問題は、「200字論述新研究56(問題21・22)」で確認してください。

解説は、「200字論述新研究57(問題21を考える➊)」をご覧ください。

解説は、「200字論述新研究58(問題21を考える➋)」をご覧ください。

 

問題21 解説

 

銀産出量の急減と長崎貿易

 

1630年代に「鎖国」体制が確立すると(「鎖国」政策の展開参照)、中国からの来航船が増えたこともあって、幕府公認の貿易港になった長崎での取引は年々増加していった

 

長崎貿易では、白糸・絹織物・薬種・砂糖などを輸入し、支払い手段として金・銀が用いられたため、取引量の増加は大量の日本銀流出を招いた

加えて、すでに記したように、17世紀後半には国内の鉱山からの金・銀産出もすでに限界に達していた

 

このため、金・銀の流出を防ぐ措置をとることが急務になった。

長崎における貿易制限策は、17世紀末、5代将軍徳川綱吉の時代に本格化し、1715年、正徳の政治の際に定められた海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)によって確立する。

 

長崎貿易に対する制限政策

 1685(綱吉時代)

オランダ船・清船(中国船)との年間貿易額の制限を開始

 

 1688(綱吉時代)

清船の来航を年間70隻に限定。

清国人の居住を限定するため、唐人屋敷の建設に着手。

 

 1715(正徳の政治)

海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)制定。

金・銀の流出を防止するため、年間貿易額の制限を確立した(オランダ船2隻・銀高3000貫、清船30隻・銀高6000貫に制限)。

 

18世紀後半にあたる田沼政権(1767~1786)期には、金貨を軸とした統一的貨幣制度の創出を意図した南鐐二朱銀の鋳造・発行にみられるように、従来の幕政のあり方を転換する政策が打ちだされた

 

長崎貿易についても、のほかに蝦夷地を産地とする俵物いりこほしあわびふかのひれ)を輸出にふりむけて、不足している金・銀を相手側に支払わせる貿易拡大策が採用されることになる。

 

なお、今回の問題は銀と貿易との関係をまとめるものにしたが、解説冒頭に記した通り、近世における金・銀は重要な貨幣素材だった点にも注目しておきたい。

 

17世紀後半以降、金・銀産出量が急減するなかで、長崎貿易などでは貴金属の流出が持続し、しかも一方で、商品流通を中心とする経済成長が進行した

このため、近世社会においては貨幣不足が顕在化し、幕府はしばしば品位を落として通貨量を増大させる必要に迫られることになった。

 

問題21 解答

16世紀中頃以降、急増する日本銀は中継貿易形態をとる南蛮貿易で白糸などの入手に用いられ、東南アジアで朱印船貿易を展開する日本商人の活動を支え、さらに「鎖国」体制確立後も長崎貿易などでの主要決済手段とされた。しかし17世紀後半に産出量が急減すると、銀流出防止のために貿易制限が本格化して1715年には海舶互市新例が定められ、また18世紀後半の田沼政権期には銅・俵物を輸出して対価として銀を入手する政策も採られた。

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