「第二次大戦後の日本における組織犯罪台頭の歴史を描く中で、著者のロバート・ホワイティング(日本野球についての優れた本『You Gotta Have Wa』の著者でもある)は、日本の政界と社会全体においてヤクザが絶大な影響力を持つようになったことと、一度は被占領国であった日本が世界でも有数の経済大国に上り詰めたことは、アメリカの力に負うところが大きいと言う。

ホワイティングが主役に選んだ、実在の人物ニック・ザペッティは、まだ占領地であった東京を訪れ、そこに居残ることを決意する。はした金狙いの詐欺家業で一花咲かせようとしていたが、だらだらと続いていた支払い不能の状態によって我に返り、ザペッティは思いつきでレストランをオープンする。困難を乗り越え、「ニコラスピザ」は東京に住む外国人、野球選手、芸能人、政治家、そしてもちろん地元の暴力団員が集まる50年代の人気スポットとなった。異国の地にレストランを開いた、容易には信用しかねる人物、ザペッティの経営者としての古き良き日の冒険が、この実話の骨子となっている。背後からいつ刺されてもおかしくないような野蛮な環境、ビジネス社会の不正取引など、ヤクザ社会と区別がつかないほどオーバーラップすることが多く、どこでひとつのエピソードが終わって、また次が始まったのかが判然としない。しかし、ホワイティングは巧みに、彼が言うところの「壮大なる富の移行(アメリカから日本へ資本を移すこと)」の過程を詳細に描き出している。なぜアメリカの外交政策(そして共産主義への恐怖)が、知らず知らずのうちに日本へ富を移行させることに甘んじてしまったかを解き明かす。ホワイティングの文体は、啓蒙的で、人を引きつける力を持っており、彼の結論は日米両サイドから聞こえてくる、保護主義者が使うような安易な表現を裏切ってくれる。

一方、ザペッティは最終的に日本国籍を取り、妻の姓を名乗るようになる。健康状態の悪化と、ピザ帝国の経済的崩壊によって夢破れ、やがて極端な日本嫌いになる。「あんた、映画の『リオ・ブラボー』を見たことあるかい?」ホワイティングは、ある夜ザペッティが外国人客のひとりに話していた言葉を引用する。「いやらしい目つきのカウボーイがたんつぼに金を投げ込んで、町の酔っ払い役のディーン・マーチンがそれにへつらうシーンを覚えているか?それが、日本人が望む外人のイメージだ。日本人は俺たちにディーン・マーチンのようにぺこぺこしてもらいたいのさ」


という紹介文の「東京アンダーワールド 」ロバート ホワイティング著

という本の中で力道山に関して一章を設けて解説される。

以下貼り付け。



出身は太平洋戦争前の日本植民地統治下の朝鮮半島洪原郡新豐里(現在の北朝鮮統治範囲)。後に長崎県大村市の農家・百田家の養子となった。本名は金 信洛(キム・シンラク)。戸籍名は百田 光浩(ももた みつひろ)。

1940年に初土俵、1946年に入幕し、1949年に関脇に昇進するが、1950年に自ら髷(まげ)を切り廃業。

1951年9月30日、アメリカのフリーメイソン系慈善団体「シュライナーズ・クラブ」が進駐軍慰問と障害者のチャリティーを兼ねて、母国からボビー・ブランズら6人のレスラーを招きプロレスを開催した。これを見てプロレスに転向を決意し、シュライナーズ・クラブで指導を受けた。1952年に渡米し、翌年帰国して日本プロレス協会を設立する。シャープ兄弟をはじめとする外人レスラーを空手チョップでばったばったとなぎ倒す痛快さで、1953年にテレビ放送が開始された事も重なり日本中のヒーローとなる。その後柔道出身の木村政彦、山口利夫を倒して日本のプロレス界を統一した。1954年12月の木村との世紀の一戦が八百長であることが明らかになり、それ以後三大紙やNHK等の一般メディアの取材対象から外れることになる。また、シュライナーズ・クラブに慈善活動への協力を求められると、力道山は金銭を要求したため、こちらとも縁が切れてしまった。

