「私たちが話しているのは二つの種類の学ぶことについてです。一つは知識や経験の蓄積を通して行為をすること、そしてもう一つは蓄積することなく、生きるという行為のなかで常に学んでゆくことです。片方は技術的なことには絶対に必要なものですが、関係、人に対する態度は技術的なことではありません。それらは生きているものなので、それらについては常に学ばなければならないのです。もし人に対する態度について学び、その知識に基づいて行為をすれば、それは機械的になり、それゆえ関係は型にはまったものになってしまいます。それからもうひとつ、きわめて重要なことがあります。蓄積と経験の学習の場合、それに注ぐ情熱はそこから得られる利益によって決められます。しかし、利益と蓄積の学習が人間の行動という領域、すなわち心理的な領域に入り込むとき、それは必然的に破壊をもたらすのです。利己心に長けることはある面では進歩をもたらしますが、他の面では不幸や苦悩や混乱の温床となるのです。どんな種類のものであれ、利己心のあるところには関係が開花することはできません。関係が経験や記憶の領域内で開花することがないのはそのためです。」 クリシュナムルティ

昨晩は、早く寝ようと思いつつ・・・・・結局朝の5時まで・・・・・・

僕とAKIRAさんに福地さんと・・・・・その内容は クリシュナムルティに代弁してもらいます。


「芸術家とは明らかに、行為の巧みな人ではないでしょうか。この行為とは生活の中にあるものであり、そのほかにあるものではありません。それ故、巧みに生きることが人を真の芸術家にするのです。楽器を演奏したり、詩を書いたり、絵を描いたりするときには、この巧みさが一日の内の数時間だけ働きます。また、いくつかの異なる分野で仕事をしたルネッサンスの偉人たちのように、数多くの巧みさの断片を持っていれば、もう少しは長く働くでしょう。

しかし、音楽や著作のわずかな時間が無秩序と混乱にどっぷりと使った生の残りの時間と衝突するかもしれません。とすれば、このような人が芸術家といえるでしょうか。芸術的な手腕によってヴァイオリンを演奏してもその眼が名声に向けられている人はヴァイオリンンに関心があるのではなく、ただ名声を得るために腕を磨くだけであり、音楽よりも私がはるかに重要なのです。そして、それは名声を得ようとする作家も画家にも言えることです。


音楽家は美しい音楽と見なすものに私を同一化させ、宗教家は崇高と見なすものに私を同一化させます。このような人たちは自分達の特定の小さな領域においては巧みですが、広大な生の残りの領域を無視しています。ですから私たちは行為の巧みさ、生きることの巧みさとは何かを見いだし、単に絵画や著作や技術の中だけでなく、生の全体を巧みさと美をもって生きるにはどうすればよいかを見いださなければなりません。巧みさと美しさは同じものでしょうか。


芸術家であってもそうでなくても、人間は巧みさと美をもって生の全体を生きることができるでしょうか。生きることは行為ですが、その行為が悲しみを生み出すとき、それは巧みさを失っているのです。それでは、人間はどのような悲しみも、摩擦も嫉妬も、貪欲も葛藤もなく生きることができるでしょうか。問題は誰が芸術家で誰がそうでないかではなく、あなたや他の人たちといった人間が苦悩や歪みなしに生きることができるかどうかです。勿論、偉大な音楽や彫刻を過小評価したり馬鹿にするのは思慮のないことです。


それは自分自身の生を巧みに生きていない人のすることです。けれども行為の巧みさである芸術手腕と美は一日の内の数時間でなく、一日中働いているべきなのです。これが本当の意味での挑戦であって、ただ美しくピアノを弾けばいいというようなことではありません。実際にピアノを弾くときには美しくひかなければなりませんが、それだけでは十分ではないのです。それは広大な畑の中のほんの少しだけを耕しているようなものです。私たちはその全領域と関係を持っています。そしてその全領域が生なのです。私たちが常にやっていることはその全領域を無視し、自分や他人といった断片にだけ集中することです。芸術的手腕とは完全に目覚めていること、それ故生の全体において巧みに行動することを意味します。そしてこれが美なのです。 」クリシュナムルティ