母親をやめたい・・・・。私だって思っている。母親もやめたいけれど、人間業もやめたいよ。
それは体の具合が非常に悪いからだ。近々入院する予定である。
だから表題の本書を図書館で見つけたとき、「分かる、分かるとも」との気持ちでさっそく手に取ってみた。
著者の山口かこ氏は、一歳で父親と死別、空気が読めずに人を傷つけてばかりの母親に育てられ、大学卒業後すぐに結婚するも、夫は退職。山口氏が働きながら不妊治療を続け、流産を経て出産する、しかし子どもは二歳半で広汎性発達障害の診断が下された。
診断が下された日、著者は
「母子家庭とか、不妊症とか、いつも貧乏くじひいて。今度は障害!?なんで私ばっかり?!」
との気持ちに陥ってしまう。
正直な気持ちである。
とは言え、氏はすぐに冷静になり、子どもを療育に連れ立し、あらゆる場所に駆け込んだ。そのかいあってか、子どもはめったにパニックは起こさなくなり、公園でも遊べるようになった。
それでも著者の気持ちは晴れない。彼女は分ってきたのだ。療育は発達障害の特効薬ではないのだ。目の前の課題を一つ一つ丁寧にクリアしていくこと。明確なゴールは存在しない。そもそも「障害」なのだから病気のように「治す」ものではないのだ。
「なんだか出口の見えないトンネルにいるみたい。どこに向かって歩けばいいんだろう」
療育中にこんな雑談があった。
上の子は発達障害で療育に通っているママが、半年前に妹を出産した。彼女曰く
「上の子と違って、下の子はばっちり目が合って、笑いかけてくるからなんかテレちゃうのよ」
その発言を受けて、療育士が、
「良かったねぇ、思い切って二人目を産んで。やっぱり普通の子は親を癒してくれるもんね」
療育士の言葉に対して後に母親たちから批判が起こる。
「普通の子は可愛いけれど、発達障害の子は可愛くないみたい」
「わが子だもん。無条件で可愛いよねぇ」
しかし著者は母親たちの言葉に同調できないのだ。自分も普通の子の方がきっと可愛いと思うもの___。
障害を抱えたこどもを育てることは辛いことだと分かるので、私は著者におおむね同情的だが、どうしても理解しがたいエピソードがある。
発達障害の子どもの多くがお友達とうまく関われない。学生時代から、友達とうまくやることが「生きるための戦術」だった著者は、ともかく子どもに生きる術を身に着けさせたかった。
子どもが3歳ぐらいのある日、近所の親子を家に招いた。自己流のSST(ソーシャルスキルトレーニング)を実践しようと思ったのだ。
お友達は著者の子どもと遊ぶ気満々で、色々働きかけをするけれど、子どもは一人遊びに夢中で気が付かない。母親の介入でやっとお友達の存在に気がつくも、無視して一人遊びに戻ってしまう。お友達が子どものおもちゃに手を出そうものなら、即座に「返して」。
著者が子どもに、子ども同士で遊ぶように促すと、
「ママがいい」
著者は思わず怒鳴ってしまう。
「ママは○○ちゃんのママと遊んでいるから!!」
結局子ども同士が遊べないまま解散。
著者は「どうしてお友達と遊べないのか」と子どもになじる。
「友達と遊ばないと生きていけないんだよ!?」
「ママぁ~」と泣き出す子ども。更にエキサイトする著者。
「ママママ言うな!どうせ『ママこだわり』なんでしょう!?」
激しく泣き出す子ども。
「静かにして!」
「だっておくちが止まらないんだもぉぉぉん」←この言い訳、相当頭が良くない?
