昨日は、完全オフ。

新谷行著「コタンに生きる人々」を読みつつ。

NHK ETV特集「ある人間(アイヌ)からの問いかけ『萱野茂のメッセージ』」という番組をDVDに録画していた奴を見る。


萱野茂さんは、その著書『アイヌの碑』の中で次のように語っている。


「昭和28年の秋であったと思うのですが、いつものように山の働き先から家へ帰ってみますと、父が最も大切にしていたトゥキパスイ(捧酒棒)が見えません。

それまでも、数か月家を留守にして稼ぎから帰ってくると、いろりの端で使っていた民具が一点、また一点というふうに消えているように思っていました。 それが今度は、父自身が大切にしていたトゥキパスイがなくなっているのです。

わたしはこのころ、アイヌ研究の学者を心から憎いと思っていました。

わたしが彼らを憎む理由はいくつかありました。 二風谷に来るたびに村の民具を持ち去る。 神聖な墓をあばいて祖先の骨を持ち去る。 研究と称して、村人の血液を採り、毛深い様子を調べるために、腕をまくり、首筋から襟をめくって背中をのぞいて見る。」『アイヌの碑』 朝日文庫 P.126~127 より

番組ではサケを密漁した咎で萱野さんの父親が逮捕される状況を語る萱野さんの映像が印象深い。

昭和初期の話で僕の祖父は当時札幌三越で働き僕の父が生まれるかどうかの時期だ。

萱野茂さんが一念発起して、アイヌの民具を買い取り、集め始めたのはこの頃だという。

この辺りの話は番組にはあんまり出てこないが・・・・僕的には重要な転機だと思う。

強制労働辛さに人差し指を切り落とし故郷に帰ろうとした萱野さんの祖父の写真。

様々な挿話や映像で番組は北海道アイヌモシリの歴史を綴る。

これに対する抵抗勢力が「まつろわぬ勢力」だったのかもしれない。

「土地を奪われ、言葉を奪われ、狩猟という生活手段を奪われ」

「足を踏んだ側は痛くないけど踏まれた側はいつまでたっても痛い。」

という萱野茂さんの言葉が何回も番組上では、リフレインされる。

日本という国とアイヌという民族。

植民地主義と近代化に産業革命という歴史の結果、世界中の先住民たちは苦境に追い込まれる。

開拓と称し北海道に渡った農家の次男や3男などの貧しい人々の暮らしも開高健の名著「ロビンソンの末裔」などに詳しい。

そんな状況の中で観光アイヌとして生計を立てる人たちが主流の中で萱野さんは、民族の大切な儀式であるイヨマンテ熊送りの儀式などを観光地の見世物として売るアイヌを軽蔑していたという。

萱野さんは、「山子」(木の伐採などの山の仕事)で稼いだ金のうち、生活費だけを家族に渡し、民具を買いに走ったという。

そして、アイヌ民具の蒐集をつづけていくうちに「アイヌ文化全般を見直そうという自然な気持ち」が生まれたと書いている。

昭和32年、二風谷を訪れた知里真志保(知里幸恵の弟、アイヌ語学者)と出会ったことが、最大の転機だった。

言葉を残そうと当時高価だったテープレコーダーを借金して買い求める。

昔懐かしいオープンリールテープですね。

様々なコタンを尋ね、ユーカラやアイヌ語を収集する日々が続く。

そしてお金に困る。

自らが軽蔑していた観光アイヌとなる。

民族の伝統や文化なによりも言葉「アイヌ語」を残そうとして・・・・・アイヌ語の辞書の編纂やアイヌ語教室に尽力を注ぐ。

「民族とは言葉の事だ。言葉が無くなるということは民族が滅びるという事だ。」と語る萱野さん。そんな言葉を語る萱野さんは深い悲しみを湛えつつも慈悲に満ちた目をしている。


昭和37年「観光アイヌ」として働いていた萱野茂さんは、登別で金田一京助に出会い、金田一京助が死去するまで(昭和46年没)交流が続いた。 朝日新聞の記者だった本多勝一も、萱野茂さんを物心両面から支援した一人である。

と番組を見ながら新たに知ったことや出てこなかったことなどを思い浮かべる。

琉球沖縄、在日、部落、障害者の問題などとも非常に重なるなあ。。。などと思いつつ。

差別の問題と精神病の問題の親近性をいつも思い浮かべる。北海道で知り合った多くのアル中アイヌに精神病アイヌを僕は思い浮かべる。

番組は、旧土人法の廃案やアイヌ新法の制定に二風谷ダムの問題までを追う。

アイヌ=人間。

われわれがアイヌ=人間であるという素朴な事実に気づくまでにあとどれほどの時間や血や痛みや苦しみが必要なのだろうか?

