翻訳こにゃっく


Amebaでブログを始めよう!

外国との共同制作、外国人スタッフと作るアニメって実際どうなのですか?

原文  February 15th, 2007

Question:
鉄コン筋クリートでは、マイケルアリアスという、日本人ではない西洋人がアニメ映画の製作監督になった最初のアニメだという見出しを飾りました。アニメのファンとしては、監督の生まれた国に関わらず、あらゆるアニメのクオリティや作りこみを楽しみたいのですが、どういうわけか、私はこの問題に少し心が揺れているようです。私は敬虔なアニメファンです。日本アニメの概念とは、日本人個人によって監督された日本の開発製作チームが、明確に日本人視聴者向けにつくるものだというイメージがあります。(これは、どこかで読んだことがありますが、押井守の考えにとても近いものです)

アリアスは多くの、海外で作品を作ることを切望している(そしてもちろん資格のある)アニメファンに、その夢への門戸を開きました。しかし同時に、私はいまだ、日本のアニメは、何か独特で、限りなくピュアなもの。日本の文化の、西洋に触れてほしくない一部分であってほしいとも思っているのです。このことを、ビジネスマンとしての、アニメファンとしてのあなたが、どう思っているかに関心があります。


Answer:
これは多方面から反対意見が出て荒れることが推測される、かなり刺激的な質問ですね。偏狭な考えだとか、最悪人種差別だという類の汚名を被らないよう、注意して回答しなければならない質問でもあります。なるべく潔く具体的な回答をするよう心がけたいと思います。


今まで何度も私は、“アニメ”とは単に“アニメーション”の略であるという理屈に直面して来ました。それゆえ、前田俊夫のエロティックホラー、うろつき童子と、ディズニーの名作バンビの分類はするべきではありません。なぜならどちらもアニメーションのそのものであるからです。しかしながら私には、論理的にディズニー映画を“アニメ”という分類に入れることはできません。それは私の短所でもあるのでしょう。それと同時に、“アニメ”とは、ステレオタイプの日本的特徴、すなわち明るい色、型にはまったキャラデザイン、大きくつぶらな瞳、大げさな映像シグナル、などを表現したアニメを識別するのに使われるジャンル用語である、という意見にも私は直面しています。この定義だと、Wonderful Days、Yeu Woo Biなどの韓国製品や、アメリカのアニメメーション、ティーンタイタンズも“アニメ”に当てはまります。しかし、もし映像デザインが“アニメ”の分類を決めるのだとすれば、型にはまらない日本アニメ、Dead Leaves、風人物語、天使のたまご、ドラゴンズヘブンなどは“アニメ”から外れるものとなります。


私は、アニメとは生来の日本の文化的、芸術的影響に起因し、それが染み付き、表現しているアニメーションのことをいうのだと信仰する派閥に属しています。実際的な問題として、その方針は日本のアニメーションに表面的に似せただけのもの、物理的に日本で作られたが、日本のクリエイティブなデザインでないもの、それらはアニメではないということを意味しています。だから韓国とアメリカが作る、日本風のアニメーションは理論的にはアニメではありません。また、ラストユニコーンやサンダーキャッツのようなアメリカからの依頼で作られた作品も入りません。しかしながら、文字通り日本のアニメーションとしてのアニメの定義は、日本人以外のアーティストによって指揮された日本製の作品、または日本原産で、日本のニュアンスと感受性を表現した作品も含むことを考慮し、日本国外での製作にかかわらず、評価することもあるかもしれません。