「静かにしなさい!」
ついに著者、三歳児に平手打ち。
一体この子が何の罪を犯したと言うのだろうね。
遊びなんて強要されてするものじゃないのに。
『母親やめても』では、子どもは障害児枠で保育園に入園。それでも著者は「フツーの親子になりたい」「子供の将来は・・・・」と相変わらず落ち込んでいる。
心にあるのは、子どもと心中することばかり。
やがてチャットにはまり、そこで知り合った妻子持ちの男と肉体関係を持ったり(著者の母親が一晩子どもを預かった)、変な宗教に凝ったりと奇行愚行を繰り返し、夫から離婚を申し渡されてしまう。
親権はどちらに。
以前医者から、発達障害の子どもには兄弟がいることがベターだとアドバイスされたことを思い出す。兄弟同士でぶつかり合うからだ。
夫の実家には、他の家族が同居している。いとこ同士兄弟同然で暮らすことで「生きる戦術」を身に着けられるかも・・・・。
著者はあっさり、親権を夫に委ねてしまう。
別れの日、子どもは楽しそうに母親である著者に手を振っている。
著者は思う
「ほらね、寂しいとか悲しいとか思わないんだよ。6年も一緒にいたのに。広汎性発達障害の子は人に愛着を持ったりしないんだ。たとえそれが母親でも。
小さいころは私が30センチ離れただけでも泣いていたこの子。あれは彼女の『こだわり』がママだったというだけ。母親を恋しいと思う気持ちとは別物なんだ。
でも私だって同じ。子どもが行っちゃう。なのに涙が出てこない」
「『微笑んだら微笑み返してくれる』親子の愛情はそうやって育っていくのだから・・・。
呼びかけてもこちらを向かない子どもに私は母親のまなざしを向けることができなくなっていた。
残ったのは自立できるように育てていくという義務感だけ___」
えっ、この人本当に母親をやめちゃったよ。
そりゃ私だって母親をやめたいよ。でも、死ななきゃ母親から降りられないと思っていた。
なんだか『くたばれ専業主婦』を書いた石原里紗氏と同じ匂いがするなぁ。
石原氏は専業主婦を「家畜」「年金も税金も納めない社会のごみ」と口を極めて罵っているけど、この人、離婚して親権は夫に渡してしまっている。自分の子どもをきちんと育てられなかったくせに、子どもを手放さまいと多少のDVやらモラハラに耐えて結婚生活を維持している専業主婦のことは責め立てるんだね。
とは言え、やっぱり山口氏を批判しきれない自分がいる。当事者でなければ苦しみは分らないからだ。
離婚から8か月後、氏は子どもと会う。一週間共に過ごし、最終日に子どもが呟いた。
「あっちのおばあちゃんちにずっといるんだと思わなかった。すぐにおうちにかえってくるのかと思った・・・・」
子どもが夫の実家に帰る日、子どもは新幹線の中でずっと泣いていたそうだ。小さいころみたいに大きな声で泣くんじゃなくって、黙って涙をぽろぽろこぼして・・・・。
送り届けは著者の母親がやってくれた。著者は母親を「発達障害の気があり、一緒にいると恥ずかしかった」と批判する割には、結構利用している。
離婚当初、夫の実家で住みはじめた子どもは数カ月毎晩泣いていた。
姑曰く
「あの頃は毎日荒れていてねぇ・・・・。泣き喚いたりそれこそ毎日取っ組み合いになることもあったよ」
離婚後見つけた子どもの落書き帳に記されていたのは「ま」の字ばかり。ママのまだ。
障害があるといっても、母親の愛情を必要とする一人の子どもだったのだ_____。
著者は離婚してから初めて子どものことを思って泣いた。「ごめん・・・!!」と。
でもやっぱりこの人は親権を取り戻そうとしない。相変わらず数カ月に一度面会し、母親ごっこを続けている。
子どもは9歳になった。子どもがこんなことを言った。
同居しているいとこの七夕の願いは、「お姉ちゃんと仲良くなれますように」。
「これって、私とは仲良くしたくないってことだよね?私のことが嫌いなんだよね?」
と子ども
それに対して著者は
「兄弟仲良くしたいだけで、あなたのことが嫌いなわけじゃないと思うよ」
とアドバイス。
どんだけ鈍感なんだよ!
これ、SOSじゃん。障害があって、人づきあいが苦手なのに、いとこと同居させられてどんなに肩身の狭い思いをしているか!
