登別出身の知里幸恵(1903-1922)は、アイヌ文学史上最も有名な本『アイヌ神謡集』の作者です。祖母はモナシノウク、叔母が『ユーカラ集』で有名な金成マツという、口承文芸の伝承者でした。さらに、後に北海道大学の教授となる、アイヌ民族出身のアイヌ語学者・知里真志保の姉でした。母語であるアイヌ語に堪能なのは言うまでもありませんが、その美しい日本語は、『アイヌ神謡集』の序文を少し読んだだけでも、誰もが感じ入ることでしょう。

 彼女は、アイヌ語学の第一人者・金田一京助に、アイヌ語学上重要な示唆をいくつも与えました(この貢献がなければ、現在のアイヌ語学は成り立たなかったと言っても過言ではありません)。その金田一のすすめで、彼女は口承文芸の文字化に着手しました。短い期間に数々のノートと『アイヌ神謡集』の原稿を残すも、生来の病弱がたたり、滞在先の東京で、わずか19歳で亡くなりました。


彼女の日記が現存しています。

その一部を紹介します。

六月七日 朝


悪に敵するなかれ。人汝の右の頬をうたば亦外のほゝもめぐらしてこれにむけよ。
人汝に一里の公役を強なば、これとともに二里行け。汝に求るものには予へ、借らんとする者をしりぞくるなかれ。
汝等の敵を愛み、汝等を詛ふ者を祝し、汝等を憎む者をよこし、なやめせしむる者のために祈祷せよ、神の子とならん為に……
天の父が日を善者にも悪者にもてらし、雨を義き者にも義からざるものにも降らせ給へり。(馬太五・三九―四六)


此の故に天に在す汝等の父の完全きが如く汝等も完全くすべし。
我汝の指のわざなる天をみ、なんぢの設けたまへる月と星とを見るに、世の人はいかなるものなればこれを聖心にとめたまふや、人の子はいかなるものなればこれを顧みたまふや。
たゞすこしく人を神よりも卑くつくりて栄と尊きとをかうぶらせ、またこれにみ手のわざを治めしめ万の物をその足の下におきたまへり。
すべてのうし、羊、また野のけもの、そらの鳥、うみの魚、もろ/\の海路を通ふものまで皆しかなせり。
われらの主ヱホバよ、なんじのみなは地にあまねくして尊きかな。


神様は絶対公平の愛なのだ。私は広大無辺の宇宙を思ふ時にさう思ふ。そして、また最も小さい小さい虫を見ても草花を見てもさう思ふ。名もない草花、垣根の隅の小さな苔でも時が来れば花ひらき種を残して枯れてゆくではないか。神様がそれを彼にあたへ給ふて、彼の此の世の天職としたまふた。そしてかの小さい花は何の不平も持たぬではないか。彼等はそれでいゝのだ。太陽、星を支配したまふ神様はまたかく最小さきものをも些の乱れなく支配したまふ。
お父様の手紙、お父様がさういふ事をお書きなさらうとは夢にも思はなかった。


――人間は何が苦しいと云って、不快な程不幸な事はないであらうと思ふ。其身も将来家を営む上に充分注意を要するべく、其身世間のおかげで勉強して大な智恵袋に一ぱい智恵をつめこんでも、不健全な身体を持ち、不愉快な日を送る様では、何にも知らずに日々荷ナワを背負って薪木を拾ふ人、わらびをとって市に売る人々の方が何程幸福であるかわからぬのである。私の心配する処は其所にあるのですから、必ず/\注意すべきであります――。然り。お父様よ、其の通りで御座います。健康は実に人間の幸福の源でありませう。健康な人は日々の仕事も楽しく快くキパ/\やってのけるでせう。思ふがまゝに其のからだを動かして、夫の為、親の為、子の為、人の為につくすでせう。