映画鉄コン筋クリートはアメリカのアニメーター、マイケルアリアスが監督した作品であるかもしれませんが、アリアスは映画製作の前に、およそ十年間日本に住んでおり、鉄コン筋クリートは日本人的感覚に帰化したアメリカ人によって作られたという論点もありえます。日本人の感受性に彼は深く自然に精通していて、それが映画に映された作品なのです。鉄コン筋クリートは、日本的な考え方で日本人視聴者を主に想定してはいるものの、日本人以外の監督に指揮された、最初の日本スタジオ製のメジャー作品であるかもしれませんが、ある意味で、外国人が監督した最初のアニメではないのです。1998年のショートアニメ映画、1001Nightsは、天野喜孝がアラビアンナイトの叙事詩を思い起こさせるイラストを表現したミュージカルで、アメリカ、カナダ、イギリスで全て製作されたにも関わらず、大いにアニメであると考えられています。日本人アーティストである天野喜孝のイラストを別にすれば、1001Nightは理論的には日本がまったく関わっていないアニメ映画なのです。しかしこの映画は日本語DVDしか売っていません。そしてさらに重要なことに、純粋に納得するぐらい、日本の作品であるように感じるのです。天野喜孝の日本的な芸術の精神と考え方は、1000Nightsアニメという分類から外れているという考えが、広く明確に間違っているように思わせます。


事実上、私は日本のアニメ作品が民族的に純粋な製品でなければならないとは示唆していません。実際、アニメは1960年代以降、日本人のみで作られていたわけではありません。日本のスタジオは一般的に韓国や他の東南アジアの国々と下請け契約を結んでいます。私はまた、アニメという認識の資格を得るために、日本人アーティストのみが作品を監督しなければならないとは主張していません。スタジオ4Cはアメリカ人監督に門戸を開いており、スタジオジブリはそれに倣って一緒に働いてくれる外国人アニメーターを探し出そうという計画を公式に発表しました。この流れに沿えば、日本人アーティストによって作られるアニメーションという、厳密な定義としてのアニメは、すぐに時代遅れで不正確なものになるでしょう。かといって批評家と視聴者が、アニメは変わるべきだと期待したり、連想したりする性質になることを、私は示唆しているわけではありません。私が常に考えているように、アニメとは日本のアニメーションなのです。しかし、日本のアニメーションは厳密に日本人によって日本国内で作られたものだと私が考える一方で、アニメ産業自体の進化は、妥協しない日本の職人気質を表現するものがアニメという定義へと、わずかな原理の変化を必要としています。実際の問題として、日本人アーティストの心に起因した、自由な日本的な想像力、感受性、姿勢を表現したアニメ作品はそのアーティストの民族に関わらず、アニメと呼んでよいのかもしれません。ある意味、アメリカ人が監督したものですが、それでもなお鉄コン筋クリートは日本のアニメーションです。なぜなら日本発で、日本アニメーションの芸術性を示しているからです。同様に、1001Nightsも日本国外で製作されたものですが、アニメの映画と考えてよいのかもしれません。なぜなら日本のアートに起因し、日本のアートの特徴性を示しているからです。しかし、Wonderful Daysやティーンタイタンのような、日本のアートに表面的に類似しただけの作品は、"anime inspired"(アニメから発想を得た~)または"anime influenced"(アニメに影響された~)と、これからも分類されるべきでしょう。


この区別は、人によって独断的で利己的に見えるかもしれないとは思います。これは個人的な定義であり、読者から受け入れ、認めなければならないものではないことも認めます。しかし、これはアニメの形式の進化を有効に説明し、批判、分析を容易にするのに十分な正確さを残しながら、妥当かつ必要な区別になると思います。この利己的かもしれない定義は、何がアニメで何がそうでないかの比較的正確な基盤を支えるためには、充分緻密であり、日本のアニメーションのグローバル化を認知できる定義であると思います。Animeという五つの文字は日本のアニメーションの広大な領域を明確にし、ただ日本のアニメーションを真似ただけの作品を除外するには少なすぎる文字数(日本語だとカタカナで三文字です!)かもしれませんが、現時点では、日本人以外の監督に指揮された、または日本国外で製作された日本のアニメーションを区別するのに新しい言葉は必要ないとおもいます。さらに、日本のアニメーションを定義する一つの言葉としての“アニメ”の維持は、再定義や改変を行わなければ、日本のアニメーションのニュアンス、クオリティ、テクニックを完全に吸収し、形作る才能のある外国のアニメーターに門戸を開く可能性があるのです。



----

訳しがたい上に長文すぎて死にました。



翻訳に際してちょっと紛らわしかったので。
日本だとアニメはディズニーだろうが何だろうがアニメですが、英語だと
Anime = 日本アニメ
Animation = 日本を含むアニメ(アニメーションと翻訳)
Animated Film/Works = 日本を含むアニメ映画、作品
という感じに使い分けがされてます。
今回はカタカナにせず英語のままの方が分かりやすかったかもしれません。


というか改めて見返すとかなり見難い文章ですね。もっと修行します。


追記:ご指摘を受けて、「残りのさらに緻密な部分を批判、分析のため討論するために」の部分を「批判、分析を容易にするのに十分な正確さを残しながら」に訂正しました。

どうしてゲーム原作のアニメは酷い出来なのでしょうか?

