砂漠に消えたB-24 「善良な淑女」5 死の行進 | 世界珍ネタHunter!

世界珍ネタHunter!

平凡な毎日を珍ネタで生活に潤いを・・・?

機長のハットンは何時頃、自機の飛行方位が誤っている事に気付いたのだろうか?B―24の残骸位置から推測して、ガス欠になる迄飛行を続けていた事から気付いたのはかなりかなり遅かったのだろう。01:30分頃には砂漠を越え平均標高150㍍のカラシオン台地にさしかかる。地物の変化は異状を感じさせたのだろう。同時に燃料もつきかけた。ハットンは乗員にパラシュート降下による脱出を命じた。海上だったら降下せず、不時着水してから救命ゴムボートで海上へ脱出する道を選んだに違いない。又、脱出直前迄通信士はソルク基地を呼び続けていたであろう。しかし、応答は無かった。無人になった「善良な淑女」号は、奇跡的にパイロットが操縦した様に地上に不時着していた。無事に不時着出来ると分かっていたのなら乗員達は機を捨ててパラシュート降下はしなかったであろう。だか、漆黒の闇で地表を正確に確認出来ない状態で、危険を避けて機を捨てたのは止むをえまい。砂漠の台地に降りたった乗員は、自分達が飛行を続けていた飛行航路の間違いに理解し乗員たちによって積み上げた石の標識は、正確に基地の方向を示してした。
戦後、米空軍の捜索が中止されてから数ヶ月後の1960年2月、またも石油探鉱隊の手で、B―24の乗員5人の遺体が発見された。前年に捜索を打ち切った時、「ジス・ウイーク」誌の特派員は感傷をこめて「乗員たちは台地を突破して砂の海に踏み込んだのだろう。そして遺体は砂に埋もれて永遠に姿を見せぬだろう。」と書いた。その記事は、半ば的中していた。5人の遺体は、まさに台地から砂の海に入った地点で見付ったのだ。そして、その数ヶ月後には残る4人のうち2人の遺体が見付った。そしてトーナーとリプスリンガーの2人が死の直前まで書き記していた日記によって、彼らの想像を超える苦難の実相が知られた。では、この日記に従って遭難当時の彼らの行動を追ってみよう。
信号弾とピストルの合図を手掛かりに、8人の乗員は1943年4月5日の夜明けに全員が集合した。9人目のウォラブカが見当たらないので、手分けして2時間ばかり探したのち、出発した。墜落した飛行機に傍らに行くか、基地の方向へ向かうかで議論が出たが、飛行機の所在は分からないし、見付けても大破して炎上もしくはバラバラになっているだろうと判断して、北の方へ歩き始める。降下地点は海岸線から50~100マイルぐらいだろうと見当をつけていたらしい。携行したのは水筒1個、携帯食料少々に、パラシュートと、その天蓋だけだった。水は一日スプーン一杯と決めた。天蓋は日除けと毛布代わりに利用し、パラシュートは千切って標識に使う予定だった。一日目は焼けるような太陽が照つけたが、北西の微風が吹いていたので、厚さはかなり和らげられた。そのうちB―24が飛んでくるだろうと大空を仰ぎつつ歩き、休息のたびに石を積んで標識を作った。その夜はパラシュートで体を包んで横になったが、寒さでほとんど眠れなかった。翌6日彼らは砂の上に二条のワダチの後を発見する。1本はかって英軍の車両隊が通った後でい北々東に延び、もう1本はイタリア軍の通過で北々西に延びていた。一行はその交点に立ちどまってどちらをだどって行くかで議論した。チャート(航空図)で照合すると、ペンガジに通じる路があり、2本のワダチの2本のうち1本はそれに相当すると思われた。彼らは手持ちのチャートがペンガジから200マイル圏にしか及んでいない事を知らなかった。ヘーズとアダムスは英軍のワダチに向かい、残りの5人は今迄歩いてきたのと同じ方向に走るイタリア軍のワダチをたどったが、2人は間もなく見こしなしと思ったのか、戻ってきて5人に合流する。この日は風が無く気温はグングン上昇して行進は難儀をきわめた。サングラスが無いので、手で目をかばったが、それでも痛みがやまず、15分歩いては5分休むというやり方で喘ぎながら前へ進んだ。