ユング「神の正義も災いも、無償の愛に起因して、無償の愛の中に成立している。」
地震や災害、金融破綻やリストラ、事件や事故や病気、自殺やテロ、
お金がない、食べ物がない、あっても何か足りない、もっと欲しい、
刺激的な体験や知識や不満足を満たしたい…
今生きている人は、これからも大小色々な苦しみを受けるはずです。
一瞬先は常に闇です。
何もしていないようでも、何もしていないことをいいことに、メディアから、他の人から、色んな情報を埋め込まれます。
ニューエイジ運動http://satehate.exblog.jp/16716168
マインドコントロールhttp://iwatachi.com/mcsogo.html
フジテレビ、TBS、メディアやディズニーの実態http://2chrood.blogspot.com/2011_08_01_archive.html#4167351551767519341
風の征するモレアhttp://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/96.html
フリーメーソンとは何かhttp://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/770.html
アメノウズメ塾①http://www.youtube.com/watch?v=zWPAktCuzK4
どうして苦しまなきゃいけないの?
どうして飢餓はなくならないの?
どうしてあの子たちは殺されなきゃならないの?
儀式殺人http://apocalypsenow.jugem.jp/?eid=18
一七年間で二千五百人もの儀式殺人をしたチャーチル、ナチスにつながる悪魔主義者アレイスター・クローリーhttp://satehate.exblog.jp/12836154
IMFも国連も企業も国も、政治家も役人も与党も野党も、右翼も左翼も、
イルミナティもフリーメーソンもサンヘドリンも天皇も、どうして民衆の味方をしないの?
どうして人命よりお金や権力をとるの?
どうして歴史には、戦いの、殺戮の、虐殺の歴史ばかりなの?
どうして世界は目覚めないの?
どうして日本は解体されていってるの?
どうして隣人同士でいがみあうの?
神さまがいるなら何とかしてくれないの?
神さまって何なの?
…
「ヨブ記」には、そういうことが載っています。
神さまは完璧ですか?
完全だから、神なのではないのですか?
どうやら、ここに出てくるヤーヴェはちょっと違うようです。
今回、ユング「ヨブへの答え」がきっかけで、初めて聖書を読むようになりました。
聖書は神話なのでしょうか?
それなら、どうしてそれにそって出来事が起こるのでしょうか?
話がそれてしまう前に、
「ヨブ記」について。
旧約聖書はどこもおもしろい。いや、考えさせられる。
ゲーテはこれをもとに『ファウスト』を発想したし、
ドストエフスキーはここから『カラマゾフの兄弟』全巻を構想した。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0487.html
神に「信」を貫くヨブの物語です。
つまりは、人間が神を超え、それを知った神は人間になりたがった。
イエス、あるいは人間の誕生につながる壮大なお話です。
導入部にある内容です。
こころ=ゼーレ
「こころの告白は真実であればあるほど単純で
単純であるほどみんなに親しまれ、
親しまれるほど共通のものとなり、
共通のものであるほど自然であり、
自然であるほどそれだけ神に近い。
自然は教師であり、こころは弟子である、神こそは教師の師そのものである。
こころ(ゼーレ)がその最高の師(神)から受けとるものをあなたはうちなるあなた自身のこころを通じて理解することが出来る。
感情を揺り動かす心を感じ取りなさい。
こころは、未来を暗示する予言者でもあり、
前兆を予感させる解釈者でもあり、
結果に対する保護者でもあることを思いなさい。
神から授けられたこころが人間に予言出来たらすばらしい。
こころが自分を授けた神を認識するとしたらもっと素晴らしい。」
