大谷吉隆…小姓を務め、のち越前敦賀城主となる。
関ヶ原の合戦で盟友石田三成につき戦死。
戦国武将の中では武勇で名を馳せた人物ではなかった。


彼はらい病を患い目も悪く、起居も不自由だった。
しかし、太閤秀吉は彼の人柄を認めて寵愛し、特別な待遇をした。
彼にとって故太閤秀吉は目をかけていただいたという以上に、永遠に忘れがたい恩義ある君主であった。
というのは、ある日、茶の席で彼が鼻汁を茶碗に落として、隣に廻しかねていた時、太閤はとっさに機転を利かせて、茶が冷めたろうと、彼の手から碗を取り戻し、そのままぐっと飲み干して、新たに点てたのである。
太閤の度量に、また深い思いやりの心に感激した彼は、太閤のためならいつでも死のう、とその時すでに死を決したという。


吉隆にとって、石田三成はその太閤の膝元で共に忠勤を励んだ愛すべき旧友である。

三成が会津の上杉景勝と結んで家康を倒そうと事を起こした時、これは無謀な事だと諫めた。
しかし、彼の見識と義勇を頼みにしていた三成は、逆に加担するように迫る。

吉隆の眼には勝敗は明らかに見えていた。

そこで、この戦いは民衆を無意味に苦しめるに過ぎないだけだと、考え直すよう懇々と諭し説得したが三成は頑として聞き入れなかった。

吉隆は、「三成の企てには止むに止まれぬ功名の念もあるが、また、亡き太閤を思う武士の情義も認めねばならぬ」と、悩みに悩む。そして、
「戦いは免れないものとすれば、何事も成し得ぬまま余命を貪るより、多年の友情に一身を捧げよう。ましてこの戦い、三成に勝利あるとは思えぬ。生きて空しく親友の屍を曝すを看るよりは、快く友誼に殉ずるこそ武士の本懐である」と、遂に吉隆は家康に反旗を翻して三成を助け、関ヶ原の一戦を家臣を率いて戦い、見事玉砕し、果てたのである。