日本名「川島芳子」は、1907年に清朝粛親王の王女として生まれる。

日本人「川島浪速」の養女となり日本で教育を受ける。

清朝復辟=満州国建設のために日本軍に協力し、戦後1948年中華民国政府によって「漢奸」として訴追され刑死。存命説もある・・・・・

軍服を着た男装の麗人として一世を風靡する。

「十五夜の娘」、「蒙古の唄」などのレコードを出し、作詞者としては1933年に川島芳子作詞、杉山長谷夫作曲、東海林太郎唄の「キャラバンの鈴」というレコードを出している。

「キャラバンの鈴」

広い砂漠を はるばると
駱駝に乗って キャラバンは
雪を踏み踏み 通うてくる

村に残した 恋人に
別れのしるしと おくられた
鈴は駱駝の 頸(くび)で鳴る

雪の砂丘に 月させば
別れた宵の 想い出に
駱駝の背(せな)で ひく胡弓(しょうろ)

鈴を磨いて 若人は
遠くはなれた 故郷(ふるさと)の
娘の指を 夢に見る


以下貼り付け。

同年には、小説『男装の麗人』を連載していた『婦人公論』本誌に、独占手記として「僕は祖國を愛す」を掲載させ、1940年には自伝『動乱の蔭に』を出版している。また「昭和の天一坊」と騒がれた相場師・伊東ハンニや右翼の笹川良一と交際したり、天津で中華料理屋を経営するなどしている。

世間から注目され一見華やかな存在であった芳子は、深い孤独を抱えていた。芳子は満洲国が清朝の復辟ではなく日本の傀儡国家に過ぎないことが明らかになると、日本軍(関東軍)の満洲国での振る舞いなどを批判するようになり、軍部からは危険人物として監視されるようになった。暗殺計画もあったという。1939年頃には療養のために福岡に滞在している。この頃から孤独感に満ちた短歌を書くようになる。それらは私的に書かれたもので長く公表されなかったが、没後50年以上を経て歌集『真実の川島芳子』として発表された。また福岡滞在時代に交流した女性が芳子との思い出をつづった『孤独の王女川島芳子』を2004年に出版している。福岡での療養後、芳子は北平(北京)に戻り、そこで終戦を迎える。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E8%8A%B3%E5%AD%90

『李香蘭私の半生』では、以下のような記述がある。


「大きな円卓を囲んで数人のお客たちと食事をした。その時の異様な光景が 忘れられない。食事中、川島さんは突然旗袍の裾をパッとまくり太ももを出すと、 かたわらの引きだしから注射器を取り出してすばやく注射した。それは白い液体だった。

「これをやるからね、ボクは水を飲んじゃいけないんだよ」

この川島さんの言葉はいまでも耳にこびりついている。」

日本人ばかりか、中国人からも自国のスターとして爆発的な人気を博ししていた李香蘭(山口淑子)が満州電影時代に撮影された映画「萬世流芳」のなかで歌った曲に阿片窟にいる青年に阿片を吸うかわりに甘い飴をすすめる詩というのがある。

李香蘭(山口淑子)「売糖歌」


売糖歌

阿片のお盆は立派で綺麗 阿片の煙はいい香り

阿片のパイプは精巧で 阿片の煙はこがね色

どれくらいの素晴らしい時間を奪ったことか

どれくらいの人の姿を変えてしまったことか

歯は漆を塗ったように黒くなり 口は四角くなり

背中は弓のように曲がり 肩はすくみ

涙と鼻水は絶えることなく流れつづける ああ・・・・・・

あなた、魂を迷わす火を早く吹き消して

あなた、自分を殺すパイプを早く下に置いて

好みを換えて 私の飴を買って

甘いか苦いか自分で試してみて

飴はいかが?

飴を買ってください

飴はいかが?

飴を買ってください


1948年中華民国政府によって「漢奸」として訴追され銃殺された時点で遺骸のポケットから一枚の紙切れが出てきた。


家あれども帰り得ず

涙あれども語り得ず

法あれども正しさを得ず

冤あれども誰に訴えん


芳子が昔から口ずさんでいた詩だという・・・・


享年四十一歳


芳子が獄中から秘書小方八郎に宛てた手紙。

「僕がほんとうに死んだら、君とおやじと僕の骨をひろって、福ちゃん(可愛がっていた猿の名前)と掘り出して埋めてくれな。僕は人間とは一所に死度くない、猿と一所でけっこうだ、猿は正直だ、犬も正直だ、ポチはどこへ行ったかね、今頃は寒い事だろうね、猿も犬も没収する国家は珍しいね、ずい分ひどい所だ。」

猿を飼っていた芳子は、飼っていた猿こそが「僕の一番の命であったと俗物だらけの世の中だ。」と同じ手紙に記す。

裁判での死刑求刑の日には

「わたしの過去は、ようするに全てが、中国の老百姓(民衆)のためと思ってしたことである。考えてもみよ、中国には民国革命が行われて以来、一日として安居楽業する日がなかったでないか。」

法廷では、自分の部下の罪が軽くなるような証言をする。


芳子が逮捕された時に一緒に逮捕され、 その後釈放された小方八郎さんは釈放、芳子のために助命嘆願をした。


芳子は、中国式に背後から銃殺され顔がグチャグチャだったという・・・だから銃殺されたのは替え玉で川島芳子は、生きているという説も流布する。


真偽の程は定かでないが日中両国をまたにかけ生きた、様々な事を知りすぎた女が口封じのために殺されたのでは?というのが僕の印象である。

そして、時代を生き抜いた人でもあるよなあ・・・・と感嘆するのでありました。


(-∧-)合掌・・・