原文  March 2nd, 2007


Question:
なぜゲーム発のアニメは酷い出来なのがほとんどなのでしょうか?それと、なぜファンがアニメ化を望んでるゲームがあるのに、それらがアニメ化されることはあまりないのですか?


Answer:
アニメ製作に関わっていて、鋭い判断力をもち、さまざまな要素とその影響を理解できる人しか、ゲームのアニメ化の不備を充分に説明できないと思います。大抵のゲームにはアニメ化を支えるほど長いストーリーをもっていないからだという説がありますが、私はその説とは意見が異なります。アニメの作りとクオリティに影響する、もっと現実的な要因があるのではないかと思います。


詳細に入る前に、パソコンゲームとテレビゲームの区別をつける必要があります。基本的に、PCアドベンチャーゲーム原作のアニメは、テレビゲーム原作のアニメよりずっと面白いように思えます。それがたとえ、月姫やグリーングリーンのような比較的作りが悪いアニメだとしても、ワイルドアームズ、龍虎の拳、F-Zeroのようなテレビゲーム原作のアニメよりは良い出来です。ヴィジュアルノベルのゲームの方がアニメ化しやすいのはおそらく物語が直線的だからです。テレビの格闘、アクションゲームはキャラの経歴、設定と、たまにある見せ場などがありますが、きちんと練られた物語の基礎がありません。ヴィジュアルノベルは物語上に隙間のない、完全な小説なのです。


格闘、アドベンチャー、アクション、RPGはストーリーをもってるにも関わらず、プレイを通じて個々のプレイヤーが操作する、決められた成長の道のりと一体になっています。実力と知識のあるシナリオライターならば、面白く刺激的な脚本を元のゲームの骨組みから作り出せると、私は信じているのですが、それにはそのゲームに対する愛と、ゲームに忠実なストーリーを作ろうとするやる気が必要です。ゲームに肉付けするライターは、ゲームのストーリーだけでなく、原作の雰囲気やキャラの性格を知っていなければなりません。私は、シナリオライターが原作の表面的な部分しか見ておらず、原作の雰囲気や詳細をよく知らないのではないかという印象を受ける、ゲーム発のアニメを沢山見てきました。


ゲーム原作のアニメは、普通は原作のファン向けにつくってます。原作のファンを納得させるために、製作側は大抵、アニメ化に際してなるべく原作から沢山のキャラを登場させるようにします。しかしあいにく、少ない話数のアニメだと、全ての配役を出演させ、統一した意味のあるストーリーを作る時間をなくしているのです。闘神伝と鉄拳は特に、過度な数のキャラの登場によって、ストーリーとキャラの成長を少なくしてしまってます。サムライスピリッツのTVスペシャルは沢山のキャラの登場(と低いアニメのクオリティ)でひどい出来に終わっています。しかし、サムライスピリッツⅡのOVAだと、キャラの登場を限りなく削り、一人のキャラのストーリーだけに焦点を合わせました。その結果、このアニメは前作と比べ著しく良い出来になりました。さらに、ゲーム発のアニメは、新しいストーリーになる場合が良くあります。。ファイナルファンタジーアンリミテッドは、完全なオリジナルストーリーでした。桜大戦のアニメは、続編までの間のギャップを埋めていました。アニメ原作のマンガは、たいてい忠実で直接的に訳されますが、ゲーム原作のアニメは同じようにはなりません。総括すると、ゲーム発のアニメは大抵、アニメのクオリティを大事にするよりも先に、ファンに受ける作りにすることに専念されています。多くのキャラと原作の設定を登場させ、ファンに既にあるキャラの新しい側面を見せることは立派な目的ではありますが、少なくとアメリカのファンは、原作に忠実なストーリーと雰囲気を選ぶのだと私は思います。


