醜きものを直視することに吐き気が生じた時はその直視から目を逸らせばいいと思いがちだが、その-醜さ-が記憶に残ることのケースも否めないので「ああは なりたくない」と思いつつ直視しながら目を細めることによりその対象への「嘔吐感を伴うストレス」を私はおおよそ消滅させるのである。
「危険と危険人物」ということについてをまず以って考えてみる。

「危険」というのは『あぶないこと。生命や身体の損害、事故・災害などが生じる可能性のあること。また、そのさま。』のことであるのだから「危険人物」というのはそれら災いの類を呼ぶ者ないしは行為する者のことであろう。

これ(危険人物)は言ってみれば『実際における害や損といった「物理的なマイナス」を他者に及ぼす者』のこととして捉えることができる。

そしてこの「危険人物」とは、【他者にあらかじめ在る(私有)しているモノを「奪う」という方法による均衡の保ち方しかできない者】のことなのではなかろうか。

ただ、「危険人物」というこの表現には往々にして相対的要素が並行しているというところもあることから一般社会における「危険である」という観念 のなりたちは、【①自における均衡→②自における均衡保持にダメージを与えることが懸念される他に対する「危険」→③バリアを張る】という構図も然りであ ると考える。

しかし、この↑【「危険に対する懸念構図を構図せしめている思想こそが危険である」という思想】を私は持つ。何故ならば、上記①や②における意識 -その-殆どは「あらかじめにおき自の均衡が保たれている」という前提(ないしは錯覚)から起こり得る意識ではないかと考えるからである。

この-「私の思想」-は、一般社会からしてみれば【危険思想】なのかもしれない。と思う。
そう。それは自分の思想が『危険思想でありたい』という意識からでもなければ『危険思想であってほしくない』という意識でもないところでのあくまでも冷静に捉えてみて、『まあ一般社会上では然りだろう』という意味から、そう思うのである。
とある人物について、「その人物に目論見があるかどうか」は、「話の内容」-その-断片をただ読んでみただけ・聞いてみただけでは(それが断片でしかないわけだからして)確かめること自体困難である。

しかし、その人物の「述べ」全体を包含する【姿勢】により、その人物の目論見はわかるのである。


【倫理を外している】ということ。
【無根拠な差別意識が根底に流れている】ということ。


他者を踏みつけにしながらも「踏みつけている相手であるところの-その-他者」に対し、平気で手を差し伸べようとするその姿勢。

【自分が踏みつけておいて、その自分が「踏みつけられた相手」を哀れむ】という・・・。


踏みつけられた他者は、その-踏みつけた人物-に対し、「私を助けてくれた人」という錯覚を起こす。

偽善者がよく使う手だ・・・・・。

善悪がぶれている・・・・・。

目的は「敬慕されたいこと」にあるということが其処でわかる。
目論見は「錯覚者-その-利用」であるということも其処でわかる。


【此処】を見るだけでは決してわからないところの【其処】。


その全光景を見渡しながら、そしてその光景に深く溜息をつきながら、その光景とは無縁のセカイを生きることこそが理想であり、それが【美】である。