大相撲出身の力道山が天下を取ったことから相撲取りのプロレス界入りが増えた。日本のプロレス界に、ちゃんこ、付け人など、なにかと相撲の影響が残っているのはこれに由来する。1958年には、ルー・テーズを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。1962年には、フレッド・ブラッシーを破ってWWA世界ヘビー級王座を獲得した。1974年にジャイアント馬場が獲得したNWA世界ヘビーとは違いカリフォルニア州近辺だけのローカルなベルトではあったが、ともかく日本人でプロレスの世界ヘビー級王者になったのは力道山が初めてである。ルー・テーズやパット・オコーナー、カール・ゴッチのようなストロングタイプともジェス・オルテガやフレッド・ブラッシーのような悪役・怪物タイプとも名勝負を残しているが、後者の方が手が合ったようである。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E9%81%93%E5%B1%B1

以下も貼り付け。


大相撲関脇からプロレスラーに転向した力道山が1953年に、興行師で興行界のドンと呼ばれた永田貞雄と、関東屈指の顔役である新田新作(生井一家貸元で関東国粋会副幹事長の子分、「新田組」組長。 新田建設経営。明治座の社長で経済事件の調停にも活躍)の物心双方の援助・後見によって設立した。 この際、スポンサーとして経済界からは萩原吉太郎ら児玉と親しい企業人グループが後援をしている。

力道山が1963年に亡くなった後の協会役員の構成は、会長・児玉誉士夫、副会長・田岡一雄(三代目山口組組長)、町井久之(東声会会長)となっている。このため浜松より西の興行は田岡、関東は町井、東北以北は児玉の盟友である岡村吾一の影響下にあったとされる。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%B9


日韓条約締結の為にアメリカの要人と児玉誉士夫、町井久之両名が韓国に訪れた。

とか・・・まあ色々詳しく書かれております。


町井 久之(まちい ひさゆき、1923年 - 2002年9月18日)は、ヤクザ、実業家。東声会会長。東亜相互企業株式会社社長。釜関フェリー株式会社会長。在日本大韓民国民団中央本部顧問。在日韓国人。本名は鄭建永(チョン・ゴンヨン、)。若い頃は、「銀座の虎」、「雄牛」と呼ばれた。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E4%BA%95%E4%B9%85%E4%B9%8B

児玉 誉士夫(こだま よしお、1911年2月18日 - 1984年1月17日)は、日本の右翼運動家で、A級戦犯に指名されたが後に釈放。後にはロッキード事件の被告となる。一般に右翼の大物、黒幕として知られ、「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E8%AA%89%E5%A3%AB%E5%A4%AB


作家の村松友視の著書「力道山がいた」によると・・・・

「その瞬間、力道山ブームは口火を切った。大袈裟にいえば日本中の人々が、その光景のインパクトに陶然とし、力道山を神話の主人公として迎え入れようとする構えをつくった…」

「なにしろ、あの頃は一般的日本人の中にアメリカ人に対するひけ目が、まだ尾を引いていた。戦争でアメリカに負けたという劣等感に支配され、進駐軍への怯えにつつまれるという空気は、依然として生きていたのだ。日本人の酔っ払いが米兵に数寄屋橋から下の川へ叩き込まれた…そういう類の記事がいくつか出たりもした。そうした時代背景の中に、突如として出現した力道山という存在が、一夜にして英雄としての衣をまとってしまった。私は力道山を清水市の電気屋の暗がりで目撃した。そして同時に、夥しい数の日本人が同じテレビ画面を、全国の電気屋や街頭テレビでながめ(力道山ならアメリカに勝てる…)という気分に浸っていたのだった」

という驚異的な人気を誇る力道山の国籍をひた隠しに隠す様子や当時のアングラ社会に力道山の死がCIAの陰謀では?などと「東京アンダーワールド 」では、様々な考察がなされます。

ニコラスといえばかってこの店で皿洗いのバイトをしていたのが椎名誠じゃあなかったかあ?などと他愛のない記憶などもまさぐりつつ・・・


http://www.nicolas-pizzahouse.com/roppongi1_1.html

ピザ屋のHPなどを眺めつつ戦後日本を思う初冬の夜更け。


(-∧-)合掌・・・