同じところもあり、違うところもあり。お互いを認め合うようになれるまでに。

我々の道のりは途方もなく険しいのだろうけど萱野茂さんという1人のアイヌ=人間が生ききったというそのことが僕にとっては、大きな希望や勇気を与えてくれる。


新谷行著「コタンに生きる人々」を読みつつ。

大田竜=太田龍という1人の日本人も・・・・また。

新谷行という日本人。

そして結城庄司というアイヌ。

この3人の人間の1972年(昭和47年)当時の状況をこの本は伝える。

結城庄司・山本一昭ら、釧路より札幌に進出。部落解放同盟に触発され「アイヌ解放同盟」を結成。活発に活動を開始する。


アイヌ解放同盟・山本太助翁の人類学会批判

札幌医大で開催された第26回日本人類学会・日本民族学会連合大会に対し、結城庄司・山本太助らがアイヌを動物扱いしている研究を批判、雪の中ハンガーストライキを敢行した。これを萱野茂らが仲介。


侵略の碑・連続爆破事件
10月23日(シャクシャイン暗殺の日)東アジア抗日武装戦線などの和人の活動家の手により、旭川の風雪の群像と北大資料室が爆破される。また後日、東京で三井・三菱の工場(北海道を開拓した)も爆破され、死傷者が出る。この行動に触発され、白老博物館・知里真志保の碑・静内の北海道開拓の碑・黒田清隆像、クラーク像などが次々に汚損されるという事件も続発、京都や青森でも事件が発生し、混乱は全国区に発展した。

そして同じ年に「二風谷アイヌ資料館設立」

萱野茂氏が建設。上記の労苦によりアイヌ萱野さん自身の手による博物館。


東京の山谷地区で、差別致傷事件発生

労務者の街・山谷で、アイヌ差別が元で刺傷事件が発生。

もみ合いの結果として刺された人(刺したアイヌの友人)に対し、警察官が走らせたり、適切な対処を許可せず、病院も山谷の住人である事を理由に迅速な対処をせず死亡させ、刺したアイヌが殺人罪で投獄される。

原告のアイヌは、事件を通じて「アイヌ」である事を自覚、数あるアイヌ差別を訴えた。刺傷事件の裁判を超えて、意義深いものとなった。

ウタリ協会は本件を関知しなかったが、旭川の川村カネト、荒井源次郎、白老の苫和三、帯広の高橋真らが支援。

上記の出来事が同時に発生した1972年という年は、札幌オリンピックを控え、北海道での過激派の活動が活発化した。

同時期に結城庄司らの活動(台座損壊など)も活発化した事もあり、各地で(活動家でない人も含む)アイヌに対する盗聴・尾行・不当逮捕が多数発生する。


大田龍については、ウイキより・・・・貼り付けておく。


医師栗原達三郎とトミ(旧姓小林)の四男として誕生。父方は千葉県印旛郡物井村(現在の四街道市)に代々続いた漢方医の家系。

1942年、豊原第一尋常小学校入学。このころ、次兄東洋がマルクス主義者として逮捕され、北海道帝国大学予科を退学になる。

1944年3月、父母の郷里である千葉県に引き揚げる。旧制千葉中学校(千葉県立千葉高等学校)2年生の頃までには、次兄の蔵書に読み耽った影響で熱心な共産主義者となっていた。戦争末期には級友たちに日本の敗戦を予告したために売国奴と見なされ、運動部の部室でリンチを受けたこともある<undefinedref>太田竜『私的戦後左翼史』(話の特集、1985年)pp.12</ref>。

