栗本慎一郎の本を読む。

新版の方の「パンツをはいたサル」

人間の「行動」が制度化されたものを、シンボリックに「パンツ」と表現し、人間はサルが裸になったものではなくサルがパンツをはいた存在だとする。

この頃の栗本慎一郎は面白い。

思い込みと直感が錯綜してスリリングだ。

我々は、消費する為に生産しているのではない。

破壊蕩尽するために生産しているのだ。

その為に様々な法という抑圧があるのだ。

戦争ですら陶酔のための祭りだ。

そんな大意の書である。

大筋でフロイトの快楽原則を思い出す。

人類の奇行を様々な視点や考察で描く。

破天荒な部分も多いが僕は、共感できる。


引用される学者や書物も僕が注目する人物が多い。

父親に最高裁判所判事の栗本一夫を持つ氏は、僕的には、新人類という言葉を作り出した人物とか、クイズダービーの回答者のとか、そんなイメージが強いのだが、政治家としての履歴も持つ。


1993年7月には、衆議院議員総選挙に新生党の推薦を受けて無所属で出馬(東京3区)し、当選する。

1994年12月の新進党の結党には参加せず、自由連合所属を経て、自由民主党に入党して、国会議員を引退した石原慎太郎の選挙区を譲り受けた。


1996年10月の総選挙にも、自民党公認候補として立候補し、新進党公認の松原仁などを破り再選される。1999年4月の東京都知事選挙では非自民だった舛添要一候補の選対本部長をつとめたが、後に離反。


通信傍受法(盗聴法)に田中真紀子とともに採決の際に反対し、単独で離党届をだす。

田中真紀子はそのまま自民党に残ったが、栗本の離党届は受理されず除名処分となる。宮崎学率いる電脳突破党に参加する。


新生党時代は小沢一郎氏の側近として動いたり、前首相の小泉純一郎とは慶大時代の同窓で、小泉氏のブレーンを勤める。

自らも議員になったり、その後、小沢、小泉を批判しまくりと破天荒な人物ではあるが・・・・


地球という生態系で我々が占める位置としての論考には、共感が持てる。


結局、破壊という祭り=陶酔のために苦渋に満ちた日常がある。

そんな視点からポトラッチの話を持ってくる。




ポトラッチ(potlatch)

SF作家かんべむさしの小説に確かポトラッチ戦記というのがあった。

子供の頃読んだがどんな内容だったか忘れた。



ポトラッチとは、チヌーク語で「贈与」の意。北太平洋沿岸の北米インディアンにみられる贈答の儀式。地位や財力を誇示するために、ある者が気前のよさを最大限に発揮して高価な贈り物をすると、贈られた者はさらにそれを上回る贈り物で返礼し互いに応酬を繰り返す。(大辞林第二版)

ポトラッチの儀式は、上記の様な贈り物の応酬として有名である。この応酬が激しさを増すと、お互いの富の破壊にまで及ぶこともある。マルセル・モースの『贈与論』、ルース・ベネディクトの『文化の型』などで取り上げられた。マリノフスキーが報告したトロブリアンド諸島のクラと共に、贈与交換の有名な事例の一つ。




マルセル・モース(1872~1950)の最も影響力を持った論文『贈与論』は、未開と称される社
会、つまり今日においても原始社会の形態をとどめた生活を営んでいる狩猟採集民の社会において、特に祭礼の際にやり取りされる贈り物に着目し、広範囲にわたっての丹念な検証から人間の経済(あるいは社会全般)に通じる原理を見ようとしたものである。この祭礼においてやり取りされる贈り物の儀式を「ポトラッチ」と呼ぶ。

例えば、カナダに住むクワキゥトル族と呼ばれるインディアンは、のべつまくなしに祭礼を行なっていた。そこでは様々な富を持ちより、他人に与えたり交換したりする。そして、より一層相手を圧倒させるために価値ある富を挑むように贈与をし、ついには自分の持つ貴重な財を破壊するにいたった。クワキゥトル族においては、紋章入り銅板の破壊がこれにあたる。自然銅に彫刻をほどこしたこの板は、ひとりの女が何カ月もかかってやっと1枚織りあげるブランケット4000枚以上の値打ちのあるものだったという。

同じくポトラッチを行うことで知られているシベリアのチュクチ族は、他の部族を圧倒する目的で、極めて貴重なソリ用の犬を相手の目の前で殺害してみせたりした。

自分の「財産」の多さを客に見せつけるために、「奴隷殺し」という特別な棒で奴隷をなぐり殺すこともあった。


僕などはこれらポトラッチを見てると核兵器開発競争などを思い浮かべるのだが・・・・その行動原理の根源が他国や他の共同体への恐怖にあるという意味で。




およそ、自己保存の為の食の確保と種の維持の為の生殖。

これらから大きく逸脱した我々人という存在を説明するには面白い。

これらがほぼ人類史の中で一貫して行われいたであろうという考察。


原始人の遺骨に見られる食人の痕跡。

殊に脳みそを食ったであろう痕跡。

人を殺しそれを食べるという風習。

ここに見られる呪術。

人間を食べるという行為が相手そのものになるという呪術的儀式であったろうという考察。

そんな意味合いがある。


南米インディオアステカの生贄の儀式。

人間を殺しその心臓を神に捧げる。

おれら人間にだけ見られる風習の数々。


これらをあの世とこの世を繋ぐ行為だとする。

性行為がそうだとし。

または、貨幣制度がそうだとする。

この辺の感覚に僕は共感する。

おそらく人間に対する認識を根本的に改めない限り。

何も始まらないかとも思うのだ。


我々の無意識の根源である性と死への恐れと幻想。

一瞬の酔いや陶酔=蕩尽=破壊=戦争や大量消費のために苦渋に満ちた日常=生産があるという理論は面白い。

ハレとケという民俗学用語でも似たようなことを言うのだ。

人間の馬鹿げた振る舞いの根源に何があるか?


そんな考察に関して大きな示唆を与える書ではある。