「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」 甘粕正彦の辞世の句。


甘粕 正彦(あまかす まさひこ、1891年1月26日 - 1945年8月20日)は、日本の陸軍軍人。陸軍憲兵大尉時代に甘粕事件=無政府主義者大杉栄の殺害で有名。短期の服役後、日本を離れ満州に渡り、満州映画協会理事長を務める。終戦直後、服毒自殺した。


「これからは皆さんがこの会社の代表となって働かなければなりません。しっかり頑張ってください。いろいろお世話になりました。これからこの撮影所が中国共産党のものになるにしろ国民党のものになるにしろ、ここで働いていた中国人が中心になるべきであり、そのためにも機材をしっかり確保することが必要です。」満映の中国人従業員に語った甘粕の言葉。


甘粕事件

1923年9月1日に起きた関東大震災の直後、9月16日アナキストの大杉栄・伊藤野枝とその甥・橘宗一の3名を憲兵隊本部に強制連行の後殺害し、同本部裏の古井戸に遺体を投げ込むという事件。


大杉に関しては、静岡市沓谷の市営沓谷霊園なある大杉栄の墓の碑文より。


大杉栄は明治18年軍人の家に生まる。

陸軍幼年学校を放たれ、外国語学校仏語課に学び、日露開戦に際し非戦論に共鳴して社会主義者となる。

資性剛毅歳華煥発。

無政府主義の一派を拓いて政府の弾圧に屈せず、幾度か牢獄の苦を忍び迫害の鉄火を践めり、大正11年日本脱出、仏蘭西革命故国送還の波瀾を経、関東大震災に遭遇して妻の伊藤野枝・甥橘宗一と共に軍憲の為に虐殺せられた。

惜しむべし雄志逸材むなしく中道に潰ゆ。

荒畑寒村撰

大杉栄は1923(大正12年)9月16日虐殺された。
1885年1月17日生、享年38歳
妻野技 1895年1月12日生、享年28歳
甥橘宗一 1917年4月12日生、享年6歳

この遺骨を翌年5月25日この地に収む。

1976年9月16日 大杉栄らの墓誌建立委員会




大杉と言えば僕には奴隷根性論が思い浮かぶ。



「斬り殺されるか、焼き殺されるか、あるいはまた食い殺されるか、いずれにしても必ずその身を失うべき筈の捕虜が、生命だけは助けられて苦役につかせられる。一言にして言えば、これが原始時代における奴隷の起源のもっとも重要なるものである。

かつては敵を捕えればすぐさまその肉を食らった赤色人種も、後にはしばらくこれを生かして置いて、部落中寄ってたかって、てんでに小さな炬火をもって火炙(ひあぶり)にしたり、あるいは手足の指を一本一本切り放ったり、あるいは灼熱した鉄の棒をもって焼き焦したり、あるいは小刀をもって切り刻んだりして、その残忍な復讐の快楽を貪った。
 
けれどもやがて農業の発達は、まだ多少食人の風の残っていた、蛮人のこの快楽を奪ってしまった。そして捕虜は駄獣として農業の苦役に使われた。
 
また等しくこの農業の発達とともに、土地私有の制度が起った。そしてこのこともまた、奴隷の起源の一大理由として数えられる。現にカフィールの部落においては、貧乏という言葉と奴隷という言葉とが、同意味に用いられている。借金を返すことのできない貧乏人は、金持の奴隷となって、毎年の土地の分配にも与(あず)からない。そして犬と一緒になって主人の意のままに働いている。
 
かくして従来無政府共産の原始自由部落の中に、主人と奴隷とができた。上下の階級ができた。そして各個人の属する社会的地位によって、その道徳を異にするのことが始まった。」


http://www.aozora.gr.jp/cards/000169/files/1006_13470.html


一方、大杉と一緒に殺された伊藤野枝は、不倫を堂々と行ない、結婚制度を否定する論文を書き、戸籍上の夫である辻潤を捨てて大杉栄の妻、愛人と四角関係を演じた。人工妊娠中絶(堕胎)、売買春(廃娼)、性の自己決定(貞操)などなど・・・50年ほど、早く生まれすぎたのかも知れない・・・しかしこれとて戦争が無ければ昭和の初期には、現状のような日本になっていたかも?