1945年10月に日本青年共産同盟(のちの日本民主青年同盟)に加盟、1947年、日本共産党党員になったのを皮切りに、1953年に共産党を離党、黒田寛一らとともに1957年に革命的共産主義者同盟(革共同)を結成する。1958年に第四インターナショナル第五回大会に出席した太田は、帰国するなり革共同の全面的な社会党への「加入戦術」の採用を提起する。提起を拒否された太田は自身の影響下にあった東学大と日比谷高校のグループを引き連れて分裂した(いわゆる「革共同第一次分裂」)。

革共同から分裂した太田は、1958年8月に「トロツキスト同志会」(トロ同)を結成。トロ同は全組織を挙げて、日本社会党の地区組織に「加入戦術」を行う。トロ同は、1958年12月に「国際主義共産党」(ICP)に発展解消した。社会党への「加入戦術」による穏健な活動を続けていたICPだが、1960年6月の安保闘争の大高揚に直面した太田は突如、独断で「大衆は武装蜂起せよ」と呼びかけるビラをたった一人で御茶ノ水駅頭にて配布する。この独断専行によって、太田はICPから除名される。

太田は、なおも「加入戦術」を続行したICPグループに1963年に再び「指導者」として迎え入れられ、1964年に「関西派」と称された西京司、酒井与七らの革命的共産主義者同盟と統一する。1965年に太田が組織決定を経ずして指導した「立川米軍基地内にデモ隊を突入させ、米兵にデモ隊を射殺させることで大衆の憤激を喚起し反米軍基地闘争を全国化させる」ことを目的とした「5.18闘争」が不発に終わり(「十人が射殺される」ことを想定して太田の影響下にあった三多摩社会主義青年同盟のデモ隊が立川基地内に突入したが、結局日本の機動隊に排除されたのみだった)、責任を追及された太田は少数の支持グループを率いて脱党。新たに「第四インターナショナル(ボルシェビキ・レーニン主義派)」(BL派)とその大衆組織である「武装蜂起準備委員会-プロレタリア軍団」を結成するが、この時期から次第にマルクス主義そのものとの決別を開始し1971年に脱党。同党から死刑宣告される。同年頃より竹中労・平岡正明らと3バカゲバリスタと呼ばれる仲になり「世界革命浪人」と自称する。

1971年、記録映画『アイヌの結婚式』に感動。このことが契機で、1972年にはアイヌ革命論者となり、北海道庁爆破、白老町長および北海道知事に「死刑執行」を宣告(ただし実行犯とは別)、土着革命論、「人類独裁の打倒によるゴキブリの解放・ネズミの解放・ミミズの解放を!」(『日本エコロジスト宣言』)を訴える「エコロジー主義」など主義・主張を転々とし、現在は「ユダヤ・ネットワークが世界を裏で支配している」などと主張する反ユダヤ主義およびユダヤ陰謀論の日本における代表的論客の一人。また、自然食運動(家畜制度全廃)を主張している。太田当人は「私のことを主張が転々としている、と言う者がいるが、私は一貫して『反米』なのだ」と語る。


貼り付け終わり。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E7%AB%9C


大田龍とアイヌなどというとユダヤ陰謀本しか読んだことのない人には以外に思われるかもしれない。


大田龍を行動を一時期ともにした結城庄司氏の年譜も合わせて貼り付ける。


結城 庄司  1938年 釧路生まれ

1972年、北海道静内町に建立されているアイヌの英雄シャクシャイン像の台座に、侵略者の末裔である北海道知事(当時)の名前が刻まれているのはふさわしくない、と台座を削り取る。
その2年後、アイヌとは無関係の和人の過激派による爆破事件の影響により、この件で逮捕された。これにより結城庄司氏は「アイヌ過激派」に仕立て上げられ、同胞からも遊離させられていった。

野村義一北海道ウタリ協会理事長(当時)が、彼の死について「素晴らしい才能の持ち主で、それが十分に理解されず、不遇な面もあったと思う」(『北海道新聞』1983/9/3夕刊)と取材で答えている。

まだ日本に「先住権」という言葉がなかった時代から、アイヌの先住性を訴え、民族の復権のために生涯を捧げた真の活動家。享年45歳。


1959  阿寒湖半のアイヌコタン建設に参加。
1960  北海道アイヌ協会再建者会議に参加。
1968 5月  社団法人北海道ウタリ協会理事に就任(~1976/5月)。