『ヨブ記』では古より人間社会の中に存在していた神の裁きと苦難に関する問題がのっている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%96%E8%A8%98
(ウィキを読めばあらすじや、何を言わんとしているかが大体わかります。)
ヨブには、妻と息子7人と娘3人、使用人、財産があった (1:1-3)。
彼は、町の門に座す者で、老人や君たちから尊敬されていた (29:5-11)。
彼はヤハウェ の目から見ても義人[1] であった (1:8)。しかし、ヨブの忠誠に対して疑いを投げかけた悪魔サタン は、彼のすべての財産と家族を失わせる (1:7-22)。
それでもヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」 (1:21)。といって揺るぎない信仰を示す。さらにサタン はヨブにひどい皮膚病[2] をかける。妻には神を呪って死んだ方がましだとさえ言われるが、ヨブは忠誠を保ち続けた。ヨブの3人の友は駆けつけるも、あまりの惨劇に悲嘆し、7日の間、一言も慰めの言葉をかける事もできなかった (2章)。ついに3人の友はヨブに語りかけるが、その言葉はヨブにとって暴言で不当であった (12:4、16:2、19:2、26:2)。ヨブは仲間に自分が罪を犯した故に災いを被っていると非難されるがあまり、忠誠を堅く守り続けるも自己弁護に過ぎてしまった (32:2)。それゆえ、エリフ に神より自分を義なる者とする事を咎められ、ヤハウェ 自身も現れて神の見地がいかに人間より高いかを知らしめた (32-41章)。こうして、ヨブはへりくだり3人の友のために祈り、まったき忠誠を保った事を証明すると、病は治され、神によって以前の2倍の財産を与えられ、子供たちにも恵まれ、4代にわたって孫を見るほど長生きして幸せな後半生を送り、140歳まで生きた (42章)。
「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。
神は正しい者に祝福を与えて罪を犯した人に災いを与えるという因果応報の原理(因果応報は、倫理観を引き出す強い力になるが、社会的弱者や病人には過酷である。)を盾に、元の境遇に戻るために、ヨブが罪を認めて神の信仰に戻ることを求めるというものであった。しかし、ヨブには思い当たるふしがなく、えん罪を主張する。
友人たちは、神はこの世を正しく裁いており、その裁きに疑念を抱く余地はないと執拗に繰り返し、ヨブが罰せられた以上、彼は間違いなく何らかの罪を犯したのであるから、神と和解して正しい教えを抱き祈るのが答えであると諭す。また、神の前では正しい人間など一人もおらず、それぞれがその罪に応じた罰を受けるものであると主張する。ヨブは神だけが把握している認識できない罪まで問われるのは正当でないと反論する[25] 。
当初からヨブは無垢な信仰を持っていたが、サタンによる試練や友人との議論をきっかけに、災いと罪との安易な関連づけに疑問を持ちながら、神自身の登場を待つところまで信仰について深く踏み込んでいく。ヨブは議論を経て、塵である自らを(無償で)贖う方の存在を予告し、因果応報と異なる世界観の存在を宣告する[26
- 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(ヨハネ9:2)
- 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(同9:3)
創造の神と救済の神は同一である。 神は引き下がるヨブに発言を求める[39] 。しかし、ヨブは自分の小ささを知り、神の活動の目的の中心に人間がいないことを理解して満足して退く[40] 。神はヨブに神を取るか、自分を取るのか選択を迫る。
「お前はわたしが定めたことを否定し/自分を無罪とするために/わたしを有罪とさえするのか
(以下、気になったところを引用します。おそらく、こういう神学的な?無意識と対峙する分野に興味がある方は少ないと思いますが。。
私にとっては、神話や象徴というのが、自分のことのように大切に思えるので、とても興味が湧くんです。。)
神の正義も災いも、無償の愛に起因して、無償の愛の中に成立している。
