バイオインフォマティクス「人間の社会や企業のような組織も、ひとつの生命体」 | ノートさんのブログ

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第4章 ベルクソンと日蓮の「生命」のとらえ方

 

筆者は、ベルクソンと日蓮は「生命」をどのようにとらえていたのか、を考察する。

4―1 ベルクソンの説く「生命」と「法華経」の「生命」観

★ベルクソンの「生命」は「植物」「動物」。日蓮は国土も含む

 ベルクソンの生命の捉え方を「差異化の概略的シェーマ」(『創造的進化』第二章)としてジル・ドゥルーズ(1995)が示している(p114)。ドゥルーズは、「生命」とは、「動物」と「植物」であり、「物質」を除いているのである。

しかし、仏教は、生命を「有情」「非情」に分けている。有情とは、感情や意識を有している意味であり、それ以外を非情としている。日蓮は「草木成仏口決」(御書p1339)で「我等一身の上に有情非情具足せり」と述べ、人間の体の爪や髪は非情で痛身を感じないが、その他の部分は有情で痛みを感じる、と説明している。「三世間」では、衆生・五陰は有情、国土世間は非情である。国土とは動植物以外の物質である。日蓮が国土まで生命の範疇に含めていることは、環境などを考えるうえで極めて鋭い視点ではないか、と筆者は思う。

★ベルクソンの視点と法華経の視点

V・ジャンケレヴィッチ(1988)「哲学者は観客の視点にではなく俳優の視点に立っている」(p46)という。

「法華経」に「一念三千論」がある。「三世間」とは、「五陰」「衆生」「国土」の3つ。「五陰」は、「色・受・想・行・識」であり、一切の衆生はこの「五陰」が集まり、和合している、という見方である。

例えば「五陰」の1つ「受陰」は六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)で外界のものを受け入れる心の作用をいう。この「法華経」の視点は決して観客の立場ではなく、ベルクソン流に言えば演技者の立場であり、当事者の視点である。

★人間の社会や企業のような組織も、ひとつの生命体

「生命情報学(バイオインフォマティクス)」の研究者・小長谷明彦は、中島尚正他(2006)「2003年にヒトゲノム配列解析プロジェクトが終了した。」(p197)と述べている。ポスト・ゲノム時代のバイオインフォマティクスでは、中島尚正他(2006)「情報とシステムとしての生命体を見る」(p208)方向に向かっている。これは中島尚正他(2006)「人間の社会や企業のような組織も、ひとつの生命体としてできるようになるのである」(p209)と記述する。この生命体は、当然のことながら同じものはなく、特色をもっているのである。

現代の最先端を行く「バイオインフォマティクス」が法華経の「三世間」の中の「衆生世間」と同じ視点に立っている点は注目に値する。法華経で説く「衆生世間」とは、十界の衆生に差別があることを示している。