを決めているのではなくて、いろんなものの流れの中の一つかもしれないっていう角度も持ちつつ、今出来

 ることをしっかりすると、全部先につながっていくので、精一杯私も頑張りますし、一緒に頑張りましょう。


その率直で真直ぐな姿勢に、強い感銘を受ける。
「…自分がすべてを決めているのではなくて、いろんなものの流れの中の一つかもしれないっていう角度も持ちつつ、…」という見解の背後には、現実に立ち向かう力としての宗教性さえ示唆されているように見える。


■『ヘブン』が示す「善悪の彼岸」


しかし、その率直な文学姿勢とは裏腹に、小説の構成は実に周到で緻密だ。しかも、多様な示唆に富んでいる。


そもそも、なぜこの表題は『ヘブン』なのか?
コジマが美術館で「ヘブン」にたどり着けなかったのは、何を意味しているのか?


コジマという女の子の生きる姿勢は、すさまじい。
まるで超人を求めるニーチェの思想そのものだ。

しかし、いじめに苦しむ「僕」を支え、希望の光を与える一方で、自分の価値基準の中に「僕」を引きずり込もうともする。その力は想像を絶するもので、ひょっとしたら、コジマはいじめグループと周到にグルになって僕を攻撃しているのでは、という疑念すら途中で思い浮かんでしまう。


ところが、真実はそうではなかった。
コジマは自らの一身を賭けていじめグループに立ち向かい、「僕」を救う。しかもその「救い」は、直接にいじめグループを撃退したという以上に、真実の価値を身を以って「僕」に示したのだった。
西洋形而上学とキリスト教を批判しつづけたニーチェが、豪雨の夜に倒れ、それ以降廃人となってしまう運命とオーバーラップする。
これを描ききった作者の腕力には、敬意を抱くより他ない。


「ヘブン」とは、求めるとそのつど遠ざかり、結局はたどり着けないかもしれないが、必ず在り、それを求めて人生を賭ける価値があるもの(※つまり、「絶対的なもの」の象徴)、ということになろうか。



現代日本を象徴する特質をひとつ挙げるとすれば、それは「現実逃避」ではないだろうか。
政治・外交における諸外国への屈服、文化におけるネットコンテンツやゲームの隆盛、生活環境における少子化・ひとり世帯の増加、「草食系男子」、「女子会」等等……、どこを向いても、現実に立ち向かう力の喪失を示す出来事ばかりだ。


そういう中で、一女性作家が、まさに「腕も折れろとばかりに頑張って」、渾身の力で描いてくれた現実への対決の物語を、喜びと共にがっちりと受け止めなくてはならないだろう。

川上未映子は、この小説を通して、「あなたは、自分の身近な現実をしっかりと受け止め、その意味を考えているのか?」、「自分の周囲の人たちのことを、真剣に考え、正面から向き合い、理解しようとしているか?」と、強く問いかけているように思える。



最後に、本作の中でもとりわけ美しい2つのくだりを、引用しておこう。


 ※いじめグループとの対決の最後のシーン
  ……僕は裸で笑ったまま仰向けに倒れて動かないコジマの肩をかかえて起こし、雨でぐちゃぐちゃになっ

  た制服のかたまりをたぐりよせて身体にかけた。雨は弱くなっていた。いちだんと陽の光は強くなり、コジ

  マの皮膚が白っぽく輝いて見えた。コジマは僕にもたれて、笑いながら泣いていた。僕に笑いかけながら

  その両目からはたくさんの涙があふれ、泥と雨にまじってながれていった。痛かっただろう、と僕は言った。

  コジマ、痛かっただろう、痛かっただろう、そればかりを繰り返した。僕の目からも涙がぼろぼろとこぼれ 

  た。…(中略)…。コジマ、と僕は何度もコジマの名前を呼び、肩をさすった。コジマはなにも言わずに笑

  いながら泣きつづけていた。僕はコジマの首を抱いた。僕の目からはとめどなく涙があふれ、それがコジ

  マの顔にぽたぽたと落ちて、コジマの涙と雨にまじって消えていった。それは悲しみのせいで流れた涙で

  はなかった。それはたぶん、こうして僕たちはゆく場所もなく、僕たちがこのようにしてひとつの世界を生き

  ることしかできないということにたいする涙だった。ここ以外に僕たちに選べる世界なんてどこにもなかった

  という事実にたいする涙だった。ここにあるなにもかもに、ここにあるすべてにたいする涙だった。僕はコジ

  マの名前を呼びつづけた。しばらくして人がやってきた。毛布をかけられて大人たちに抱えられて去ってし

  まうまで、コジマも僕を見ていた。それが僕が見た最後のコジマだった。
  コジマはたったひとりの、僕の大切な友達だった。


 ※斜視の手術を終えた後のラストシーン
  僕が立っていたのは、並木道の真んなかだった。
  僕は両目をとじたまま右目から眼帯をはずした。それから眼鏡をかけて、ゆっくりと、目をひらいた。
  それは僕が想像したこともない光景だった。
  …(中略)…。
  なにもかもが美しかった。これまで数えきれないくらいくぐり抜けてきたこの並木道の果てに、僕ははじめて

  白く光る向こう側を見たのだった。僕にはそれがわかった。僕の目からは涙が流れつづけ、そのなかではじ

  めて世界は像をむすび、世界にははじめて奥ゆきがあった。世界には向こう側があった。僕は目をみひら

  き、渾身のちからをこめて目をひらき、そこに映るものはなにもかもが美しかった。僕は泣きながらその美し

  さのなかに立ちつくし、そしてどこにも立っていなかった。音を立てて涙はこぼれつづけていた。映るものは

  なにもかもが美しかった。しかしそれはただの美しさだった。誰に伝えることも、誰に知ってもらうこともでき

  ない、それはただの美しさだった。
                                 (※以上、川上未映子作、『ヘブン』、講談社刊より)