問題は、「200字論述新研究67(問題25)」で確認してください。

解説は、「200字論述新研究71(問題25を考える➊)」をご覧ください。

解説は、「200字論述新研究72(問題25を考える➋)」をご覧ください。

 

問題25 解説

 

「外患」の諸相

 

同時期における「外患」については、年表風にまとめておきたい。

いくつもの出来事のなかから、問題の限定にしたがった抽出作業が適切におこなえたかどうかを点検しておきたい。

 

外圧の激化(寛政の改革期~開国期)

ロシア

1792

ラクスマン大黒屋光太夫をともない根室に来航( 同年、海岸防備を説いた林子平『三国通覧図説』『海国兵談』)を処罰、ラクスマンの来航はその数カ月後)。

 

1804

レザノフ長崎に来航。

 

レザノフの来航などを背景に、江戸幕府は、外国船への必要品の給与を許し、「なるだけ穏やかに帰帆いたし候よう、取計らうべく候」という方針をとった(文化の撫恤令=薪水給与令、1806)。

こののち、レザノフが日本北方を威嚇・攻撃したという報が入ると、北方の警備が増強された。

 

1811~1813

ゴローウニン事件発生。

日本側がロシア軍人ゴローウニンを、ロシア側が淡路の商人高田屋嘉兵衛を抑留、嘉兵衛の尽力により双方釈放で決着した。

 

イギリス

1808

フェートン号事件発生。

ナポレオン戦争の余波でイギリス軍艦が長崎に乱入した。

 

フェートン号事件、ゴローウニン事件など列国との紛争が多発したことに加え、イギリス捕鯨船による常陸大津浜薩摩宝島上陸事件(いずれも1824年)などが相次ぐと、1825年、幕府は「有無に及ばず、一図に打払」という、外国船の撃退を命じる強硬策を発令した(異国船打払令=無二念打払令)。

 

アメリカ

1837

モリソン号事件発生。

異国船打払令のもとでアメリカ商船モリソン号を撃退。

 

国内では1839年、こうした幕府の態度を批判した蘭学者渡辺『慎機論』)・高野長英『戊戌夢物語』)らが処罰された(蛮社の獄)。

 

1842

天保の薪水給与令発令。

アヘン戦争(1840~1842)での清の敗北に衝撃をうけた幕府(老中水野忠邦)は、対外政策をふたたび転換。

異国船打払令の緩和、文化の撫恤令への復帰を明確にした。

 

1844

オランダ国王の開国勧告(→幕府はこれを拒否)。

 

1846

アメリカ海軍軍人ビッドルの通商要求(→幕府はこの要求を認めず)。

 

1853

アメリカ大統領フィルモアの国書をたずさえた海軍軍人ペリーが軍艦4隻を率いて来航(ロシアのプチャーチンもペリー来航直後に長崎に来航)。

 

アメリカの本格的な開国要求に直面した幕府は、翌年再来したペリーの強硬な態度に押されて、ついに日米和親条約を結び、ついで英・露・蘭各国と同様の条約を締結した。

 

1856

アメリカの初代駐日総領事ハリスは、アロー戦争(1856~1860)での清の敗北などを利用して通商条約の締結を強く要求。

 

これに対して幕府は、老中首座堀田正睦(まさよし)が勅許(天皇の許可)の獲得に失敗したのち、1858年、大老井伊直弼の決断で勅許を得ずに、日米修好通商条約(蘭・露・英・仏とも同様の条約が結ばれ、安政の五カ国条約と総称される)の調印に応じた(→違勅調印問題発生)。

 

イギリス

アメリカは、自国で大規模な内戦(南北戦争、1861~1865)に突入し、その影響で日本から後退

アメリカにかわって対日貿易の主導権をにぎったイギリスは、以後、国内政治にも大きな影響力を及ぼしていった。

 

「内憂」と「外患」の関係

 

最後に、「内憂」と「外患」の密接不可分な関係についても考えておこう。

 

江戸幕府が「内憂外患」の同時進行を恐れたのは、単にいずれもが危機だからというだけではなく、それが体制の崩壊に直結すると想定されたからだった。

 

たとえば、体制の動揺(「内憂」)と欧米列国による脅威(「外患」)が重なる事態のなかで、幕府がいわゆる「鎖国」方針を堅持しようとすれば、軍事動員による防衛策の強化が必要になる。

そうなれば、防備強化の負担は藩財政を確実に圧迫し、藩政の危機や負担転嫁にともなう民衆の蜂起は一段とはげしいものになるだろう。

 

一方、準備不足のままでの対外戦争は敗北の危険性がきわめて高く、それは幕府権威の失墜や支配体制の危機に直結することになる。

 

日本の開国は、幕府の無能や弱気がもたらしたのではない。

幕末期、「内憂外患」が深化していくなかで「鎖国」方針にこだわれば、社会全体が深刻で致命的な打撃を被(こうむ)りかねなかった。

 

「鎖国」を前提にした外交的選択肢が存在しないことを自覚した幕府は、攘夷派のはげしい批判や暴力を覚悟しつつ開国という未知の選択をすることで、未曽有の社会的混乱や決定的な対外的敗北を回避しようとしたのである。

 

問題25 解答

国内的には、天保の飢饉の長期化を背景に甲斐の郡内騒動や三河の加茂一揆など全国各地で百姓一揆や打ちこわしが相次ぎ、特に大坂町奉行所元与力がおこした大塩の乱は社会に衝撃を与え、生田万の乱などが誘発された。対外的には、異国船打払令のもとで米国船モリソン号を砲撃する事件が発生し、幕府の外交策を批判した蘭学者らは蛮社の獄で処罰されたが、直後にアヘン戦争が勃発して清の劣勢が伝わり、幕府はさらに危機感を強めた。

(200字)

 

問25(+解答解説)で「基礎力重視型200字論述新研究」とします。

ありがとうございました。

今後、どこかで目次を作成したうえで、時期をみて、別のかたちでの論述対策用ブログを再開する予定です。