利子を否定する「イスラム金融」に、国内の金融機関が熱い視線を送っている。狙いはズバリ、オイルマネー。原油高騰でだぶついたオイルマネーの受け皿を目指し、国際協力銀行(JBIC)がイスラム教の教えに基づく「イスラム債」の発行計画に着手したほか、邦銀とJBICがイスラム教に基づく「イスラム金融検討会」を発足させた。損害保険会社も「イスラム保険」の取り扱いを急増させるなど、動きが急だ。アルコール飲料やカジノ関連の企業への融資は認めないなど教義上の制約は多いものの、金融機関からの利子支払いもできないため、調達コストが実質ゼロ。その魅力も大きく、イスラム熱は高まる一方だ。

JBICは東南アジアのイスラム教国、マレーシアでイスラム債の発行を計画している。発行時期や規模は未定だが、モノやサービスの提供を債券に組み込むことで対価の意味合いを持たせ、利子の代わりに支払う手法などが浮上している。

コーランは「不労所得」を禁じている

イスラム圏の銀行広告。日本の金融機関でも「イスラム熱」高まる もともと、イスラム金融は、イスラム教の聖典コーランが、働かずに利益を得る「不労所得」を禁じ、金利や投資を認めていないところから生まれた。教えを厳格に守れば銀行も生損保も認められないため、イスラム圏では長く金融機関が育たなかった。しかし、膨らみ続けるオイルマネーの受け皿として富裕層が欧米の銀行に預金する中、70年代にこれをよしとしない動きからイスラム銀行が生まれた。

担保をとった融資はできず、事業に共同出資して利益の一部を配当金として受け取る「プロジェクトファイナンス」による資産運用が主流だ。オイルマネーを背景に資産規模は約4,500億ドル(約52兆円)に拡大。世界で10億人以上といわれるイスラム教徒は、イラク戦争などが原因で欧米の金融機関を嫌い、利用が増えていることもあり、年10%以上の成長を続けている。

邦銀がイスラム銀行に高い関心を寄せるのは、オイルマネーの確保に加え、力を付けたイスラム銀行が石油プラント開発などの大型事業に深く関与し始めたためだ。

東京三菱UFJ、みずほなどメガバンク3行は06年5月、JBICと「イスラム金融検討会」を結成。現地にイスラム銀行子会社を設立した欧米系金融機関などの情報収集を始めた。JBICは検討会発足に合わせ、イスラム法学者による審査機関「シャリア・アドバイザリー・グループ」を設置。邦銀の参入後、事業内容が戒律に反していないかの情報を提供する方針。

「イスラム保険」も盛り上がる
「イスラム保険」も盛り上がっている。西側の手法は教義に反するものの、契約者がお金を出し合って、被保険者に「寄付」する「タカフル」は「イスラム保険」として認められている。

損害保険最大手の東京海上日動火災保険を傘下に持つミレアホールディングスは04年、インドネシアの現地法人にタカフル部門を開設し、現在は3倍以上に契約高を伸ばした。今年3月にはマレーシアでタカフルの営業免許を取得し、年内にも現地財閥と合弁会社を設立する。

東京海上日動が期待するのは、市場の将来性だ。マレーシアのタカフル普及率は5%程度だが、人口の6割がイスラム教徒といわれるだけに拡大の余地が大きいとみる。同社は今後3年間で、タカフル契約高を現在の3倍超の100億円超に伸ばしたい考えだ。


http://www.j-cast.com/2006/08/24002668.html


イスラーム金融とは、利益拡大のために融資先の状況を省みず融資するというようなバブル期の日本の金融のような在り方とは反対の位置にある。

銀行は、融資先に責任を負うという考え方が強いのである。同時に、貸し手優位の既存金融と異なり、資金提供者と事業家が等位の関係にあり、事業と運命をともにしようという意識が強い。

これらの源泉は、イスラム教でありコーランより発声したイスラム文明なのだが・・・・キリスト教も利子を禁じている・・・これによりユダヤ宮廷商人が蔓延った・・・・・こんなのを聖俗分離という。

利子が利子を生み自己増殖する西側金融システムと、融資に対して銀行も責任を負い、融資先のプロジェクトに銀行も当事者として協力するイスラム方式と、どちらがこれからの世界経済の再建にとって有効だろうか?


西洋では少なくとも17世紀の啓蒙運動以来、自由と個人性の概念が強調されてきたのに対し、東洋では責任と共同体の観念が強かった。人間の義務に関する世界宣言ではなく、世界人権宣言が起草されたのは、周知のように起草者が第2次世界大戦の勝者となった西側諸国の代表者であり、そこには、静養の哲学的、文化的背景が 反映されている。

倫理とその帰結である自己抑制なしには、人類は弱肉強食の世界に逆戻りしてしまうだろう。世界はその上によって立つことのできる倫理的基盤を必要としているのだろうし。


聖俗分離という言葉があって 「聖俗分離」の意味は本来、弾圧に苦しむ初期キリスト教徒
が、世間に隠れて信仰するための言葉だったという。


ローマ帝国にあいてキリスト教が国教化したとき、それは改宗を望まない民衆に対し、神の前で方便を使いさえすれば、罪を許されるという意味に変わっていた・・・・・・これまた疲弊するローマ帝国に対する新しい息吹=価値観としてのキリスト教という意味も大きい。


その一方で、当時のキリスト教会の方針は分裂していた。例えば、聖母や聖人への崇拝が認められ、多神教とすり寄る方針が示されたのもこの頃だ・・・・・・・マリア信仰は、世界各地に残る地母神信仰との融合だ。

現実と信仰が切り離されたことで、キリスト教は帝国への服従を促す好都合な宗教に変わっていた。
 
これと似たような意味合いで「それでも地球が廻っている」という有名な言葉通り、宗教社会の枠組みから抜け出たことを政教分離=ルネッサンス=近代化とも捉えるのだが・・・・・

いずれにしろ、ユダヤ、キリスト、イスラムという同じ胎より生まれた宗教上の問題は、未だ世界の中心的な問題だ。

政教分離にしろ、聖俗分離にしろ点前に過ぎず、であればイスラム金融は?

などと思うのだが・・・・・

ユダヤ人は、彼らを差別してきたヨーロッパ人ではなく、十字軍時代には彼らを救ったイスラム教徒に、その憤りをぶつけるのか?

という問題ともリンクし・・・・


本当に現代という時代は物凄い時代なのだと思うのでありますね。

脱宗教を目指した現代文明社会と法と掟による部族イスラム社会

この中心に位置するイスラエルにユダヤ人問題に石油という資源問題。

現代文明を形作ったこれらの問題の根。


神の問題。

まあ、面白いよなあと思うのであります。