著者は子どもと丁寧に接してくれている夫や姑、いとこたちに感謝の気持ちを記しているけれど、実際に同居して面倒みているのは義姉か義理の兄嫁でしょ?彼女についてはなんの言及もない。
著者は障害のある子どもを産んでしまって、「貧乏くじをひいた」と嘆いているけれど、障害のある子どもを押し付けられた姑や義姉、兄嫁こそ貧乏くじを引かされている。
著者は自分の生活でいっぱいいっぱいで、養育費も払っていないんだろうな・・・・。
本書は母親から見ると、「私は障害児を見捨てました」の物語。
子どもから見ると、「母はやっぱり私を嫌っていました」。
著書の後半で自閉症当事者の詩とも手紙ともつかない文章が引用されている。
引用はじめ
『私たちのことを嘆かないで』ジム・シンクレア。
「自閉症」は人を閉じ込める殻ではありません。
中に「普通の子ども」が隠れているわけではないのです。
「うちの子が自閉症でなければよかった」
「この子の自閉症が良くなりますように」
その嘆きは、その祈りは私にはこう聞こえます。
「自閉症でない別の子が良かった」
両親が語りかける夢や希望に私たち自閉症者は思い知るのです。
彼らの一番の願いは、私の人格が消えてなくなり、もっと愛せる別の子が私の顔だけを引き継いでくれることなのだと・・・・。
引用終わり
著者は、「広汎性発達障害じゃなくなりますように。」
そう願うのが子どもへの愛情だと信じていた、でも「幻の子ども」を追いかけるのに夢中で、子ども自身を見ていなかったと思い知る。
だからこそ、もっと子どものことを考えてあげてほしいな。夫の実家のそばに引っ越すとか。
とは言え、当事者ではない私には何も言えない。
著者のお子さんには幸せになってほしい。
著者は老後お子さんに頼ることは一切ないように。
なお、母親である著者のことばかり責める論調になってしまったけれど、夫もかなり悪いと思う。
音楽家への夢があるのに、著者に言い出せずに結婚してしまったこと。無職中なのに安易に子作りに協力してしまったこと。
妻が心を病んで他の男に走っているのに、いつも他人事。
障害を抱えたこどもがいるのに、自分の時間をこよなく大切にして。
著者は夫や実母に子どもを預けて一晩中遊んでくることがあったが、夫も夫で連絡なしに外泊をすることが多々あった。
著者も、時期ではないというのに「家族をつくる」という夢に向かってまっしぐらで、結果を出そうと焦ってばかりだった。
そして、最悪の結果がこれで、お子さんがただただ可哀想だ。
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後記
この感想文を書いた当時、私は二歳児の母親だった。母親が親権を放棄する、それだけはやってはいけないことだと思っていた。
今私は二児の母となり、上の子は4歳である。
正直、上の子はもう可愛くない。
夫と子供のしつけの仕方をめぐって喧嘩になったとき、私は言った。
「もし私たちが離婚したら、上の子の親権はいらないわ。あんたが引き取って好きに育てろ」
さすがに夫はぎょっとした顔をした。
「私の経済力じゃ二人を育てるのは無理だもん。下は赤ちゃんだから母親が必要だもん。裁判所だって、あんたが上の子の親権を取ることは認めるわよ」
そう、母親が親権を取らなくてはならないなんて、明文化された法律はない。
ただこの国は女性の権利が低すぎるために、世間から親権を押し付けられるだけだ。
この著者だって、障害があって、決して自分に笑いかけない子を9歳まで育てたじゃないか。
もう十分である。
とはいえ、やはりたからちゃんの将来が心配である。障害があってさらに父子家庭である。
これで離婚事由がだんなさん側にあったら、「罰ゲーム」として親権を夫側にゆだねるのもあ
りだが、この本のケースは、奥さんの山口かこ氏が浮気していたからなぁ・・・。
離婚も、親権が父親が取るのもありだが、もう少したからちゃんに寄り添った結論は出せなかったものだろうか。