*問題は、「200字論述新研究56(問題21・22)」で確認してください。
問題22 解説➊
■明治時代初期■
幕末の混乱を経て明治維新を遂行した新政府は、近代化政策の一環として、教育分野を制度・内容の両面から常に重視した。
学校とは、近代国家に生きる国民としての基本的な観念や思想を人々に直接流しこむことを可能にする壮大な装置だったからである。
ここでは、その基本的な推移を振り返っておくことにしよう。
まず明治時代の初期には、教育制度をめぐる試行錯誤がつづけられた。
具体的には、廃藩置県の翌年にあたる1872年に早くも学制が公布された。
これはフランスの学区制などに学んだものだったが、あまりに画一的だったために失敗し、1879年、今度はアメリカをモデルとする教育令が公布された。
教育令は一転して自由主義的な性格の強いものだったが、現場の混乱も大きく、改正がくりかえされた。
また高等教育に関することでは、西南戦争が発生した1877年に、旧幕府の開成所・医学所を起源とする諸校が統合されて東京大学が設立されている。
【学制による大学区分】
■1880年代以降■
明治時代中期にあたる1880年代になると、国家主義的な理念にもとづく教育システムが確立へと向かい、明治時代末期には児童の就学率は98%以上に達した。
具体的には、1886年に公布された学校令(帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令などの総称、文相森有礼)によって教育体系が確立し、1890年に発布された教育勅語(教育に関する勅語)によって忠君愛国を柱とする国家主義的な教育理念が確立した。
さらに1903年には、小学校の教科書を国定とする制度も整えられていった(国定教科書)。
【帝国大学令】
1918年の大学令公布により私立大学などの設置が認められるまでは、官立の帝国大学だけが大学とされていた。
1886年の帝国大学令により、唯一の帝国大学となった東京大学は、1897年の京都帝国大学創設にともなって東京帝国大学と改称された。
以後、東北・九州・北海道の各帝国大学が順次設立され、さらに京城帝国大学(朝鮮)・台北帝国大学(台湾)・大阪帝国大学・名古屋帝国大学も誕生して九帝国大学体制が整えられた。
戦後になると、学校教育法制定にともなって、国内の七帝国大学は新制の国立大学へと再編された。
【教育勅語】
教育勅語は、全国の各学校に配布され、学校儀式の場などで確実に奉読された。
1891年、第一高等中学校で教育勅語奉読式がおこなわれた際、講師の内村鑑三がキリスト教徒としての信念から教育勅語への最敬礼を拒否すると、この態度は天皇への不敬(皇室などに対して敬意を失すること)にあたるとして非難をうけ、内村は辞職を余儀なくされた(内村鑑三不敬事件)。
この事例からもわかるように、教育勅語を中心とする教育は、強制力をともないながら思想・信条をこえて展開された。
【義務教育における就学率】
*続きの解説は、「200字論述新研究61(問題22を考える➋)」をご覧ください。