1972  アイヌ解放同盟創設、代表に就任。


8月  第26回日本人類学・民族学会連合大会の演壇にて対アイヌ差別研究を弾刻。
 「解剖材料視」を批判。


9月  アイヌ民族の英雄シャクシャイン像の台座に侵略者の末裔である北海道知事の
 名前が刻まれているのは相応しくないとして台座を削り取る。


10月  アイヌ民芸品振興会による五番館百貨店、民芸品販売事業の運営委員長就任。


1973 3月  アイヌ解放同盟主催による「アイヌ解放の夕べ」開催。


1974 1月  日本社会党による「アイヌ民族政策」作成に関わる。


9月  クナシリ・メナシの蜂起の犠牲者のノッカマップイチャルパ(供養祭)を始める。
 実行委員会初代委員長就任。


10月  シャクシャイン像の台座を削ったという2年前の出来事により道警に逮捕される。


1975 8月  苫小牧差別裁判闘争。
 タバコを吸わないアイヌ青年が壊れたライターを盗んだとして逮捕され、翌年有罪
 判決が下される。この差別裁判に対し、先頭に立ち糾弾闘争を展開。


1976 3月  北海道庁爆破テロ事件。死者2人、重軽傷者78人、この事件に対し厳しく非難。


1977 7月  「アイヌ新聞」発刊。


6月

10/21
~  北海道大学アイヌ差別講義糾弾闘争。
 極寒の中北大構内にテントを張り、3ヶ月に及ぶ越冬闘争。
 林教授の全面自己批判を勝ち取る。


1978 6月  登別アイヌ共同墓地破壊事件抗議行動。
 当時登別市長であった田村仙一市長が市の助役時代にアイヌの共同墓地を勝手
 に破壊し、自分の家の墓を建立。これに対し、登別入りし「抗議する会」を結成。


12月  この問題の告発誌「良識ある市民に訴える」発行。


1979  「週間プレイボーイ」中のアイヌ民族差別漫画に抗議。集英社を糾弾。


1980 3月  札幌市立小学校教師アイヌ差別発言を糾弾。ウタリ協会支部として取り組み札幌
 市教育委員会と徹底的な話し合い。それにより、市教育委員会としてアイヌ民族
 問題を教育の場で取り上げることの必要性を認識し、数々の事業に着手するよう
 になった。


9月  名古屋市開催「部落解放研究第14回全国集会」でアイヌ差別の実体を訴える。


10月  三一書房より『アイヌ宣言』を刊行。


1981 5月  上記の一環として設置された「ウタリ教育相談員」に就任。


 札幌アイヌ文化協会創設。副会長に就任。


1982 3月  八甲田山雪中行軍遭難事件の遺体捜索に活躍した弁開凧次郎たちの子孫調査
 に協力し、その大半が判明した。


7月  これを取材した青森テレビがドキュメント番組として放送。


9月  復活第一回アシリチェップノミ(新しい鮭を迎える儀式)の実行委員長をつとめる。


9月  北海道アイヌ民族政治連盟を創設。専務理事に就任。


1983 1月  急性肺炎、急性腎炎のため入院。


3月  北海道知事選に立候補した横道孝弘の応援のため、完治しないまま退院。
 全道のアイヌウタリのところにオルグに入る(この間走行距離3000km以上)。


9月  9月3日、午前1時45分、札幌市白石区の自宅で急性心不全のため急死。

http://www.ainu.info/s_yuki.html


結城庄司氏の幾つかの文章は以下で読める。


http://www.ainu.info/index_8.html


アイヌ革命これらの背後にクレムリンやKGBの暗躍があったろうかと類推する。

ロシアの南進に備えた日本近代化と北海道占領略奪。

第二次大戦後の混乱を経て左翼運動盛んだった時期にアイヌ革命は唱えられた。

スターリンは、北海道をロシア領にとヤルタ会談で言っていた。

これを蹴飛ばしたマッカーサー。

大田龍氏には、死ぬまでには、アイヌ革命の本当の所を書いてもらいたいとも思うが・・・・無理かなあ。

こんな史実もあったのだと日本人は、知っておく責任があるかと思う。