翌7日も同じ苦痛の前進が続き8日の朝、彼らは眼前に台地がつきて、砂の海が広がってるのを見た。信じられぬ程だったが、彼等は3日余りで65マイルも歩いたのだ。だが新たな絶望感が一行を襲った。黒っぽい砂の海に足を踏み入れると、足はひざまでズプズプと沈み、ラクダでも歩けないだろうと思った。その上、ワダチの跡もプップリと切れていたのだ。流砂にかき消されてしまったのかも知れない。午後になると砂嵐が吹いてきて目もあけられていれなかった。ラモットは目をやられて盲目同然となり、アダムスとムーブは落伍した。飢えと喉の渇きで全身の力はつきかけていたが、それでも6人は前進を止めなかった。しかし石を積み上げて標識を作る気力はもう失われていた。4月9日出発してから5日目の朝、歩けるのはシュリー、リプスリンガー、ムーアの3人だけになっていた。残りの5人は喘ぎながら砂の上に横たわるだけだった。8人は集まって最後の相談をした。結局、5人は残って、動ける3人が救助を求めて先行する事に決まった。もうほとんど空に近かった水筒は残留組の手に残される。動ける3人が仲間に見送られて出発したのは翌10日朝である。砂の上に横たわった5人は、終日空を眺めて過ごす。降下してから初めてみる生き物が目に入った。それは上空を横切った2羽の渡り鳥だった。夕方最後の水を飲み干す。ロバート・トーナーの日記は、翌12日のページで終っている。恐らく依るに入って書かれたのだろう。短く「未だ救助は来ない」と記した次ぎの何字かは解読困難で「寒い夜・・・」で終っていた。
なおも北々西へ歩きつづけた3人の運命もほぼ同時に尽きたと思われる。乗員の中で最も巨漢だったリプスリンガーの日記には4月11日で終っている。最後の記述は「太陽が照りつける。砂の海から抜け出て水を求めつつ苦闘中・・・」であった。彼は倒れるまでに20マイルほど進んでいた。シェリーが何日迄歩き続けたのかは分からない。しかし彼はリプスリンガーよりも更に7マイル前進した位置で死んでいた。出発地点から計算するとシェリーは90マイルを走破した事になる。それでも最寄のヤロ・オアシスには85マイルも彼方に位置していた。もう一人のムーアの死体は未発見のままだが、恐らく同行2人の遺体の近くに埋もれているのであろう。最後の一人ウォラブカは、遺体が発見されパラシュートが開かずに墜死したものと分かった。水も食料も無く熱砂の荒野を8日以上歩き通して倒れた「善良な淑女」号の乗員8名の苦闘は、人間の気力と体力の限界を示す不滅の金字塔と言える。神も見捨てたと称されるサハラを熟知する石油探鉱隊は、乗員達の行動限界をせいぜい20~30マイル程度と推定した。捜索が難航し、遺体の発見が遅れたのは、この先入観が影響したともいえる。
「善良な淑女」号の乗員8人を過酷な死の運命から救い出す術は無かったのか?ソルク基地における判断の誤解から、捜索救難活動は北西方に当たる地中海沿岸に向けられてしまった。しかし、誤解が無かったとしても、400マイルも入ったサハラの奥地にハットン機が迷い込んだと、推理するのは無理だったであろう。もし、彼らに与えられたチャートがカランシオ台地を含む地点をカバーしていたら、どうだったであろうか?「皮肉な話しだが」とラルフ・パーカーは書いている。「チャートがもう少し広い地域をカバーしていたら、8人全員、最悪の場合でもシェリーとリプスリンガーの2人は助かっていた筈だ。」と。彼等は降下点から北々西に進んだのであるが、南々西に約130マイル行けば、ジェーン・オアシスに辿り付けただろう。かなりの道のりではあるが、チャートで目標が明確に示されていれば、効果的な歩き方も出来たであろう。無人で不時着した機内には水も食料も与圧服も完全に残されていた。これらを補給して出発すれば、飢えと喉の乾きは幾分抑えられたであろう。8人の乗員達が最後迄方向の誤認にたたられのは不運と言うほかない。






  完




$世界珍ネタHunter!

$世界珍ネタHunter!

$世界珍ネタHunter!

$世界珍ネタHunter!