引退宣言 2002年8月ごろ | プロレス至上主義者宣言!・International公式HP

引退宣言 2002年8月ごろ

『プロレス哲学は全てノリリンに対する注釈である』あるいは『プロレス哲学の終焉』と題する話を(2002年)2月に書いた。話の中身は分かりやすいものなので、割と理解が得られたと思うんだが、題名に対して、誤解がある。欺瞞は勿論、誤解はごまんとあるだろうが、その内の一つはDr.マサの閑話休題・3であげられた。だから返事を書こうかなと思ったのが3月だが、儂はと~~~~っても忙しくてまるっきり書けなかった。

ノリリンの”プロレス至上主義宣言”の注釈が、今回の『現代思想』の論調であると指摘することは確かに可能であると感じます。
 by Dr. マサ


いや、それは違うのだ。

まず明確に言えるのは、まず『今回の現代思想増刊』≠プロレス哲学ということ。『現代思想』の『プロレス哲学』には現代性がないというのが儂の文章の論旨の一つだから、青文字の部分の論旨が成り立ってしまっては儂にとって極めて不味い。儂までベリーされちまうじゃないか・・・

儂が、『プロレス哲学は全てノリリンに対する注釈である』と書いた場合、その主張の意味するところは次の3つのうちのどれかである。
(1)『プロレス哲学は全てノリリンに対する注釈である』という言明そのものを主張をしている
(2)『プロレス哲学は全てノリリンに対する注釈である』という言明を軸に『プロレス哲学』というものを考えていくことが出来ると言う主張をしている
(3)『プロレス哲学は全てノリリンに対する注釈である』ととりあえず言ってみたが、その意味するところはまだ考えてない。

これ以外にはパターンはないな? よし。

(1)であればこうだ。
いくらプラトンだって、孔子やウパニシャッド哲学には影響を与えてはいない。そんなことはまるっきりプラトンの瑕疵ではない。プラトンは現代に残る西洋哲学の源流にある。的を射た意見かどうかは知らないが、そのプラトンに対して『西洋哲学は全てプラトンに対する注釈である』という言葉を捧げた人がいる。
プロレスネットの黎明期から数々の文章によってプロレスネット界をリードしてきたノリリンは、インターネット世代以後の現代性のあるプロレス哲学の殆ど全てを切り開いた。ノリリンによって見いだされ、パクラれ、2次使用され、もはや誰がオリジナルか知られないで使われている概念も沢山ある。しかし、いくらそんなノリリンだって、バルトや村松には影響を与えてはいない。そんなことはまるっきりノリリンの瑕疵ではない。
そのノリリンに対して『プロレス哲学は全てノリリンに対する注釈である』という言葉を書いたとして、的を射た言葉かどうかはともかく、恐ろしかったりめんどくさかったりする理由でケチをつける人はまずいないだろう。

またはこうだ。
社会的にまずまずな職業とまずまずな職業的地位にあり、恥ずかしくないくらいの安定した収入があり、ドーキンス的な意味で倍以上の再生産をし、一般的には美人と見なされる嫁さんと健康な子供をもつ良き夫良き父である私が、ネットでノリリンと名乗り、儂と称する。妖怪と呼ばれ、魔神とか基地外とか、天才とか、あほとか閣下と呼ばれる。セルをしたり、嘘を吐いたり、打ち合わせをして一芝居打ったり、理詰めに追いつめたり、膨大な資料をあさって裏付けを取ったり、マスクを取り替えて入れ替わったり、事実をあっさり無視したりして、毎日のようにネットで戦い続ける。
プロレスを哲学すること自体が、このような存在である『ノリリン』を理解しようとする自照行為(not自傷行為)そのものである。則ち、プロレス哲学は全て『ノリリン』に対する注釈である。

ここまで読めば勿論分かるだろうし、長いつきあいの読者の中には最初から知ってるだろう。(1)に続いて(2)(3)たとえ(√5)でも、儂は結局なんかかんか屁理屈をでっち上げてしまうだろう。

だから(4)をかく。
『プロレス哲学は全てノリリンに対する注釈である』あるいは『プロレス哲学の終焉』と書いた以上、『プロレス哲学は全てノリリンに対する注釈である』と『プロレス哲学の終焉』がある程度等価なのだ。
則ち、ノリリンに対する注釈であるところのプロレス哲学は終焉を迎えつつある(ている)。そう考えるとこのごろの儂の気分の説明が付く。何となく新しい考えが枯渇したような気がする。何を書いても昔書いたことの繰り返しのような気がする。自分のHPを読むと過去の文章に圧倒されたりする。面白い・新しいことを思いつかない。現実の世界ではそんな閉塞感はないのに、ネットの中にだけそれがある。自分で自分に注釈を繰り返しているような閉塞感だ。
そう、もはや『ノリリン』という枠の元に行われたプロレス哲学は終焉を迎えたようなのだ。だとすると題名はこう変換される。
『ノリリンは全てノリリンに対する注釈である』あるいは『ノリリンの終焉』
これは儂に限らずしばしば起こることのようだな。誰にでも起こる。作り出した存在の枠に支配されてしまうのだ。
と言うわけで、ノリリンは引退します。

あれ?やっぱりベリーされちゃったぞ・・・