日本史や日本文学史で、国学の話が出た際に「国学の四大人(しうし)」という言葉を

耳にされた方がいるかもしれません(「大人(うし)」とは、国学者が先人や師に対して使う敬称)。


「荷田春満(かだのあずままろ)・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤」の四人を称して呼ぶ言い方です。


が、個人的にはその経緯も含めて、宣長先生の立場を考えると

「好ましくない」呼び方だと思っています。


この呼び方は、元々平田篤胤の門下が言いだしたことで、「平田国学の正統性」を訴えるために、

篤胤の門人たちがいい始めたものです。


実は、「宣長と篤胤の国学は、違ったものである」という考え方があります。


簡単に言いますと、元々「歌人としての歌学び」からスタートした宣長先生の「文学重視」に対して、

篤胤は「古道思想ありき」の学問であって、文学に対してはさほど重視されていません。


これは、篤胤が直接生前の宣長先生から教えを請うこともなかったことも関係しているでしょうし、

何よりも彼と交流のあった鈴屋門下(宣長先生の門下。宣長先生の書斎「鈴屋」から本居家の屋号。そして、宣長先生ご自身を意味する言葉になっており、「鈴屋大人(すずのやのうし)」といえば、宣長先生を指すものとなる)が、宣長先生の古道思想を引き継いだ服部中庸(なかつね)であったことも関係していると思います。


といいますのも、元々伊勢松坂をはじめとする南勢地方を治めていた紀伊徳川家に松坂奉行所の役人として仕えていた中庸が、隠居後学問に専念しようとした時に、宣長先生から「(弟子は)和歌をやっているものばっかりなので、お前は古道をやりなさい」と言われたことで、中庸が「本居学の本質は、古道にある」と考えていたようです。


ですが、この言葉は思うに、宣長先生が中庸が「古事記」の世界を図式化した「三大考」を書き著していたことから、「古道を引き継がせるのに適している」と考えておられたのではないかと思います。


と言いますのも、宣長先生の歌集「鈴屋集」の刊行が始まったのは、「古事記伝」が完成した寛政一〇年(一七七八)のこと。

もし、「本居学の本質は『古道』」であるとするのならば、「古事記伝」執筆と並行して、歌集の編集をする必要性があったのでしょうか?


「古事記伝」完成後、緊張感から解放された宣長先生は、桜への溺愛を読んだ歌集「枕の山」を編まれています。


国学入門書として書かれた「うひ山ぶみ」では、古道を追究することが大切であるとしながらも、項が多く割かれていたのは、詠歌を含む歌学、つまり和歌を中心とした文学に付いてでした。


そう考えると、宣長先生にとって「和歌」は生涯切り離せないものであったことが分かります。


そもそも、真淵の師である荷田春満からの影響は、宣長先生の場合「学統以外」ないと言っていいと思います。


むしろ、四大人からはずされた国学の黎明期である江戸時代前期に活躍した契沖からの影響が強いのは、これまで多くの研究者からも指摘されていますし、伝統的な公家の歌学に対して、実証的な文献学の立場で文学研究を行っていた契沖の書に触れて、宣長先生の国学への道が決定されたと言っても過言ではないと思います。


ですが、篤胤は知ってから知らずか契沖を認めていなかったので、門下たちが「系統で判断した」のか、真淵の師である春満から真淵、宣長先生を経て、自分たちの師である篤胤へとつなげたわけです。


個人的見解を言わせてもらうなら、さほど「文学方面に功績を残していない」春満が重視されるのは、おいかがなものかと思ってしまいます。


後世の人々も「この呪縛」から逃れられなくなっているわけですし。


実際、大学の時に卒論の話をしていたら、「宣長だったら、春満を書けばいいんじゃないの?」と国学に詳しくない国史学科の知人に言われたことがあります。

どうやら「うひ山ぶみ」を古文書購読の授業で取り上げられた時に当時・講師だった教員が専門が篤胤門下の大国隆正だったこともあってか、「四大人」の話をしたらしく、その受け売りで「近世文学専攻」の南さんに余計なことを言ってきたみたいです……(その彼は「中世日本史」専攻だったのを追記します)。


「歌人・本居宣長」の側面を中心に見てきた自分としては、荷田家と宣長先生を絡ませるのなら、春満の甥で養子となった荷田在満(ありまろ)が松平定信の実父(つまり徳川吉宗の次男)田安宗武の求めによって書き著した歌論書「国歌八論」の論争について、触れることになりますが。


「国歌八論」をめぐっては、在満が「新古今集」重視の立場をとったために、宗武と宗武に仕えていた真淵が「万葉集」重視の立場で反発し、その後論争は「外野」へと広がり、宣長先生まで論争に加わるほど、「文学論争」としては大きなものとなっていました。


が、宣長先生と荷田春満の学問に付いて関連が見られるのは、このことぐらいで、真淵の弟子ではあるものの、契沖の影響が大きいものでした。


学統だけで流れを判断するのも、そもそもおかしなものだと思いますし。

何よりも、真淵と宣長先生自体「良好な師弟関係」ではないことは、以前ご紹介したように和歌に対する考え方の違いで度々対立しています。


もし、篤胤が生前に宣長先生に入門していたら、どうなっていたのか。


そう考えてしまいます。


宣長先生の「文献学」としての国学から「宗教的色合い」の強くなった国学へと「変質」させてしまった篤胤自体が、「本居宣長の正統な後継者」として言えるのか否かという問題もあります。


実際、鈴屋門下では「没後の門人」として篤胤を受け入れるか否かという問題が起きていたほど、宣長先生に実際に教えを請うた弟子たちの間で「山師」という声が出るぐらい、篤胤は「受け入れがたい存在だった」ようです。


そんな「異質な宣長門下(個人的には「宣長門下」というのも、如何なものかと思いますが)」である篤胤の弟子たちの言い分が、そもそも「正当性のあるもの」かどうかという気もします。


篤胤を唯一と言ってもいいほど鈴屋門下で評価していた中庸の末裔である服部哲雄氏が書かれた「架空対談」がとある所で紹介されていたので、ご紹介したいと思います。


内容は、宣長先生と中庸が久しぶりに会って対談したという内容になっており、

宣長先生がもし実際に平田篤胤に会っていたら、


「わしらとは、ちょっと質的に違うね。実際に会っていたら……そばへ寄せ付けなかったかもしれん」


と服部氏は宣長先生に言わせています。


実際、「もののあはれ」「真心」「やまと心」などの言葉で表わされている「人間の本質」を追い求めて、

儒学を「作りものの偽者」と断じて批判した宣長先生の学問には、常に「文学と人間」があったように思います。


篤胤について、文学方面の業績はあまり聞きませんので、その点でも本質的には違うのではないかと思います。


ちなみに篤胤には否定されましたが、篤胤と同時代では「契沖・賀茂真淵・本居宣長」の三人を称して「国学の三哲」という言い方がなされていたそうです。


個人的には、契沖と真淵の文学研究を引き継ぎ、それを「師説」だからといって、ただ崇めるのではなく

批判すべきところは批判し、発展させて言った宣長先生の学者としての姿を思うと、そちらの方が「穏便」な気がします。


何よりも、宣長先生も納得されるのではないかと思います。