伊藤野枝は、与謝野晶子・長谷川時雨・国木田治子・小金井喜美子・岡本かの子・尾竹紅吉・神近市子らと親交を深めて強い刺激を受けた。機関誌『青鞜』に詩『東の渚』などの作品を次々発表、頭角を現した。平塚らいてうが「原始、女性は実に太陽であつた」と謳ったのと対照的に、野枝は「吹けよ、あれよ、風よ、嵐よ」と謳っている。


大杉には内妻の堀保子のほかに東京日々新聞記者・神近市子という愛人もおり、苦し紛れの「自由恋愛論」は批判の対象となっていた。

ここに野枝が参入して四角関係になり、神近が11月に葉山の日蔭茶屋という旅館の一室で大杉を刺し、瀕死の重傷を負わせるに至る、いわゆる「日蔭茶屋事件」が起こった。神近は大杉に経済的援助を与えていたため生活は困窮。この件もあり『青鞜』は廃刊した。

翌年、大杉は内妻の保子と離別、神近は大杉に対する殺人未遂罪で入獄。「多角恋愛」で勝利した野枝は、9月に長女魔子(のち真子に改名)が生まれる。

1923年、大正12年、8月に大杉と野枝の子の長男ネストルが生まれた。ロシア革命時のウクライナ自由コミューンの闘士ネストル・マフノにあやかった命名であるという。
 
9月11日、関東大震災が突然に東京を襲い、帝都は阿鼻叫喚の地獄と化した。朝鮮人が井戸に毒物を投げこんでいるという噂が広まる。江東地区では自警団による朝鮮人虐殺がかなり広い範囲で行なわれた。

9月14日、伊藤野枝は戒厳令の焼け野原の中を乳母車をよろめきながら押し、足助素一を訪ねて金を借りた。足助は有島武郎の無二の親友で、有島から大杉・野枝を援助するように申し渡されていた。その有島はこのあと波多野秋子と軽井沢に心中自殺する。

甘粕事件はそんな時期に起きた。

関東大震災の起きた1923年9月1日の直後の1923年9月16日、アナキストの大杉栄・伊藤野枝とその甥の計3名が憲兵大尉・甘粕正彦らによって憲兵隊に強制連行・殺害された事件。大杉事件ともいう。

大杉栄38歳、伊藤野枝28歳、宗一6歳。

野枝は3度結婚して、7人の子供を生んだのである。そのうち大杉の遺児として、魔子、幸子、エマ(エマ・ゴールドマンからの命名、のちに九州エマと呼ばれた)、ルイズ(ルイズ・ミッシェルからの命名)、ネストルの5人の子が遺された。


一方、殺した側の甘粕正彦は、憲兵や陸軍の責任は問われず、甘粕の単独犯行として処理され、1923年12月8日禁錮10年の判決を受ける。

1926年10月に出獄し予備役となり、昭和2年(1927年)7月から陸軍の予算でフランスに留学する。

その後、1924年に馮玉祥が起こしたクーデターにより紫禁城を追われ、1925年以降に天津の日本租界へと逃れた清朝の第12代皇帝溥儀の護衛を行うなど、満州事変に関する様々な謀略に荷担し、1932年の満州国建国後は協和会中央本部総務部長を経て満洲映画協会理事長となる。


まあ、そんなこんなの日本近代史。


「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」

という甘粕正彦の辞世の句は、近代日本を顕す句かもなあ・・・・・なんて深く共感したのであります。


そして大杉の奴隷根性論の最後の文もまた。


「主人に喜ばれる、主人に盲従する、主人を崇拝する。これが全社会組織の暴力と恐怖との上に築かれた、原始時代からホンの近代に至るまでの、ほとんど唯一の大道徳律であったのである。

そしてこの道徳律が人類の脳髄の中に、容易に消え去ることのできない、深い溝を穿ってしまった。服従を基礎とする今日のいっさいの道徳は、要するにこの奴隷根性のお名残りである。
 

政府の形式を変えたり、憲法の条文を改めたりするのは、何でもない仕事である。けれども過去数万年あるいは数十万年の間、われわれ人類の脳髄に刻み込まれたこの奴隷根性を消え去らしめることは、なかなかに容易な事業じゃない。けれども真にわれわれが自由人たらんがためには、どうしてもこの事実は完成しなければならぬ。」


これまた、ズバリと本質を突いているのでありますねえ・・・・・

自由主義にしろ奴隷制にしろ。

いずれにしろ現代においては破綻をきたしております。

時代は、新たな奴隷制である超管理社会へ向かうしかないようですし・・・・



ここで一句。


「人類史 自然滅ぼし すってんてん」BYそういち



お粗末。


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