おゝ健康! 何といふいゝ物でせう。私はすべての人が何うぞ此の健康を得る様にと望みます。そして、私もそれが欲しう御座います。ですけど如何にせん、私には健康がありません。私の生命の源泉である心臓が不健全なのです。一秒々々、ちっともやすまずに湧出づる血潮をせきとめるかたい弁があるのです。しかもその障碍物は私の心臓から取去る事は出来ない、一生出来ない。それも私には無くてはならぬものだから……一度硬くなったそれは再びもとのようにはならないのであらう……。では私は、一生涯不健全な身体で、日々鬱々と不快な時を過さねばならないかしら……。おゝそれではあまりに不幸ではないか。神様は私の罪の償に健康を取上げ給ふた。しかし神様は私を愛したまう……愛の鞭。


病苦をあたへ給ふて私を錬りそして、心の健康をとらしめ給ふのだ。心に安心歓喜をあたへ給ふたのだ。私の心に悪魔が働く。私はもし充分な健康を持ってゐるならば、私は必ずやそれを無上のほこりとして、神を忘れ、世の人を忘れて己のためのみの人間になってしまふであらう。神様よ感謝します。私は弱い身も魂も神様にまかせてさゝへていたゞきますから、安心があり歓喜があります。


何卒お父様御安心下さいませ。私はかうして神の愛をさとりましたから。世の同病者の為に心から祈る心が起る。人に健康を失はせまいといふ努力を心からする事が出来る。私は病苦を通して神様からかういふ賜をいたゞいたのだ。私の身は神に任せ、よろこびと感謝にみちた愛の笑顔を持って人に接しませう。



七月十二日 晴、終日涼


奥様が、来年の春までゐて頂戴と仰る。勿体ないこと。
岡村千秋さまが、「私が東京へ出て、黙ってゐれば其の儘アイヌであることを知られずに済むものを、アイヌだと名乗って女学世界などに寄稿すれば、世間の人に見さげられるやうで、私がそれを好まぬかも知れぬ」と云ふ懸念を持って居られるといふ。さう思っていたゞくのは私には不思議だ。私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。何処にシサムのやうなところがある


たとへ、自分でシサムですと口で言ひ得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない、そんな口先でばかりシサムになったって何になる。シサムになれば何だ。アイヌだから、それで人間ではないといふ事もない。同じ人ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ。私がもしかシサムであったら、もっと湿ひの無い人間であったかも知れない。アイヌだの、他の哀れな人々だのの存在をすら知らない人であったかも知れない。しかし私は涙を知ってゐる。神の試練の鞭を、愛の鞭を受けてゐる。それは感謝すべき事である。


アイヌなるが故に世に見下げられる。それでもよい。自分のウタリが見下げられるのに私ひとりぽつりと見あげられたって、それが何になる。多くのウタリと共に見さげられた方が嬉しいことなのだ。


それに私は見上げらるべき何物をも持たぬ。平々凡々、あるひはそれ以下の人間ではないか。アイヌなるが故に見さげられる、それはちっともいとふべきことではない。
ただ、私のつたない故に、アイヌ全体がかうだとみなされて見さげられることは、私にとって忍びない苦痛なのだ。


おゝ、愛する同胞よ、愛するアイヌよ!!!

『アイヌ神謡集』にはこういう話があります。

悪い心を持つキツネが暴風の魔を呼んで、人間の舟を嵐に巻き込ませて、乗っていた三人の内二人を殺してしまう。もう一人もあと少しというところで、怒った彼の放った矢によってキツネは首を射抜かれてしまう。キツネは、苦しみのあまり昼も夜も七転八倒しながら意識を失う。ただの人間と思って見くびっていたのに、彼はオキキリムイという偉い神であった。キツネは彼の家に連れて行かれて、「位の高いキツネの神様は、死に方も見事なものですね」と皮肉を言われて、上顎をオキキリムイの便所の土台に、下顎をオキキリムイの妻の便所の土台にされて、体も腐って、悪臭に苦しみながら死んでしまう。だからこれからのキツネたちよ、悪い心を持つな、という話。



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