最後に、今まで多くのテレビゲーム原作のアニメがファンに向けて作り出され、利益は原作のファンのみに想定されていましたが、私には、作り手はアニメ化に際しての努力が殆どされてないように感じられました。多くのゲーム原作のアニメは、原作の知名度を利用して製品を、素早く安く作ることができるように思えます。これらの製品が多くの視聴者を想定していないのならば、あまり沢山お金をつぎ込む理由はありません。惜しむべき事ですが、この業界の性質の一つなのでしょう。

エルフェンリートというタイトルには、物語とどういう関係があるんですか?


原文 March 21st, 2007

Question:
エルフェンリートを観ました。とてもすばらしいアニメでした。ところで、物語の中身とタイトルに関連性はあるのでしょうか。Lilyという美しいテーマソングにも関連性はありますか?


Answer:

私は、岡本りんの原作マンガにはあまり精通していないので、なるべくアニメからの情報にのみ頼って答えてみたいと思います。どちらにしろ、オープニングのアニメーションと曲はアニメ版のみ要素だとは思いますが、アニメ版の情報のみでも問題ないとは思います。


エルフェンリートというタイトルは、ドイツ語でエルフの歌という意味です。厳密に言えば、1888年にHugo Wolfが作曲した、Elfenliedという題名のクラシック曲のことです。原作の方では、にゅうにこの曲のことが教えられていますが、アニメには出てきません。エルフェンリートのアニメの中では、他にもいくつか古典的なヨーロッパからの事柄や影響を受けたものが存在します。私が思うに、主にそれには二つの理由があると思います。一つ目は、アニメではドイツの言語や文化に魅力を感じる傾向があり、。二つ目は、そういう属性がこのアニメのテーマの雰囲気をつくりあげているからだと思います。


タイトルのエルフェンリートはドイツ語で、エピソードごとのタイトル、たとえBegegnung(邂逅)やVernichtung(掃討)も同じくドイツ語です。このドイツ風の特徴づけはおそらく、他の沢山のアニメで有り余るドイツからの出典。例えば、うる星やつら-ビューティフルドリーマー、くりいむレモン-Nalice Scramble、うろつきどうじ、孔雀王、リングにかけろ、ヴァイスクロイツなどのアニメと同じタイプのものでしかないのかもしれません。しかしながら、このアニメの古典的ヨーロッパ属性に関しては、その限りではありません。オープニングソングのLiliumはラテン語で歌われ、アニメーションはオーストリアの画家、グスタフ・クリムトを象徴したつくりになっています。この古典的で、ロマンティックで芸術的な特徴を合わせ、薄暗い陰気な音色と雰囲気をアニメーションに付加しています。さらに、これらヨーロッパ芸術の引用は、このアニメのテーマ、ディクロニウスの人間からの自然進化というテーマは、ドイツ人の哲学者、フリードリヒ・ニーチェのUbermensch(超人)を思い起こさせます。ニーチェの「超人」の概念は、従来の禁則や限界を超越する、人の不屈の心理というものでしたが、これは従来の人類という概念、という広い意味に取って代わられました。文字通りの意味で、エルフの外観をした、エルフェンリートのディクロニウスという突然変異体は、意思と精神の力によって人の従来の限界を超越する人間として、超人というドイツの哲学的概念の文学表現を描写したのです。


総括して、正確にはアニメそのものに関しては、エルフェンリートというタイトルのヨーロッパ的特徴は、文字上の意味や関連性がストーリーに直接関係してるとは思えません。むしろ、このような特徴はアニメとその物語の雰囲気と主題の奇抜性を高め、それに焦点を合わせるためにあるのだと思います。


----



今回ならった英語


Diclonius
http://en.wikipedia.org/wiki/Diclonius
という単語があるんだと途中まで思ってました。


翻訳元の方にお伺いを立てたのですが、

AskJohnの記事および、ニュースの文章の転載は

AnimeNationにリンクを貼ってくれさえすれば、自由だそうです。