神とは何か、サタンとは何か、神とサタンは同じものなのか等の様々な疑問は残るところで、ヨブ記には、(本来は記述すべきであった)記述しきれない情報が大量にあることも理解しておく必要がある。
ヨブは事あるごとに無に等しいと宣告され、認めているのにさらにヤーヴェは攻撃する。
ヤーヴェ自身に唯一対抗することのできるサタンを無意識の中に隠すために、哀れな神のしもべヨブを標的とした。
無意識的ないき者の振る舞いであって、それを道徳的に判断することはできない。
すなわち、ヤーヴェは現象であって、ひとにあらずである。
主人公ヨブが神の権威の前に平身低頭し、デミウルゴスの大いなる判決を無条件で認めるとつげた、その瞬間に幕を下ろした。
人間が神について苦しむのと同じように、神も人間について苦しまなければならないからである
神と悪魔は本体と影のようなもの。
世界がくるみで、悪魔はその殻である。
最高善という言葉があるということ=善の欠如があるということにほかならない。
ヤーヴェの姿は、完全な神とは違い、矛盾している。
キリストがいたなら、
贖いによって、神との調和がもたらされるはず…
でも、されているようには見えない。。
精霊により懐胎されたキリスト
=神が被造物である人間の中に懐胎された
=人間が神の息子の地位まで、神人の身分にまで高められた
詩篇6節
わたしは言う、「あなたがたは神だ、あなたがたは、みな、いと高き者の子だ。
http://kky.4j4u.net/Bible/Ps/82
…
つまりは、自分の中の無意識を意識するということ。
インナーチャイルドと言ったりしますね。
http://innerchild.money-pop.com/iyashi.html
個人の無意識から、人類の集合無意識まで、「癒し」を広げられるといいですね^^
どんなことでも、一足飛びには行きませんが。。
小さな善から始まる
~一日で善人にはなれません~
http://www.j-theravada.net/howa/howa137.html
・善とは、悪がうまいこと隠されていることであり、
悪とは無意識に行為することである。
動の瞑想(無意識を意識する)というのは、本当に、「心」を癒してくれるものです。
「普通は、心もからだも自分のコントロールと関係なく動いているものと思っていますが、仏教で言うのは自分の意識で動かしているということなのです。心が統一してくるとその状態が見えてきます。膨らみ、縮みであろうと、瞼を閉じることであろうと、膨らませたい、閉じたいという意識があってその行動を起こすということに気づきます。実践者が落ち着いていないときは、言葉に従って呼吸もしているように感じますが、心が落ち着いてくると、呼吸やからだの動きに言葉を合わせることができるようになります。そしてもっと落ち着いて集中力がついてくると、最初のときと似たように、意識でコントロールして呼吸も行っているということが見えてきます。膨らむという意識があって、膨らむ行為が始まる。縮むという意識があって縮む行為が始まる、ということがわかります。それは集中力の結果です。
意識ですべて動かしていることを知るのは、ヴイパッサナー冥想から体験するべきひとつの智慧なのです。」http://www.j-theravada.net/qa/gimon7.html
べザ写本『ルカ福音書』の写本の一節がありました。
素晴らしい譬えだと思います。
「あなたが自らのしていることを知っているなら、あなたは祝福される
しかし自らのしていることを知らないなら呪われ、律法を犯す者となる。」
…
ここからヨハネの黙示録にいきます。
ユングは「ヨハネの手紙を書いたのが、ヨハネの黙示録を書いたということを、
心理学的所見は支持する」と言っています。
「ヨハネの手紙」
4節
これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。
http://kky.4j4u.net/Bible/1John/1
20節
さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。
http://kky.4j4u.net/Bible/1John/5
あらゆる破壊を徹底的に行う神がなぜ幻視されたのか?
