「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」



「多田参謀次長は陸軍の統帥部の最高責任者である。この最高責任者が『負けるから戦争はやめろ』と言っていたのである。不幸にして戦争はすでに始まっている。この場合に最も大切なことは、それに対する最高責任者の判断であろう。そして新聞に『知らせる義務』があるなら、この場合には、この最高責任者の判断こそ、全日本人に知らせる義務があったはずである。なぜこれらの最も重要なことを知らせずに、『戦意高揚記事』を書きつづけて来たのか。」


「『自己批判シロ』『ハイ私は、、、、』『まだ自己批判がタリン』、、、、 こういった方法、すなわち反省の強要という形で判断を規制されていくと、最終的には、自らの判断もそれに基づく自由意思もなくなってしまうわけである。したがってその言葉はすべて『強制された自白』に等しく、その行為はすべて『強要された自主的行為』になり、『命令された』に等しくなる。それがいざ戦犯裁判となると、すべて『自らの意思に基づく言葉と行為』とされる。確かに、上官は彼に反省は強要したけれども、『命令は、していない』のである。」


山本七平著「ある異常体験者の偏見」


「人間の手は未来に触れることは出来ない。明日の状態に手を触れ得ないだけでなく、一時間後、一分後の状態ですら手を触れ得ない。簡単にいえば、たとえば何かの拍子にストーブがすべって近寄って来ても、それが体に触れるまではジュッと感じないわけで、その五分前でも、人はそれに予め触れることはできない。 、、、、、これを短く言えば、「人は未来に触れられず、未来は言葉でしか構成できない。しかしわれわれは、この言葉で構成された未来を、ひとつの実感をもって把握し、これに現実的に対処すべく心的転換を行なうことができない」ということになるであろう。臨在感的把握は、それが臨在しない限り把握できないから、これは当然のことと言わねばならない。」

山本七平著「空気の研究」


「いまの地雷はプラスチック製もある。それらには金属探知機も有効でなく、一人の技術者が地を這い、地面に釘をさし、針のさきに地雷を感じてはじめてそこにあることを知る。一つまちがえば、いのちが吹っ飛ぶ。 、、、、、平和のためとか人類のためなどというのは、口では言うことはたやすい。が、いまなお、平和も人類ということばも多分に観念語で、人間をうごかしている諸欲からみれば、絵空事(えそらごと)に近い。その絵空事が魂の中に入っていなければ、このような作業はできるものではない。この世に祇園精舎の平和を実現するためにとでも思わねば、やれるものではないのである。」

司馬遼太郎著「風塵抄・二」


「私たちが成功の梯子を登り続ける限り、常に病人や栄誉不良者があり続けるだろう。理解されねばならないのは成功への願望であって、なぜ貧富の差があるかでもなぜ才能の差があるかもないのだ。考えなければならないのは、出世し、偉くなり、成功者になろうとする私たちの願望である。私たちはすべて、成功を切望しているのではないだろうか? そこにこそ責任があるのであって、カルマにでもそのほかどのような説明にでもないのだ。」

「平和はそれを見つけようとするいかなる努力によっても訪れない。それは君達がたゆみなく見守っているとき、醜いものと美しいもの、善と悪の両者、人生のすべての有為転変に対して敏感なときに起こる。」




クリシュナムルティ著「未来の生」