キリスト教的生活を営み、神のために生活し、なおかつ普通人以上の能力を持ったヨハネが観たもの。。
19節
そこで、御使はそのかまを地に投げ入れて、地のぶどうを刈り集め、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込んだ。
20節
そして、その酒ぶねが都の外で踏まれた。すると、血が酒ぶね(その中で人間が踏みつぶされる)から(血が)流れ出て、馬のくつわにとどくほどになり、一千六百丁にわたってひろがった。
http://kky.4j4u.net/Bible/Rev/14
「生の快楽一般も廃絶されると言っています」
22節
また、おまえの中では、立琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを吹き鳴らす者の楽の音は全く聞かれず、あらゆる仕事の職人たちも全く姿を消し、また、ひきうすの音も、全く聞かれない。
http://kky.4j4u.net/Bible/Rev/18
13節
彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。
15節
その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。
18節
そして、王たちの肉、将軍の肉、勇者の肉、馬の肉、馬に乗っている者の肉、また、すべての自由人と奴隷との肉、小さき者と大いなる者との肉をくらえ」。
19節
なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。
20節
しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。
21節
それ以外の者たちは、馬に乗っておられるかたの口から出るつるぎで切り殺され、その肉を、すべての鳥が飽きるまで食べた。
http://kky.4j4u.net/Bible/Rev/19
「人間は神を愛することが出来るが、また恐れなければならない。」
その核心は「神を恐れよ!」である。
神の愛については一言も語られない。
恐ろしいお方がただ恐れられるだけである。
黙示録の中で、マリア被昇天というのがあります。
ヨハネの黙示録12章1節
また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。
http://kky.4j4u.net/Bible/Rev/12
「太陽を着た女」は、
原人の男に対する女であり、
永遠とか、処女とかではない、「自然な」女で、ギリシア神話を思い起こさせる。
女性は暗闇の中に男性的な意識の太陽をもつ。
この太陽は子供として無意識の夜の海から昇り、老人として海へ沈む。
明るさに闇を付け加える。
対立物の聖婚=生の全体性 という図。
これは、大ニュースです。
この女性は、(普通の女性だから)受肉して、神との子を産む可能性があるということでしょう。
そうであれば、人間は、神の子として生まれてきていることになるからです。
ヨハネは、(異教的な部分を持つ)神が、無意識の中でもう一度生まれる様をみている!
その神の子は、ヨハネ自身かもしれない。
…
エゼキエル書にいきます
・ヨブ記が創られたあと、紀元前592年に、エゼキエルは幻視しました。
・エゼキエルが観たのは、無意識の本質的な内容、より高い人間という理念である。
その人間にヤーヴェは敗れたのであり、のちに彼はそういう人間になりたいと思ったのである。
エゼキエルはヤーヴェが人間に近くなっていることをシンボルを通して理解した。
これはヨブが体験したが意識しなかったことだ。
ヨブの意識がヤーヴェより高くなり、だからこそ神が人間になりたがる
…
エノク書にいきます
エノク書
初期のキリスト教の一部やエチオピア正教では『エノク書』は聖書
の一部とされる。 他では偽典
とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8E%E3%82%AF%E6%9B%B8 (ウィキより)
「エノク書とその概要」には、なぜ正典とされなかったかが読んでいるとわかります。
http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/apoca/4enochoutoline.htm
ここには、本当のことを書いてあったからでしょう。
読んでいるうちに、感動して泣きそうになりました。。
ヤーヴェはエゼキエルを「人間の息子」と呼ぶ
エノクは天使から「人間の息子」と呼ばれる
「汝は義のために生れし、人の息子なり。義は汝の上に宿り、高齢の長の義は汝を去ることなし。」
正義こそ、ヤーヴェに欠けている性質であり、エノク書の著者が気づかないはずはない。
ヨブ「されど我は知る。我を弁護する者は生きてあり。」
・最高善である神ヤーヴェが、人間の犠牲を、それも自分自身の息子の死を要求する
キリストは全体性のシンボル、
対立を和する分化した意識を暗示する人間の四者性を持つとされた。
例)十字架、テトラモルフ
テトラモルフとは…四つの宮の象徴、すなわち獅子、牡牛、鷲、人間の顔が常に同居している
http://shindds.cside4.com/sided/feature/dictionary/te.htm
エゼキエル書1章5節
またその中から四つの生きものの形が出てきた。その様子はこうである。彼らは人の姿をもっていた。
6節
おのおの四つの顔をもち、またそのおのおのに四つの翼があった。
http://kky.4j4u.net/Bible/Ezek/1
そして、創世記に、アダムやセツたちが何歳で死んだか書いてありますが、エノクが死んだとは書いてありません。
創世記5章24節 エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。
http://kky.4j4u.net/Bible/Gen/5
→エノクは「神とともに歩きまわり」、死んだのではなく、ただ消え去った。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/8769/kagaku/enokusho.htm
…
ここから、「光」に関して、創世記に入ります。
初めに言があった。
言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
http://www2.tbb.t-com.ne.jp/nakashibuya/yohane/j134100801.html
ヨハネの黙示録19章20節http://kky.4j4u.net/Bible/Rev/19/20
しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。
ヨハネは、暗闇がキリストとして現れた光を理解できなかったから、全滅させられたと理解した。
・ノアの洪水でさえ、対して効き目はなかったようだ。
天変地異や大洪水でさえ、児戯に等しいと言っている。
というのも、創造そのものがなくなるから。
つまり、世界の破壊はサタンの仕業ではなく、神のみ業である。
キリスト教の結論
「善きものはすべて神から、悪しきものはすべて人間から」
おかしなことに被造物が創造主に対立させられ、宇宙的な悪が人間に帰せられる。
神の暗い面を、人間に背負わせることにしたようだ。
無意識は意識の中に流れ込んで光に到達しようとするが、同時にそれを妨げようともする。
無意識は無意識のままでいたがるものだから。
神は人間になろうとするが、完全になり切ろうとはしない
こうなると人間化は、神の怒りに対して、罪を購う「自己犠牲」によってしか得られないのである。
…
ここまで、読んできた方いらっしゃるでしょうか?!(汗)
デミウルゴスの世界で、神が「悪」を無意識のままにしておきたいから、その「悪」を人間が代わりに苦しみとして受け取らなければいけないということ?!
人間は悪世界の中で、苦しみ続けなければならない?!
キズ(殺人、嘘、姦淫などの悪)をつけることでさらに高みに昇る?!悪で成り立つ神話が多いですよね。。
私は、生まれてしまったこの「悪」世界で、実践学の原始仏教の戒律を守りながら、ひたすら善行為をするしかないように感じています。
解脱のための菩提心を得ることですら、この世の生活では厳しいものがありますが・・
選ばれたエリートだけでなく、誰にでもブッダやキリストのような元型があることが個人の救いでしょうか。。
こんなことを考えました…
人間の悪行為が増えると、世界は悪(渇愛)にまみれて、さらなる欲望を求めて、死んだあと、人間から人間へ、転生する割合が増える。
搾取する側、痛めつけた人が転生して、痛みを受ける側の人間が増える。
→人間が増えるほど心に占める悪の割合が増えて、さらにその悪想念が現実に浸透する。
地獄、低層四次元、純悪世界がこの世と直結する。
→大衆を「悪」に向かわせやすくなる。
(解決法)大衆を悪に導くことで戦争や混乱を通して人間を減らす。
→全体的な心の悪領域を減らすことになる?
なんとも、矛盾した話ではありますが、そうならないように気をつけるしかありませんね。。
偽書とされたエノク書と、賢者の言葉に希望を託します。。
エノクが、終わりの時に掟を守る者たちのために著わした別の書。悪をなす者どもが消される日を待ち望むあなたがたに告げる。悪をなす者の名前は、聖者たちの書から削られる。彼らの霊魂は、赤々と燃える炎の中で叫び、泣き、激しく苦悩する。しかし、天にその名前が記されている者たちは、悪人に辱められた霊魂で、彼らは神を愛して、この世のよいものを愛さず、その体を拷問に委ね、自分を過ぎ去る風と見なした。主は彼らを様々な試練に逢わせたが、その霊魂の浄さは証明された。現世での命よりも天を愛する者であることが分かった。主は彼らを輝く光の中へ導き出し、一人一人を栄誉の座に坐らせる。彼らはいつまでも燦然と輝くであろう。義人たちが輝く一方で、闇の中に生まれた者が闇の中に投げ込まれるのを見るであろう。彼らは、その処罰の日と時とが書き記されている場所へ立ち去る(108章)
http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/apoca/4enochoutoline.htm
「叡智の道」
人は学ぶほど叡智を積み重ねるほどに、
自分の無知に気付くようになります。
この過程が叡智ある生き方なのです。